我が耳をメテオーラは疑った。  その目に写った光景をも疑った。  だが、否定したかった訳ではない……今にも飛び出したい気持ちにかられつつ、必死でバケツをリレーして気球艇エスプロラーレの燃え盛る火を消して回る。  木偶ノ文庫の正門前、巨大なゲートに立ったポラーレたちの眼前には……一人の男が空から現れた。上空から突如舞い降りてきた男は……見間違えようがない、仲間の顔をしていた。 「ポラーレ殿! この場は私が、レオーネ・コラッジョーゾが引き受け申す! いざ、木偶ノ文庫の奥へ! 巫女の元へ!」  朗々と宣言を謳い上げるや、レオーネは己を取り巻く無数の包帯をその手で引き千切る。夜風がさらって空へと舞い上げる白は、滲んだ血の色に黒く染まっていた。  だが、満身創痍のレオーネは鞘ごと剣をエクレールへ向けるや、その背後へポラーレたち数人の仲間を通す。仲間が木偶ノ文庫へと突入する、その先を守って立ち塞がる。  鬼気迫るその表情に、流石の魔女エクレールも言葉を選んだ。 「貴公は……生きていたのか。どうやって……直撃だった筈」 「我が家宝の剣が、折れることで衝撃を逃して私の命を繋ぎました」 「フッ、生き恥を……だが、見事だと言っておこう! よくぞ我が前に再び立った」 「否ッ! そのお言葉、そっくりお返し申す! 生きながらえど恥とは思わず! 我が命は今、この瞬間のために……仲間のために燃やす命の、どこに恥があるというのかっ!」  メテオーラは気付けば、そんなレオーネの横顔に魅入っていた。間違いない、あのバカ真面目に過ぎる騎士様が、頼れる仲間が帰ってきたのだ。彼は今、抜刀を躊躇しながらも、エクレールの前に立ちはだかっている。  その姿を見た時、メテオーラの胸に熱い想いが去来して追憶を掘り起こす。  そう、いつもレオーネは熱い男だった……熱意でいつも、メテオーラを暖かくしてくれた。  踊る孔雀亭のママがパンケーキを焼いてくれた時、レオーネはいつもおごってくれた。  セフリムの宿で女将さんが桜ヤマメを捌いた時など、一匹まるまるご馳走してくれた。  グルージャやラミューたちと一緒の時も、顔を合わせればお茶代をもってくれたのだ。  それだけではない……幻の黄金タラバ蟹が穫れた時など、メテオーラだけにこっそり教えてくれたし、メテオーラのためだけに茹でてくれたし振る舞ってくれたのだ。 「……ハッ! いけない、食べ物の話ばっかじゃん……違う違う、もっとこう、リオンは!」  慌ててよだれを手の甲で拭いつつ、メテオーラは正気に戻って頭を左右に振る。  レオーネはいつも、お腹がいっぱいになるまでにこやかに見守ってくれていた。なんだか、いつもの場所に行けばいつもいて、砲剣の手入れをしていたり書物を読んでたり……でもでも、メテオーラが顔を出せば常に気さくに話しかけてくれたのだ。  そのレオーネが、死んだと思い込んでいたレオーネが、今エクレールの前に立っている。  見るからにボロボロで、纏う鎧は地金剥き出しのジェラルミン色だ。  それでもレオーネは、ポラーレたちを先に行かせて不退転の決意だ。  それが伝わったのか、ポラーレが重々しく口を開く。 「レオーネ君、生きていたんだね……でも、その身体じゃ」  包帯を脱ぎ捨てたレオーネの足元にはもう、滴る血が赤い海を広げている。  それでもレオーネは、眼鏡のブリッジをクイとあげると微笑んだ。 「お気になさらずに、ポラーレ殿。私は私の騎士道をただ、真っ直ぐに駆け上がるのみ!」 「……じゃあ、頼めるのかい?」 「いいですとも! 何人たりとも、この場でポラーレ殿を追わせはしませぬ!」  その声を聞いて頷くと、ポラーレは仲間を率いてゲートに向かった。その奥には、書架が迷宮を織りなす木偶ノ文庫が広がっている。奥に恐らく、巫女シウアンは囚われているのだ。  少数精鋭で切り込む者たちを先にゆかせ、最後にポラーレが正門の奥へと消えてゆく。  それを見送るしかなかったエクレールが、端正な顔を僅かに歪めて叫んだ。 「帝国騎士! 奴らを木偶ノ文庫の奥へゆかせるな! 追え、追って討ち取るのだッ!」  エクレールの声に、周囲の騎士たちが正門へと殺到する。その数は尋常ではない。メテオーラの目にも、この場に帝国の主力、騎士団の大半が集結していることは明らかだ。  だが、その時……静かに声が走った。 「ここは……行き止まりだ。他を当たれ」  我先にと殺到する帝国騎士たちの眼前に、無数の刃が落ちてきた。それは、どれもが触れれば斬れる刀の切っ先。数えきれぬ鋭利な日本刀が、帝国騎士たちを遮り突き立つ。  そして、ずらり並んだ剣の中に一人の漢がゆらりと立ち上がった。 「ムウ、亜人! 凍土の者かっ!」 「イクサビトのモノノフ! 愚か……たった一人で我ら騎士団を相手にするか」 「討ち取って名をあげよ! 帝国騎士の誉と勲を今こそ見せる時!」 「相手は一人っ、たかが犬コロ一匹……押し潰せ! 総員っ、突撃ぃぃぃぃぃ!」  だが、その漢は……ミツミネは抜刀の煌めきと共に、群がる無数の騎士たちを斬り伏せる。あっという間に血が花びらと舞い、悲鳴と絶叫が空気を震わせた。屈強な騎士たちの数に頼んだ密集突撃を、その一人一人をミツミネの剣が擦過してゆく。命を奪わぬギリギリの剣は、鮮やかであると同時に残酷な惨さを刻んだ。  騒然とする場でメテオーラは見た……鬼の形相で立つミツミネの全身から沸き立つ、周囲の空気を歪ませ弛ませるほどの闘気を。メテオーラでも見える程なのだ、屈強な騎士たちは畏怖に縮こまり慄いた。  そしてミツミネは、大地にガン! と剣を打ち立てると、腕組みその場から動かない。 「何人足りとも通さぬ……通りたくば、死線を超える覚悟で挑まれよ」  ミツミネの言葉は、有無をいわさぬ強さがあった。  そして、それを聞き届けてレオーネもまたエクレールを牽制する。  一触即発の空気に、周囲は絶対零度の緊張感に凍り付いた。  そんな中、メテオーラは友人の声で我に帰る。 「メテオーラ! もうこの船はもうすぐ爆発しちゃうですっ!」  見れば、バケツをせっせと運ぶシャオイェンは涙目で、半べそで、もうガン泣きしそうだった。それでも彼女が気球艇の樽から水を運ぶので、メテオーラも急いでバケツリレーに参加する。  そして、大事な気球艇エスプロラーレを想うのは、少女たちだけではなかった。 「メテオーラ! 機関室に行ってエンジンをばらせ! いいからバルブを閉めて運びだすんだよ! 爆発しちまえば全部パーだ……ここは俺に任せて、シャオと行けぇ!」  サジタリオが声を張り上げる。彼は次々と矢を射っては気嚢を切り離し、船体を火から守ろうとしていた。躊躇するメテオーラの手からバケツを取り上げると、 「いいか、エンジンさえ無事なら船なんざ再建できんだ! 急いで取ってこい!」 「……うん。うんっ! シャオ、来て! 大丈夫、まだ爆発しないから……こっち!」  気球艇のエンジンは至極単純な構造の内燃機関だ。化石燃料をくべてピストンで回転運動を生み出す、とてもシンプルな作りになっている。だが、高温と炎の中では引火の危険もあった。だが、だからこそメテオーラはエンジンを回収しなければならない。  彼女自身、愛着のあるこの船の心臓部が、このまま爆発してしまうのは耐えられなかった。 「シャオ、怖い? ……ごめん、怖いよね」 「違いますぅ! シャオ、わかります! この船は燃えてるけど、まだもう少しなら機関室まで火の手は……でも」  シャオイェンは周囲を見渡し、ギュッと手にした錫杖を握り締めた。  ミツミネに締め出された帝国騎士の何割かが、ジリジリと気球艇エスプロラーレに近づきつつあった。その手に光る砲剣の輝きが、小さな女の子には恐怖以外のなにものでもないだろう。  だが、弓に矢を番えてサジタリオが声を張り上げた。 「この子らに近づく者を殺す! 邪魔する者も殺す! 手前ぇらの剣はなるほど、そいつぁ大した武器だ! だがな、騎士様よぉ……俺の矢は手前ぇらが剣を振り上げて、振り下ろすまでに百人は殺せるぜ? ……こっちに来るな、黙って見てな」  反論を許さぬ強い言葉で、その圧力だけで騎士たちがたたらを踏む。  そして、その瞬間にメテオーラは頬をはたくと、自分の内なる恐怖を振り払った。 「よしっ! 機関室でエンジンを回収するよ! エンジンさえ無事なら船は再建できるっ!」 「は、はいですぅ!」  メテオーラにはわかっていた。いつも舵輪を手に一緒だったから。  この船はまだ、爆発しない……一見して派手に燃えてるが、気嚢がガスを発火させているだけだ。船体は大地を穿って轍を作ったが、大したダメージはない。機関部にいたっては、この猛火と高熱の中でも無傷だ。火の手の回りは予想より早いが、まだ間に合う。  今しかチャンスはない……メテオーラはシャオイェンから受け取ったバケツの水をかぶると、火の手がちらつく船底に向けて走り出した。