金剛獣ノ岩窟の攻略が進むにつれ、ミツミネの多忙はいよいよ極まった。  ミツミネは元来が武家の跡取りだが、文武両道をよしとするのはどこでも変わらない。必定、剣は勿論のこと武芸百般、加えて書や算術にもミツミネは覚えがあった。イクサビトの里では勘定方を手伝ったりと、事務処理にも自信はある。  今はもう、自信があった、と……過去形で語らねばならないが。  それというのも、眼前の才女の仕事ぶりがテキパキと見事過ぎるからだ。 「ミツミネさん、両ギルドの決算書ができました。目を通してポラーレさんとコッペペさんへ」 「はっ!」 「それと、里の薬品類をチェックリストで確認しておきました。不足分はタルシスで」 「は、はぁ」 「それから、こっちは――」 「お、お待ちくだされ! 流石にこの量は」  ここは師匠でもあるヤマツミの庵だ。今はヴィアラッテアとトライマーチの、里での事務的な拠点となっている。冒険とはなにも、迷宮を探索してモンスターとの戦闘をこなすだけではない。こうして補給線を維持し、持ち帰られた素材を換金して備品を揃える仕事も大事だ。  だが、ミツミネは自分の机の上に山と積まれた書類の束を前に、閉口して視線を逃がす。  奥の間で両ギルドと里の調整役に忙しいヤマツミが、カカカと笑って膝を打った。 「アルマナ殿、そうミツミネめをいじめてやりますな」 「す、すみません。つい、久しぶりの机仕事で。私としたことが無為に張り切って」  アルマナは自分でも仕事のさばき過ぎに気づいたのか、慌てて手を手で握って頭を垂れた。すっかり恐縮してしまった様子で、ミツミネとしても慌ててとりなし、あせあせと手を振る。 「いえ! いいのです、アルマナ殿。このミツミネ、まだまだ未熟にて……」 「私こそ、そちらの作業も顧みず……これではいけませんね」  ニコリと笑って、恥ずかしそうにそそくさとアルマナは他の書類をまとめて横へと追いやった。時はすでに夕闇迫る逢魔の刻、外ではそぞろに歩く者達が下駄を奏でていた。  今宵はタルシスの民やウロビトたちを招いての、年に一度の夏祭だ。  イナンナとの約束もあったが、ミツミネは仕事に一定の目処を付けねばこの場を離れられない。そういうことはイナンナも理解を示してくれるという確信があるので、気にしてはいなかったが……だが、かわいい許嫁が祭を楽しみにしていたのも知っているのだ。  その時、庭の方からカラコロと可愛い下駄の音が連れ立ってやってくる。 「よぉ、ミツミネの兄貴! アルマナの姉御も。……まだ終わらねぇのか?」 「ファレーナねーさま、こっちですわ。ミツミネにーさま、やっぱりまだお仕事でしたの!」 「リシュ、そう手を引っ張らないでくれ。慣れない着物で少し……こんばんは、お疲れ様です」  浴衣姿で現れたのはラミューで、その後に続くファレーナはリシュリーに手を引かれている。どうやら三人共、夏祭に繰り出す途中で顔を出してくれたようだ。  ぴょこりと縁側に上がり込んだリシュリーに、奥から出てきたヤマツミが破顔一笑。 「ミツミネにーさま、アルマナねーさま、それにヤマツミおじさま! お疲れ様ですわ!」 「おうおう、今日もリシュリーちゃんは元気よのう! 結構、結構! 浴衣も似合っておる」 「イナンナねーさまが着付けてくれました! ミツミネにーさま、まだお仕事ですの?」 「と、言うておるぞ、ミツミネ。イナンナのためにも、今日はこのへんであがっておけい」  リシュ、とファレーナが窘めて、慌ててリシュリーは口を噤む。だが、彼女はうっかり急かしてしまった自分を恥じつつも、上目遣いにもじもじと呟きを零した。 「イナンナねーさま、待ってますの……でも、ミツミネにーさまはお忙しいからって」 「……ふむ、子供に気を遣わせてしまうとは。申し訳ない、リシュリー姫。いや――」  ミツミネは少女の頭に手を載せ、銀に染めた髪を撫でる。 「ありがとう、リシュリー姫。……では、お言葉に甘えます、師匠」 「うむ。アルマナ殿も。今日はここまでとしましょうぞ。残る帳簿は、また明日と……アルマナ殿?」  だが、せっせと筆を動かしていたアルマナは、リシュリーたちに微笑むと顔をあげる。 「しかし……まだ整理すべき案件が残っていますし。あ、私でしたらお気遣いなく。ミツミネさん、どうかイナンナさんと楽しんできてください」  そう言って仕事を尚も続けようとするアルマナの、その肩にポンとヤマツミが手を置く。 「まあ、そう言いますな、アルマナ殿。我らイクサビトの里には、こんな格言もありますゆえ。明日できる仕事を今日片付けるな、と……時には休息も必要でしてな」  だが、アルマナは戸惑いがちにはにかみながらも、筆を置こうとしない。 「では、この書類だけ……これだけ片付けてしまいますね。フランツ王国にもこんな言葉があります……今日できる仕事を明日へ持ち越すな。ふふ、お国柄でしょうか」 「ですな。しからば、その案件のみ片付けて、今宵はこれにてということで」  アルマナのうなずきを拾って、ミツミネは屈みこむとリシュリーの目線の高さに己を並べる。 「そういう訳なのだ、リシュリー姫。悪いがイナンナと共に先に祭へ行っててくれぬか? 遅くならぬうちに必ず、合流いたすゆえ。勿論、アルマナ殿も師匠も一緒だ」 「はいっ! ミツミネにーさま、約束ですっ! ふふ、イナンナねーさまも喜びますの」  差し出されるリシュリーの小指に、ミツミネも笑って小指を絡める。  そうして指切りを交わしたあとで、彼女はラミューやファレーナに連れられ行ってしまった。最後に一度だけ、ファレーナが振り返って微笑む。 「アルマナ、君の浴衣も用意したのだが……よければ一緒に」 「あ、ありがとうございます、ファレーナさん。でも、私は。すみません、お気持ちだけ」  妙な沈黙を挟んだ後、アルマナの笑みが憂いを帯びた。  それを敏感にミツミネは察したが、同じく察したであろうファレーナがなにも言わずに去ったので、あえて追求せずに机へ戻る。その時、ヤマツミが、己の髭を撫でながら口を開いた。 「行ったか……華やいで眩しい娘っ子たちよのう。さて……そろそろ話してくださらんか、アルマナ殿。なにゆえ竜を追い、挑もうとなさる。それに、そのいでたち」  再び三人になった庵の中で、ヤマツミの言葉が静けさを連れてくる。  遠くに響く祭り囃子と、庭で未だ鳴く蝉の声だけが、周囲の空気を満たしていった。  ミツミネのみならず、仲間たち全員が不思議に思っていた。増して、美しき女銃士に目を奪われた男たちなら皆が皆そうだ。彼女はどうして、この暑い夏の日にも、長袖を着込んで手袋をしているのだろう? スカートをはく姿など誰も見たことがなく、肌の露出は白磁のようなその顔だけだ。 「見ておれんのよ、アルマナ殿。そなたは美しい……それなのに、暗い影が覆うばかりか、今にもそなたを飲み込まんとしておる。ワシにはそれが悲しくてならん」  ヤマツミの言葉には全面的に同意だったし、それは常日頃ミツミネも感じていた。だからこそつい、出過ぎた真似と知っていても口を挟んでしまう。 「仲間としてお力になりたいのです、アルマナ殿。もしや、深刻な何かを抱えておいででは?」 「うむ、ミツミネめも気付いておる。……子供たちもきっと、小さな胸を痛めていようぞ」  言えぬ秘密あらば、その秘密ごとアルマナを受け入れ共に歩む。そういう気質と気概が同居するのが、イクサビトという生き方だ。だから無理に語らせはしない、しないが……この麗人が時々、ミツミネにも痛々しくて見ていられなくなる。仕事に励む姿と、人に優しく接する姿以外、見たことがない。彼女はまだ、彼女自身という個人、私人の姿を見せてくれないのだ。  そんなアルマナが立ち上がると、二人に背を向け縁側に立った。  その向こうには今、祭の提灯が並んで民の歌と楽器の音で揺れている。 「……他言無用に願います。そしてできれば……どうか、哀れな私めに知恵をお貸しください」  不意にアルマナが、上着とシャツを脱いだ。顕になるうなじから両肩、そして背中へと曲線を描くライン。白い肌の眩しさよりもしかし、別種の物がミツミネから言葉を奪った。 「し、師匠。これは……!?」 「アルマナ殿、これが……そなたの背負うた業か」  アルマナの白い肌に、漆黒に爛れた鎖のような痕が、まるで火傷のように走っていた。それは、彼女自身を縛るように縦横無尽に肌を犯している。白過ぎる肌を切り裂く闇の、そのコントラストは凄惨な光景だった。 「これが……私が負った、竜の呪い」 「竜の、呪い」 「国と民を焼かれ、多くの同胞を奴に……そして私もまた、呪いを受けました。相手は恐るべき巨大な黒い竜です。その呪いは、私から躰の自由を今も……この命、半年と持たぬでしょう」 「なんと……!」  流石のヤマツミも絶句する中、ミツミネは黙って歩み寄る。そのまま震える手で、そっと細い肩へとシャツをかけてやる。肩越しに振り返って見上げるアルマナの表情は、いつもの完全無欠な才女の仮面を脱ぎ捨てていた。 「師匠! この話、我らの胸に今は留めたく……余りに酷い!」  頷くヤマツミもまた、怒りに震えていた。それは、ミツミネと同種の憤り。  己も着飾れぬ身に堕ちて尚、アルマナは残る余命を燃やそうとしている。その相手は、恐るべき漆黒の闇竜……まだ見ぬその翼を思えば、噛みしめる奥歯がギリリと鳴るミツミネだった。