眼前の光景が今、ファレーナから呼吸も鼓動も奪ってゆく。  大の字に仰向けで、ぴくりともせず虚空を見詰めるその姿に……ようやく気付かされた。  ファレーナの中に芽生えていたものが好意で、それを伝えるヒトが失われようとしていた。 「なぁんだ、つまらないな……結構あっけなかったね、兄さん?」  クラックスは今、物言わぬポラーレの胸へと、天羽々斬を突き立てている。彼は無邪気な笑顔で一同を一瞥してから、ファレーナを振り返ってニコリと微笑んだ。  そこには、褒美を強請る子供の天真爛漫さが痛々しいほどに鮮やか。 「ねえねえ、ファレーナ! 見た見た、見てた? やっぱり僕のほうが高性能だったよ」 「……ッ! あなたという人は」 「ふふ、怒ってるの? そういう顔も素敵だよ、ファレーナ」  誰もが言葉を失っていた。風鳴りの音に揺れる黒い炎だけが、音を立てて燃え盛っている。  ファレーナはただ、血も流さずに横たわるポラーレから、思わず目を背ける。胸に明滅する彼の核は、その翡翠色の光がどんどん弱まっていった。同時に、床に広げた四肢の輪郭さえも、滲んで溶け消えるようにあやふやになってゆく。  ファレーナの恋は今、愛を結ぶ前に潰えて消えた。  ――かに、見えた。  唸る風を引き裂く、弓鳴りの音が響くまでは。 「っとっとっと、危ないなあ。えっと、君は……確か、始末屋。サジタリオ、だっけ」  気付けば、力なくうなだれる一同の中で、サジタリオだけが弓を構えて形相を険しくしていた。その手から放たれた矢が今、クラックスの脳天に突き立っている。  だが、へらりと笑うクラックスは、その矢を摘んで抜いて見せた。 「無駄だよ、始末屋。闇の狩人。君の矢じゃあ、僕は倒せない。殺しきれるもんか」  それでも、無言でサジタリオが放つ矢が、瞬く間にクラックスを蜂の巣にした。  意外とも思える突飛な、常識の埒外とさえいえる言葉と共に。 「おいっ、逃げろ! いいからさっさと逃げるんだよっ!」  その言葉に、ミツミネやイナンナ、アルマナといった面々も正気を取り戻す。抜刀した仲間たちをしかし、背に庇って無言で制しつつ……サジタリオは声を荒らげて叫んだ。 「手前ぇのために言ってんだ、クソ馬鹿野郎ッ! ああクソッ、やっちまった……クソがっ!」  ポラーレの仇討ちを止められて、ミツミネたちが首を傾げる。  だが、なおもサジタリオは弓に矢を番えながら、苛々と怒鳴り散らした。 「おうこら、クラックスとかいったな、手前ぇ……いいから逃げろってんだ!」 「僕が? えっと……どうして? 僕はこれから、君たちもやっつけちゃおうと思うんだけど」 「……手前ぇはまだ、自分が何をしたのかわかっちゃいねえ」 「ファレーナの前で証明した! 僕が兄さんより優れてるって! それが――」  その時だった。  異変は静かに、しかし確かに部屋の空気を塗り潰してゆく。  全身の矢を引っこ抜くクラックスも、流石に察したようで。  しかし、最初にそれを言葉にしたのは、腰の太刀を居合に構えたイナンナだった。 「! ミツミネ様、影が……ポラーレ殿の影が!」 「なんと! 奇っ怪な、こ、これは……!?」  言わんこっちゃない、とサジタリオが舌打ちをこぼす。  それは、異変に気付いたクラックスが、手にした天羽々斬を引っこ抜こうとした時だった。  ポラーレの身体から静かに無音で影が広がり、あっという間に部屋の床を埋め尽くした。そして、その中に無数の瞳が瞬き見開いて、ギョロリと一斉にクラックスへと視線の矢を射る。  流石のクラックスも、驚きの表情で飛び退こうとしたが、 「あ、あれ? この剣……抜けない? どうして! 兄さんを倒したんだ、これはもう僕の物だ! なんでさ!」  クラックスが握る天羽々斬は、彼が乱暴に引き抜こうとしてもぴくりとも動かない。それどころか、ゆっくりとポラーレの核へと吸い込まれてゆく。  そして、数百とも幾千とも思える瞳がクラックスを睨んで消えると、影はそのまま静かにポラーレへと吸い込まれた。同時に、不自然な角度でスッと漆黒が立ち上がる。  まるでそう、死後硬直した死体が繰り人形の如く糸に吊られたように。 「なっ、なんで!? 確かに僕は貫いた! 兄さんの核を!」  ファレーナの眼前に今、焦りと共に飛び退いたクラックスが動揺も顕で。  そんな彼の視線の先で、ガクガクと不気味に鳴動するポラーレが、自分の胸に突き立つ天羽々斬を、その乱れ刃を素手で掴んだ。  そのまま彼は、静かに自分の中へと天羽々斬を埋め込んでゆく。  そして、諦めにも似たサジタリオの声が響いた。 「クラックス、手前ぇは貫いたんじゃねえ……貫かされたのさ。手前ぇの方がハイスペックかもしれねえけどよぉ? 兄貴の方が馬鹿さ加減じゃ何倍も上だったってことだ」  その言葉の意味が、すっかり身体に天羽々斬を取り込み全身へ翡翠色の筋を光と走らせる。  ポラーレは今、虚ろな無表情でゆっくりとクラックスへ向けて……彼が背後に庇うファレーナへと向けて歩き出した。  その姿は、さながら邪神か魔王か……ふらふらと頼りない足取りが一歩を刻むたびに、クラックスの表情が恐怖に歪んでゆく。  そしてファレーナはようやく理解した。  かつてアルマナが遠方から借り受けてきた、禍神より削り出しし神刀……その闇の波動を今、ポラーレは強引に自分の核へと取り込んだのだ。それは正しく、神をも恐れぬ蛮行、そして蛮勇。いかな錬金生物とはいえ、自我を虚無の深淵へと投げ込むにも等しい行為だった。 「ばっ、馬鹿な……そんな、ことがーっ! 僕が勝ったんだ! 僕が、勝つんだっ!」  クラックスが両の手に刃を生やし、それが剣となるや握って身を翻す。まるで恐怖にかられる幼子のように、彼はポラーレへと襲いかかった。  それが無駄と知ってか知らずか、クラックスの斬撃がポラーレを千切るように刻む。  だが、ポラーレはダメージを感じさせぬ不動の姿勢で、ゆっくりと左手を前へと伸べた。何度も斬られて刺し貫かれながらも、狂ったように攻撃を繰り返すクラックスの、その喉笛へと腕が伸びる。そして、白い手がクラックスに触れた瞬間、 「……掴まえた。僕は、完全に、お前を……掴まえた」  ファレーナでさえ戦慄させる、暗く冷たい声が響く。  ポラーレは暴れるクラックスを片手で括り吊るすと、そのまま無造作に床へと叩き付けた。煉瓦が舞い散り、土台が破裂して、土煙の中でクラックスの悲鳴が響く。 「があああっ! な、なんだこのパワー!? どうしてさ!?」  だが、応えることなくポラーレはクラックスを振り回す。決して離さず、二度三度と床に、壁に天井にと叩き付けた上で……動かなくなったところでようやく放り投げた。  かろうじて体勢を立て直すクラックスはもう、圧倒的な暴力を前に戦意を喪失していた。  それでも、ポラーレは先ほど胸に消えた天羽々斬を手へと生やすと、それを握って歩み寄る。 「くっ、来るな! 兄さんっ、そんなのずるいよ、ありえない! どうして……何で!」 「……お前が、僕の……大事な、大切な人を……奪った、からだ」 「そ、それって」 「失って、気付く……そんな愚かな自分にね。愛想が尽きて、るんだ、よ」  刹那、ファレーナの視界からポラーレは消えた。  消えたと思った瞬間には、クラックスの悲鳴が響く。攻撃を予測して回避し、回避しきれず掴まったクラックスが絶叫していた。彼は今、再び現れたポラーレの足元で刃を突き立てられてのたうち回っていた。  そして、抑揚に欠く無感情な声が冷たく響き渡る。 「もう、死ね。殺す限りに死に尽くせ。それが、僕を怒らせた……お前の末路に、相応しい」  サジタリオが絶叫する。 「やめろ相棒っ! そいつは無価値だが、自分まで無価値になるつもりか! ファレーナの前で!」  すでにクラックスは完全に忘我の境地で、哀れにもガクガクと震えている。  そしてファレーナも、気付けば身を声にして叫んでいた。 「やめてください、ポラーレ! その人を、殺さないで」  ファレーナの声に、ぱっとクラックスの泣き顔が明るくなる。  次の瞬間に絶望が襲い来るとも知らずに。 「ファレーナ……やっぱり僕を! 心配してくれるんだね! あはっ、そうだよやっぱり――」 「ポラーレ、わたしの愛しい人! どうか、あなたの手をもう汚さないで……わたしの大事な人でいてくれるなら、そんな人のために罪を犯さないで。……お願い、です」  その時、ピタリとポラーレが静止した。クラックスもまた、脱力して動かなくなる。  ポラーレの顔に表情が戻るのは、クラックスの笑みが凍りついて崩壊するのと同時だった。  ポラーレが力の限り放り投げると、壁を突き破って外へとクラックスは見えなくなっていった。静かに零れるファレーナの涙だけが、風にさらわれ壁の穴へと吸い込まれていった。