ポラーレ・メルクーリオには悩みがある。  そして今、その暖かくも柔らかい悩みの種に苛まれているのだ。 「あ、あの……」 「もう少し、もう少しだけ。頼む、今しばし」  上ずる声をあげても、その抱擁は解けない。冷たく硬い異質な右手ですら、毛並みを撫でてくれれば涼やかで心地よいのだが……だが、それがまたよくない。  ポラーレ・メルクーリオは悩んでいた。  第三迷宮、金剛獣ノ岩窟の探索は順調だ。すでに第四階層の調査も佳境を迎えており、今日明日にもホムラミズチの巣が見つかるだろう。その過程で道に迷ったタルシス兵を保護して誘導したり、滋養満点のキノコを里に届けて振る舞ったりした。アイテムの備蓄も完璧だし、仲間たちの士気も高い。  決戦への準備は万端なのだが、やはり悩ましいのは―― 「な、なずな君……そろそろ、僕から離れてもらえないだろうか」  記憶喪失のなずなが、妙に自分に懐いていることだ。それも、容姿を黒い大型犬サイズにしている時に限ってである。  なずなはかわいいものに目がないらしく、こうして抱き寄せ撫でてくれるのだ。  これぞまさしく、天にも登るような地獄行き……凄く、居心地が悪い。今まで異性を、それも若い娘を意識したことなど、ポラーレにはないのだが。最近はどうしても、他者の体温を感じると白い影を脳裏に思い描いてしまう。  その興味の持ち方を、人がなんと呼ぶかも知らないままに。 「すまない、ポラーレ殿。でも、もう少し……ふふ、ふわふわのもこもこだな」 「それは、どうも……」  なずなはポラーレの首を抱きしめ、その艷やかな毛並みに頬を寄せる。そんな時、無表情な彼女の頬が少しだけ緩むのだ。何より、愛娘にそっくりな声が耳元で甘く囁くのだ。 「なあ、ポラーレ殿……記憶を失う前の私は、どんな人間だったのだろうか」 「えっと、その……僕に聞くより、コッペペやヨルンに聞いたほうが」  もっともな言葉を返しつつ、されるがままに喉を鳴らしてしまうポラーレ。  だが、黙って瞳を伏せるなずなに変わって、からかうように剽げた声が飛び込んできた。  白い痩身の麗人を引き連れて。 「はっはっは、愚妹がすまんなポラーレ。こやつ、知りたがるのに知るのが怖いのじゃ。怖いから、よく知らぬ貴殿に甘えおる。しょうがない奴じゃのう」  煙管に紫煙をくゆらせるのは、なずなの姉しきみだ。  その背後には、なんだかいつにもまして無表情を固くしたファレーナの姿がある。  目が合った時、ポラーレはじっと見つめてくるその綺麗な瞳から、思わず目を逸らしてしまった。それは、ファレーナもまた目を背けるのと同時。 「姉様、そういう訳では! ……ない、ことも、ない、です」 「ぷっ! よせよせ、なんじゃ姉様というのは。こそばゆいのう、なずな」 「貴女は私の姉だと聞きました。覚えてませんが、私もそう感じます。だから――」  不安げに憂いを帯びて、切なげになずなの眦が下がる。ギュム、と抱きしめてくる手は震えていた。ポラーレにはわからない、記憶を失うことがどれだけ恐ろしい痛みを伴うかが。だが、想像だに難くない自分が今はいた。  記憶は、彩りに溢れた人の記録、その集合体だ。七色に眩しく、時にセピア色にくすんだ思い出……それを無くせば、きっと誰もが誰でもなくなってしまう。ポラーレもまた、愛娘や仲間との記憶を無くせば、昔の殺人生物に逆戻りだった。 「ふん、まあよいわ。それよりファレーナ。お主も機嫌を直せい。美人が台なしぞ?」  ぷかりと煙の輪っかを天井へと打ち上げ、振り向くしきみがニカリと笑う。  そこには、豆鉄砲を食らった鳩のように目を丸くして、自分を指差すファレーナがいた。 「……私は怒っていませんが」 「怒っているとは言うとらん。怒りたいかや?」 「いえ、別に」 「むふふ、お主もかわいいのう! ええ? まだ気付かんかのう、その胸に燻るもんに」  肘でうりうりとファレーナを突っつきながら、しきみが唇を兎のようにゆるめて笑った。当のファレーナは肯定もしないが、かと言って否定もしない。ただ、いつもと同じ涼しげな表情で……それを作って、しきみと言葉を交わしていた。  気づけばその横顔を、見詰め続けている自分にポラーレは気付く。  だが、そんな穏やかな空気を引き裂く足音が部屋へと飛び込んできた。 「ポラーレ殿! ヴィアラッテアのポラーレ殿はどこにおわします!」  馬頭のイクサビトが、文字通り早馬のように息を切らせて飛び込んできたのだ。  反射的にむくりとポラーレは起き上がり、そっとなずなから離れる。 「僕は、ここに。……迷宮でなにか、あったんだね?」  イクサビトの里は皆、冒険者に協力的だった。それは、わざわざ大地を超えて訪れてくれるウロビトの術師たちも同じ。共に手を携えて病に挑み、冒険者を支え、迷宮を行き来してくれる。多くのパーティにチーム分けされたヴィアラッテアとトライマーチの両ギルドは、二つの種族の尽力によって円滑な調査を進めていた。  そして今、その結果に何かしらの動きがあったのだとポラーレは直感した。 「レオーネ殿のパーティが見つけ申した! 『我、ホムラミズチ発見セリ』とのこと! 繰り返します、『我、ホムラミズチ発見セリ』……ポラーレ殿? はて、声はすれども」 「ああ、ごめんごめん」  吉報を前に、ゆるりとポラーレは身を起こす。  たちまち黒い犬はその輪郭を解いて崩し、次の瞬間には一人の青年を浮かび上がらせた。  息を切らせた伝令の男は、その息をするのも忘れてハッとなる。 「ポラーレ、あまり驚かせては。あなたの悪い癖です」 「だ、そうじゃぞ、ポラーレ。ファレーナの言う通りじゃ」  美女二人が交互に言うので、ポラーレは「……う、うん」と小さくなるしかない。実際小さくなったし質量が減って、ともすればペシャンと平面になりかけたが。だが、威厳を保って実際的な話をするべく身を正す。 「伝令ありがとう。ええと、レオーネ君たちは」 「余力に乏しいため、引き返すとのことです!」 「じゃあ、コッペペやサジタリオとも連携して――」 「すでに動いておられます。ご両名は今、ホムラミズチへの最短ルートを再制圧中」  なんとまあ、仕事の早いことだろう。だが、それはそれで結構なことで、自分が逆の立場でもポラーレは不思議に思わない。危険な迷宮内で、ついに目標の居場所を掴んだのだ……そこへの最短ルートで魔物や障害を片付けるのも、ポラーレが学んだチームワークだから。 「よし、じゃあ行こうか……ええと、パッセロ君やクアン君は診療所から動けないから」 「わし等を連れゆけい、ポラーレ。なあに、久々に戦場働きするぞよ? のう、ファレーナ」  まるで花見にでも行くような気楽さで、しきみがニッカリ笑って上体をかがめる。そうして上目遣いに見つめてくるので、ついついポラーレは頷いてしまった。その時にはもう、「ではわたしは準備を」とファレーナは出て行ってしまった後だった。  そして、背後で立ち上がる気配が声を連ねる。 「私も行こう。姉様、ポラーレ殿、連れて行って欲しい……私も、戦える」  勿論、なずなは記憶を失えども、その力は些かも衰えていない。頼もしい仲間として一緒に戦うことで、もしや記憶がという思いもポラーレにはあった……そこまで気が回って気遣える程度には、ギルドマスターが板についていた。 「よし、じゃああとは――」 「私もご一緒してよろしいかしら? ふふ、これをヤマツミ様からこっそり拝借してきたわ……駄目なんて言わせないから。役に立つわよ? 私も、この剣も」  いつからそこに居たのだろう? 気付けば部屋の壁に腕組み寄りかかる姿があった。それは、葉の陰か草の露に羽根を休める蝶のよう。  ファルファラは手にした太刀を小さく鍔鳴りに鳴らす。  どういう訳か、ポラーレ以外皆女性、それも多種多様な色香に匂う美人揃いだ。 「姉上、急ぎましょう」 「じゃからその姉上というのはやめい。ファルファラ、お主も珍しいのう? なんじゃ、お主が動くってことは……美味しい話でもあるのかのう」 「あら、人を打算の権化みたいに言わないでくれるかしら? 打算は当然、あとは……親切よ」  いけしゃあしゃあとファルファラが、聖女のようにまばゆい笑みを作った。  だが、次の言葉がポラーレの背筋を凍りつかせる。 「若い娘が揃ってホムラミズチに向かったの。私、止めたのよ? でも……大丈夫かしら、グルージャちゃんたち」  その名を聞いた時にはもう、ポラーレは部屋を飛び出していた。