強き風は、より強き炎を育む。  その伝承が眠るこの地を、誰もが静かにこう呼んだ。……風止まぬ書庫、と。  今、新たな気球艇の動力源を求めて、ポラーレたちは帝国領の外れへと潜入していた。手薄な警備とは裏腹に、風止まぬ書庫はひしめく凶暴なモンスターと、鬼哭にも似た風鳴りで冒険者を出迎えた。 「しっかし難儀な風だなあ、おい? っと、こっちの扉だ」  サジタリオが開いた扉の先で、気圧差が渦巻き仲間たちを吸い込む。  風は建物の上層から吹き付ける。  吹き荒れる烈風を避けるように、扉伝いの探索が続いていた。 「まあ、なんて風でしょう。ミツミネ様、御注意を」 「大事ない。それよりイナンナ、この先に……殺気」  ふと扉を抑えて立ちながら、ポラーレは若い男女へ道を譲る。モノノフのミツミネとイナンナは、互いを守り合うように扉の先へと消えていった。風の吹き抜ける回廊では、空気の層が唸りをあげている。その中で壁を伝う二人が、不思議と眩しくてポラーレは目を細めた。  隣に相棒が立つのも気付かずに。 「おい、ポラーレ? なんだよお前、ボーッとしちまって」 「サジタリオ」 「ああ、あの二人か。いいもんだよな、将来は夫婦になるんだってよ」 「夫婦……」  夫婦。それはポラーレにとって、酷く実感の沸かない関係性だった。知識として存在しても、それを想像することすらできない。ただ、自分には望んでも得られぬものというのは、よくわかる。生きとし生けるモノが番になるのは、子を成し育むためだから。 「ポラーレさん? あの、サジタリオさん。ポラーレさんの様子が」 「おい相棒! お前がシケた面してっから、アルマナだって心配するだろうがよ」  気付けば、最後尾に立っていたアルマナが真剣に顔を覗き込んでくる。その白い表情に薄い笑みで応えて、ポラーレも先へと急ぐ。その背中は、旋を巻いて唸る風の中にサジタリオの溜息を聞いていた。 「ま、無理もねぇか。なずなちゃんもしきみも怪我でリタイヤ、レオーネの野郎は帰ってこなかった。オマケにヨルンの旦那は重傷で意識不明ときてる」  サジタリオの言葉にアルマナも頷く。 「それでも、グルージャさんたちを帝国領での探索に連れ行くわけにはいきません。ラミューさんと瓜二つの敵、それはあまりにも酷というものです」  実際、それはポラーレにもわかっていたし、その気遣いが嬉しくもあった。まだ十代の少女たちには、この先に待ち受ける難敵は些か荷が重い。  ただ、冒険者たちの人手不足は、いよいよ深刻な問題になりつつあるのだった。  そのことが憂鬱で、ついポラーレの口から弱音が零れ出る。 「これから先、僕はどれだけのモノを失い亡くしていくのかと思うと」 「おっと相棒、弱気は禁物だぜ? いつもみてぇな仏頂面の鉄面皮で、平然としてりゃあいいんだよ。ええ? おい」 「でも、サジタリオ」 「誰がいなくなったって、俺ぁ手前ぇの隣にいてやる。預かった背中は誰にも渡さねえ……手前ぇは俺の獲物だからだ。それに」  サジタリオの言葉尻をアルマナが拾った。 「それに、ポラーレさん。なくしたものは取り戻せばいいのです。取り戻せるうちは、ベストを尽くさねば……残る時間の全てを賭して」  その言葉に、ポラーレもようやく表情を和らげた。だが、対照的にアルマナは決意に目元を険しく進み出す。その全身に張り詰める緊張感は、決意というよりは覚悟を感じさせた。  だが、そのことに気付く間もなく、ポラーレは仲間の声に先を急ぐ。 「ポラーレ殿! この扉の先……なんたる殺気か」 「ミツミネ様、お下がりを! わたくしが先ずは」  二人のモノノフ、ミツミネとイナンナが、扉を挟んで壁に張り付いていた。  風を避けつつポラーレは、ゆらりと巨大なドアの前に立った。  目の前の豪奢な扉は今、その奥から強烈な邪気を発散させている。風が吼える気流の中に、そのドス黒い覇気が見えるかのよう。  後から来たサジタリオとアルマナを手で制して、ゆっくりとポラーレはドアを開いた。  バン! とたちまち開いたドアが風にさらわれ、壁に強く叩き付けられる。その音の向こうから、酷く懐かしい声をポーラレは拾った。 「ポラーレ……どうしてここに!」  目に入る純白を認めて、ポラーレもまたその名を呼ぶ。 「ファレーナ! それは僕の台詞で、でも、君は無事で? どうして」  だが、再会の視線と視線とが結ぶ間に、ゆらりと邪魔が割って入る。  両のポケットに無造作に手を突っ込み、現れたのはクラックスだ。 「やあ、兄さん。必ずここに来ると思ってたよ? ハハッ、僕は何でもわかっちゃうんだな」  今、逆巻く風の音を纏って、再びポラーレの前にクラックスが立ちはだかった。  その背後には、台座に燃え盛る黒い炎と、その根本に縛り付けられたファレーナの姿。  黒き炎の前、白き麗人の見守る中……禁じられた兄弟は再会を果たした。 「おいポラーレ! 奴ぁファレーナを人質に」 「なんと卑劣、卑怯極まる! 武人の風上にもおけぬ」 「ミツミネ様、彼の者は武人にあらず……すでに外道」 「ポラーレさん、先ずはファレーナさんの救出を……ポラーレさん?」  血気にはやる仲間たちを、静かにポラーレは手で制した。その腕はもう、輪郭がざわめき人の姿を保てなくなっている。四肢を象る五体の全てが、その形を脱ぎ捨てそうな程に沸騰していた。  だから、ポラーレは無言の圧力で仲間たちを押しとどめると、強い一歩を踏み出した。 「アハッ、兄さん! 怒ってるんだね、わかる、わかるよ……自分の物が奪われるって、たまらなく嫌だもんね」 「ファレーナは……物じゃ、ない。クラックス」 「そうかな? そうだなあ、でも兄さん、ファレーナはもう、僕の大事な宝物なん――」  その時、渦巻く風が鳴り止んだ。  それは、ポラーレの怒気が激昂に逆立つのと同時。正しく、怒髪天を衝く勢いがポラーレを駆動させる。腰の太刀を掴んだ腕は、次の瞬間には音を斬り裂いていた。  抜刀された天羽々斬が、横一文字にクラックスの胴を薙ぐ。  吹き飛ぶクラックスは、その全身に投擲された投刃を幾重にも屹立させながら、壁に縫い付けられた。かに、見えた。 「不意打ちは酷いなあ、ねえファレーナ? 見た? ひっどいよねえ。……次は、僕の、番だ」  波打つ全身からぬるぬると、投げつけられた投刃を零しながら。クラックスは何事もなかったかのように壁から身を起こした。そして、歪な左右非対称の笑みを滲ませながら、高速移動で視界から消える。  慌てず両手で太刀を構えるポラーレは、すぐ耳元に吐息を感じて振り返った。 「兄さん、前から思ってたんだけど」  応えず聞かずに、振り向きざまの斬撃を浴びせるポラーレ。  だが、煌めく刃が空を切る。  そして再び、すぐ間近で声がした。 「いい剣を持ってるよね、兄さんのくせに。その剣、いいなあ……ねえ、僕にくれない?」  加勢に入ろうとするサジタリオたちを眼光で制して、無心にポラーレは剣を振るう。その太刀筋が加速するほどに、クラックスの残像は無数に増えてポラーレを囲んだ。  ポラーレがギアをトップに叩き込むや、熱する空気に天羽々斬が歌い出す。  だが、その切っ先が断ち裂く風の中に、クラックスの姿は消えては現れ、また消える。 「遅い、遅い遅い遅い遅い、遅ぉい! 兄さん、そんなんじゃ名刀が泣くよ?」 「……挑発には、乗らない。限界機動……追い詰めるッ」 「追い詰められてる、のは、兄さんだよっ!」  その言葉を最後に、ポラーレの天地が逆転した。一拍の間をおいて、振動と衝撃。  自分がいなされ投げられたと気付いた時には、大の字のポラーレはクラックスを見上げていた。にやつく彼は今、ポラーレから取り上げた太刀を振りかぶって、 「貰うね、兄さん。兄さんにはもう、いらないでしょ? だって、ここで終わりだから」  真っ逆さまに、胸の核へと刃を突き立てた。  刺し貫かれた瞬間、ポラーレの世界が黒く暗転して音が遠ざかった。  再び風が咽び泣くように吹き始めていた。