ホムラミズチの鱗が排除された回廊は今、外からの冷気が忍び込んでファレーナを震えさせる。凍えた空気の中を、ポラーレを先頭とする五人の冒険者は歩いた。  最後尾を歩くファレーナの視線は、黒いクロークを揺らす背中へと吸い込まれる。 「あらやだ、熱視線……? ふふ、そんなに見詰めても彼は振り向かないわよ」  ふいに気配のない隣が喋った。  それで見下ろす横に、気付けばファルファラが並んでいた。微笑を湛えるその目元だけが、挑むようなまなざしをファレーナへ向けてくる。 「わたしは、別に。ただ、向かう先を見据えているだけだが」 「そんなこと言わないの。ふふ……コッペペから聞いたわよ? あの人、胸の中でちょっと甘えてあげれば、すぐ」  しっとりと濡れた唇を意味ありげに歪めて、別種の笑みを浮かべるファルファラ。その脳裏に蘇る一夜の色香が、ファレーナにも匂ってくるような錯覚さえ感じて。気付けばファレーナは形良い柳眉をひそめてしまう。  だが、ファルファラはお構いなしだ。 「ねえ、ファレーナ。あなた、ポラーレのことが気になるんじゃないの?」 「ええ」  言葉の意味をそのままに捉えて、即答。  それで今度は、ファルファラが意外そうに目を丸くした。そんな時の彼女の表情は、今までの毒婦のごとき妖艶さが掻き消える。ともすれば少女のようにあどけない、そんな一面がファレーナの視界で目を瞬かせた。 「それは、また……まあ、意外な答ね。知ってたけど……ふぅん、そうくるのね」 「興味深い対象だと思っているし、ギルドマスターとしても信頼しているし」 「しているし?」 「……好奇心と探究心の向く先にあの人がいる。それだけ、だと、思う、けど」  頬が熱くなるのを感じて、思わずファレーナは視線を逸らした。どうして息苦しいのかが分からないが、自分が嘘をついたとも思えない。  そう、ポラーレ・メルクーリオは彼女の尊敬するギルドマスター。……時々どうにも頼りないが、全幅の信頼を寄せる人物だ。仲間、なのだ。その他に彼を形容する単語を知らないのに、言葉にならない気持ちがどうやら燻っていて、その表現方法をファレーナは知らない。  だが、そうして不確定な微熱に白い肌を染めるファレーナの前で、ファルファラが言い放つ。 「あの人、ねぇ……ふふ、でも知ってるでしょう? 彼、人間じゃないわ。亜人でもないの……彼はこの世で最も美しく純粋な絶対兵器。殺戮と破壊のために生まれた狂気の権化なのよ?」  ファルファラの細められた瞳の中に、暗い光がゆらりと揺れる。  放たれた言葉の意味をもう、ファレーナは直接目にしていた。あの日、自分と巫女を救ってくれたのは……冷たい殺意に燃える、闇より暗く影より深い漆黒。荒ぶる黒狼竜こそが、ポラーレの本性なのかもしれないし、もう一匹の彼だ。  だが、その真実を秘めていてさえ、ファレーナの興味は好意的に注がれる。 「それは違う。そうあれと生まれた生命かもしれないが……そうありたいと思ってはいないように感じた。生まれを選べずとも生き方を選べる、それは皆……ヒト、人間だと思うが」 「真面目なのね、ファレーナ。はいはい、ごちそうさま」 「? わたしはなにももてなしてはいないが」 「いいのいいの。でも、覚えておいて欲しいのよ……彼に関してはまだ、私の方が詳しいから」  ファルファラの表情が真剣味を帯びた。声も固く尖って鋭くファレーナへと向けられる。 「彼はあなたを見てはいないわ。目に入らないのよ……ほら、今も愛娘のことで頭が一杯」  そう言って指差す先では、ポラーレが淡々とヨウガンジュウを処理している。無造作に振るわれる剣は鋭く光って、刻んだ溶岩のバケモノを空気中へと溶かし尽くしていた。  魔物の絶叫が響く中、残された素材を拾う間も惜しんでポラーレは先へと進む。 「なんじゃあ、ポラーレ。素材も売れば金になるじゃろうに……もったいないのう」 「姉様、空気を読んでください、空気を。さ、急ぎましょう」  スナイパーの姉妹が続く先にもう、曲がり角を折れてポラーレは消えていた。  歩調を強めるファレーナの一歩先を、ファルファラは踊り子の衣装をふわふわ棚引かせて進む。もう彼女は、ファレーナになにも語りかけてはこなかった。  変わって腰に無造作に下げた太刀が、鞘の中でリン、と小さく鳴る。  先ほどの会話の意味を考えながら、ファレーナが仲間たちへ追いついたその時。視界が開けて大きな部屋で迷宮は行き止まりになっていた。  ――否、そこには巨大な扉がファレーナたちを待ち受けていた。  その前に今、見知った仲間たちがずらりと並んでいる。 「ポラーレの旦那! っしゃ、間に合ってくれたぜ、流石は旦那だ」 「クラッツ君、グルージャは! ラミュー君たちは、もしや」 「ついさっき、止めるのも聞かずに中に……この奥だぜ、ホムラミズ、チィ!? ……痛ぇ!」  どうやらクラッツは負傷しているらしく、その横ではフミヲがせっせと包帯を巻いている。すでに消毒を終えたであろう傷はまだ、覆う布地を朱に染めていた。  この場に待っていたのは、シャドウリンクスの面々とエミット、そして、 「ポラーレ殿! お急ぎを……乙女たちが中へ。私もお伴したいのですが、彼を捨てては進めません。クラッツ殿はサーシャ殿をかばって」 「おう、それだよそれ! 騎士様、その盾ぁ飾りかよ! 騎士が術師守らねえでどーすんだゴルァ! だいたい手前ぇ……いっ、いででで! まて、まてまてフミヲ、まっ――☆&%#!」 「……面目ない」  どうやら、レオーネは相変わらずフォートレスとしてはいささか頼りないようだ。  だが、その肩にそっと手を置きエミットが気遣いの頷き。その表情はしかし、妹にして姪を心配するあまりに青白く凍っていた。 「よし、レオーネ君たちは下がってくれ。後は引き受ける……グルージャ、どうして無茶を」 「……なにかこう、御息女は気負っておりました。ラミュー殿もです。きっと、イクサビトたちの手当でここ最近、巫女の疲労が限界に近いからでしょうが。しかし」 「うん。でも、そこで無謀を犯せばそれは……一流の冒険者とはいえない」 「ですが、気持ちはわかるのです。……しかし、今の私は、力になれない」  レオーネの沈痛な面持ちを前に、ファレーナは見た。  恐らくそれは、不器用なポラーレなりの気遣いだったのだろう。その貼り付けたような無表情が、薄い唇が僅かに穏やかな曲線を描く。  ポラーレは、肩を落とす仲間に微笑みかけた。らしかった。 「大丈夫さ、レオーネ君。むしろ、この部屋をよく見つけてくれたよ。さて……グルージャに甘いだけじゃ、僕も人の親と言えないからね。しっかり助けて、叱ってやらなければ」  次の瞬間には、ファレーナは先程のファルファラの言葉を思い出す。  ポラーレ・メルクーリオは冷徹で残酷な殺戮機械。  今はもう、見るものの心胆を寒からしめる氷の表情で、両手に剣を握っている。  まさしくそには、修羅をも喰らう悪鬼羅刹の化身がいた。そして、優しい錬金生物を本来の闘争本能へと駆り立てるのは、愛しい我が子への思慕の情なのだ。  ファレーナにはそう思えたし、不思議な確信があった。 「ポラーレ殿、お供つかまつる。姉様も存分の戦働きを。私も援護しますゆえ」 「おうおう、ここにも気張って気負った奴がおるのう。……うむ、よき闘志ぞ。それでこそ草壁一門の女じゃあ。しからばわしも、ちっくと腕を振るうかのう」 「あらあら、二人共張り切っちゃって……さ、行きましょう。いいわね? ファレーナ」  分厚く高い扉へ手をかけるポラーレの横で、ファルファラが振り返る。  ファレーナは黙って頷いたが、扉を開こうとする背中に一度だけ声をかけた。 「ポラーレ」 「ん? どうしたんだい、ファレーナ。ああ、うん。大丈夫。心配しないで、僕が君たちも守るから」 「そうではありません。あなたに一番守って欲しいのは、あなた自身。無理は、いけない」 「……ありがとう。心に止めておくよ。でもね……僕は今、己を顧みてる余裕がもてないかもしれない。グルージャたちを救って、君たちも守って……そ、その、なによりも、うん」  ――君をこそ、守りたいから。  確かにそう言われた気がした、その瞬間。  ポラーレが開け放った扉から、全員の言葉と呼吸を奪う熱波が吹き荒れた。