薄暮の時が黒く染まって、夜がやってきた。  太陽の残滓が山脈の彼方に消える頃……闇を待って出航する気球艇の一団があった。  動き出す気球艇エスプロラーレの舳先に立って、ポラーレは仲間たちを振り返った。 「じゃあ、行こうか。……巫女を助け出しに」  とても静かな、ともすれば軽やかなその声の響き。まるでそう、近所に買い物に行くような気軽さでポラーレは僅かに口元を歪めた。  夜の暗闇は魔物の時間、既に第四大地こと絶界雲上域はポラーレの手中にあった。  次々と浮かび上がるのは、タルシスから応援に駆けつけてくれた冒険者たちの気球艇。双眼鏡で辺りを見渡すラミューが、あらん限りの声を張り上げた。 「キルヨネンやウィラフ、他のみんなも陽動に飛んだ! トライウィングは左舷後方!」  報告を受けてポラーレは、静かに再び前を見据える。  摩天楼が煌々と灯り始めた帝都の中央に、無数のサーチライトで夜空を切り裂く巨大な建造物……木偶ノ文庫。あの中に今、さらわれた巫女は閉じ込められているのだ。  ファルファラがそう言った言葉を今、疑う理由などポラーレは持ちえていない。  かくして、タルシス中の冒険者を総動員した空の戦いが幕を開けた。  進むほどに増速しながら、エスプロラーレは真っ直ぐ矢のように飛ぶ。  風切る舳先で微動だにせず、ポラーレは黙って向かう先だけを見据えていた。  船尾の操舵士メテオーラに声をあげつつ、仲間のサジタリオが近付いてくる。 「もっとエンジンをブン回せ! 空軍の連中に捕まっちまうぞ」 「無理だよサジタリオさん! オーバーヒートで爆発しちゃうってば!」 「木偶ノ文庫までもてばいい……いざとなりゃ強行着陸だからな」  既に上空では、陽動に回った仲間たちの気球艇が砲撃を浴びている。見上げる星空よりなお明るい瞬きに、次々と気球艇が撃墜されていた。やはり帝国空軍の軍艦と接触すれば、撃墜は免れない。  だが、鉄壁の防空網を縫うようにして、低空を切り裂くようにポラーレたちは進む。  あっという間に後方には、送り狼のように空軍の高速艦が無数に張り付いた。  ポラーレはエンジン音と風切り声の中に、友人の言葉を僅かに拾う。 「このまま進みな、ポラーレ! 追手はオイラたちで食い止める!」 「コッペペ、しかし」 「なぁに、適当に逃げ回って、トンズラだ! わはは、オイラ逃げ足だけは速くてね」  並走していたトライウィングが身を翻すや、風に乗って背後に飛び去った。  同時に砲撃の爆音と黒煙が舞い上がる。  それでも、ポラーレは振り向かず前を見据えて、先を睨む。  気付けば隣のサジタリオも一緒だ。  エスポロラーレは真っ直ぐ、放たれた矢のように木偶ノ文庫へと進んだ。 「直上! 帝国の軍艦だ! 戦艦クラス、ええと……沢山! どーすんだ旦那、やばいぜ!」  ラミューの悲鳴のような絶叫が迸る。月明かりを遮り、頭上を抑えた艦影が次々と覆いかぶさって圧してきた。だが、目標への進路を阻むような動きの、その更に下をエスプロラーレはくぐって潜るように飛ぶ。  続いて、爆炎と振動。  舵輪にかじりついたメテオーラの操船で、エスプロラーレは右に左にと回避運動に揺れた。  それでもポラーレは、普段の無表情で闇の先だけを睨む。  そして、ようやく薄明かりに浮かび上がる木偶ノ文庫の正面ゲートに、その人影を見た。  どうやら隣のサジタリオも、障害の存在を察知したようだ。 「おーおー、いるわいるわ……騎士団総出で出迎えだぜ? あの女騎士もいやがる」 「目がいいね、サジタリオ」 「どーすんだ、ポラーレ。ヨルンの手前、エクレールは殺せねえ。けど、ありゃテコでも動かねえタイプの御婦人だぜ?」 「押し通る」  その時、視界の遥か彼方で剣が煌めいた。それが見えるポラーレとサジタリオは、同時に飲み込む息を噛み殺す。  遥か先の彼方で、エクレールは抜刀と同時に砲剣を大上段に振りかぶり、剣閃を放った。  刹那、エスプロラーレを激しい衝撃が襲い、気嚢が真っ赤な炎に包まれた。 「野郎っ、空を斬りやがった! この距離でドライブが届くのかよっ!」 「野郎じゃないけどね、サジタリオ」 「うるせぇ、あーもぉ! なんで手前ぇはそんなに冷静でいられるんだ、相棒。落ちるぞ!」 「うん」  あっという間にガスへ引火して、気嚢が火だるまになる。爆発しなかっただけマシだが、ラミューやクアンの消火作業を嘲笑うように、燃え広がった炎は船体まで達しようとしていた。  だが、舞い散る火の粉にまみれながらも、ポラーレは微動だにせずエクレールを睨む。 「……経路、このまま。全速」 「だとよ、メテオーラ!」  後部の操舵席から悲鳴があがった。だが、メテオーラも腹をくくったのか、いよいよエンジンが金切り声を歌った。真っ赤に燃える火だるまと化したエスプロラーレが、流星のように夜を貫いて飛ぶ。  そして向かう先でポラーレははっきりと見る。  今しがた使い終えた砲剣を捨てるや、エクレールが新たな砲剣を抜刀するのを。 「ありゃやべぇな……もう一発もらったら確実に沈むぞ、ポラーレ」 「うん。じゃあ……サジタリオ。ちょっと神業を見せてくれないか?」  既に失速し始めたエスプロラーレは、船底を地上にこすりつけるような勢いで落下しながらも進む。既に浮力はなく、飛んでいるというよりは落ちてゆく、そんなスピードだった。 「オーライ、了解だ相棒。しゃあねえな……高く付くぜ?」 「いいとも、サジタリオ。あとで美味しいコニャックをおごるよ」 「言うようになったじゃねえか、オイ」 「ヨルンの部屋の本棚の、三段目の奥に隠してあるんだ」 「……ヨルンの酒じゃねえか」 「二人で手土産をもっていけば、きっとご馳走してくれるはずさ」 「なるほど、じゃあ……射抜いて殺すわけには、いかねえ、なっ!」  サジタリオが弓を構えて矢を番える。  この不安定な振動に揺れる舳先で、彼はまるで大理石の彫像のように揺るがない。そのまま狙いを定めて、魔弾の射手は必殺の一撃に弦を震わせた。  同時にエスプロラーレはとうとう、木偶ノ文庫の数キロ手前で不時着する。  そのまま勢いの付いた船体は、大通りを削って煉瓦を巻き上げなが正面ゲートに突っ込み出した。背後で少女たちが抱き合い悲鳴をあげるのを聴きながらも、ポラーレは動かない。  そして、二発目のドライブは飛んではこなかった。  結果的にポラーレたちは、強行着陸する形で気球艇ごと木偶ノ文庫の正面に乗り付ける。  不動の仁王立ちで迎えたエクレールの鼻先で、ようやく大地をえぐったエスプロラーレが停止した。ポラーレは身を翻して地上に降り立つ。  機械然とした怜悧な鉄面皮で、エクレールは手にした剣を向けるや出迎えの言葉を放った。 「……なかなか面白い余興だったな、冒険者。よくぞこの木偶ノ文庫まで辿り着いた」  なんと、エクレールが手にする砲剣には……その砲口には、矢が突き立っていた。  先ほど船上から、サジタリオが放った一矢だ。それは見事に直系僅か数センチの砲口を穿ち、真っ直ぐに貫いて内部のモーターを突き破っていた。  エクレールは矢で穿たれ破壊された砲剣を捨てるや、腰から自分の砲剣を抜刀する。 「曲芸じみた技に、正気の沙汰とは思えぬ中央突破。見事だと言っておこう」 「お褒めに預かり光栄だね。巫女シウアンは、娘の友達は返してもらう」 「貴様らのものではあるまい! あの娘は今、偉大なる殿下の覇業に必要な存在なのだ!」  激したエクレールが剣を構える。だが、ポラーレは無造作に怒りを込めた一歩を踏み出した。  その冷たい程に蒼白な顔には、一種の笑みのような表情さえ浮かぶ。 「その通りだよ、エクレール。彼女は、ものじゃあ、ない。誰のものでもない、彼女の自由は彼女だけのものだ。……それを、返してもらう」  ポラーレは胸の奥に一人、罪を背負う覚悟と共に友への謝罪を呟く。  そうしてかざす右手からは、体内に取り込んで既に一体化した天羽々斬が生えてきた。  だが、二人が刃を交えることはなかった。  頭上をエンジン音と共に風が通り抜け、小さな複葉機が去った後……ポラーレは信じられない声を聞くのだった。