今、クラックスの全身に心地よい緊張感が染み渡っていた。  ありもしない動脈の隅々にまで、スリルという名の麻薬が駆け巡る。沸々と湧きあがる興奮に頬を上気させながら、クラックスは手に握る短刀を身構えた。  クラックスとは対照的に、能面のような顔を真っ白な冷たさで覆う兄の姿がある。 「あれを倒して皇子を追う……やれるね? クラックス」 「うん……うんっ! 僕、やれるよ、なんだってやれる! 行こう、兄さん」  まだ完全に兄ポラーレの信用が得られた訳ではない。そればかりか、今も猜疑の気配が肌を刺すように感じられた。だが、そうした全身が軋むような感覚も心地よい。  戦場という場所はクラックスにとって、あるべき場所に殺戮装置として収まったという整合性が感じられる。それは今のクラックスにとって、なんのための機能かを自覚しているから、たまらなく快感だった。 「あの豪腕を封じます! 皆、無理をしてはいけない。勿論クラックス、あなたも」  ファレーナの声は緊迫感に満ちていたが、今のクラックスにとっては福音にも似た甘美な響きに感じられた。  身体が燃えるように熱い。  あの人と、あの人が好きな兄のために。あと、兄はあの人が、ファレーナが好きなのだ。 「どうして気付かなかったんだろう……好きな人同士が、好き合ってるんだ」 「? ……クラックス? 敵が」  不意に気付いて言葉を零したクラックスを、黒い影が頭上から覆う。  あっという間に揺籃の守護者は、拳の鉄槌を高速で叩き付けてきた。  だが、瞬時に避けたクラックスは、心の底から込み上げる不思議な感情に歓喜した。狂喜といってもいい……他に激情の発露を知らなかった。 「ハハッ、そうか! そうだったんだ……僕の好きな人たち、は……僕が、守るっ!」  跳躍と同時に見下ろせば、ポラーレは方陣を編み上げるファレーナを守って戦っている。  ラミューもグルージャも皆、互いを庇い合うように動いていた。  そういう人たちを、兄は好いていて、好かれている。自分と同じ錬金生物の虐殺兵器が、人との関係性の中に相互の理解を得ているのだ。それが今、言葉ではなく実感としてクラックスにはよくわかった。  もう一つ……その中に自分は入り込む余地がないことも、自然と知れた。  だが、攻めて奪い獲るのではなく、生まれて始めての防衛、守りたいもの……それが今、視界の中にあった。得る前から失っていたという、その事実すら守りたいものの一部だった。 「さあさあ、いくよっ! 今日は僕、手加減できないからね……触れた側から切り裂き断ち割る! 刻んで岩屑に変えてやるっ!」  クラックスの身体が風を纏って、風そのものになる。  一迅の疾風となって急降下するクラックスの、その宙を舞う軌跡がそのまま揺籃の守護者に見えない出血を強いた。あんなにラミューが斬っても突いても傷付かなかった装甲が、まるでパズルを解きほぐすように解体されてゆく。  同時に、クラックスが着地した床が眩い光に包まれた。  ファレーナの広げた方陣の輝きが、あっという間に巨人の両腕から自由を奪う。  頑強な帝国の守護神も、流石に天を仰いで地響きと共に吼えた。その間隙をついて、ラミューのリンクをグルージャの印術が発火させる。しなる剣先が放った火花は、あっという間に爆炎を連鎖させて幾重にも花咲いた。  その中を巨体へ駆け上がるポラーレを見て、クラックスも身を翻す。 「お姉さんが腕を封じた! あとは……父さんっ!」 「ポラーレの旦那っ、頭だ! こういう木偶の坊は大概、頭を潰せば黙って崩れるぜ!」  その声を頼るように、クラックスも蠢く巨躯の上をひた走る。  まるで兄と獲物を取り合い遊ぶ、大洋の凶暴な猛禽魚のような連撃。  あっという間にポラーレとクラックスは、互いの軌道を上書きし合うように残像を広げた。そのスピードは神速の域を超えて、既に敵の瞳には見えていなかった。共に音の速さの領域に届かんとするクラックスにも、その先を翔ぶポラーレの太刀筋が見えない。  あの不思議な太刀がもたらす力とも思えたが、それを完全に掌握しているのは間違いなくポラーレだ。そのポラーレが、空中に無数の残像をばらまきながら、天井を蹴って敵へと急降下する。 「これで……終わりだよ」  同時に、クラックスも着地するや床を蹴り上げ宙に舞う。  漆黒の一太刀が真っ逆さまに落ちる先へと、黄金の一撃をクラックスは振り上げた。  二人の兄弟が交錯する刹那、鈍い音を立てて巨人の首がグラリと揺れた。それはそのまま傾きを増して、轟音を響かせながら床へと落下した。首を失った巨体は彷徨うようにその場で暫し動いていたが、次第に錆びた歯車のような音を立てて静止する。  決着の手応えを感じて着地、衝撃で屈み込むクラックスの目の前に、差し出される手。 「……ありがとう、クラックス。完璧なタイミングだった。押し切ることができたのは、君のおかげだよ」 「兄さん……や、やっぱり? そうだよね、僕たち流石のコンビネーションだったよね!」 「すぐ、調子に乗る……僕は、そういうところが不思議だ。同じ術式配列を基本としているのに」 「だってー、生まれて始めてなんだ。守らなきゃ、って思ったの。好きな人を、欲しがるんじゃなくて、こう……よく自分でもわからないけど――!?」  全てが大団円に思えた、その時だった。  不穏な機械音が闘争の第二楽章を歌い上げる。安堵の空気を切り裂く金切り声は、黙示録の死天使が吹くラッパの音にも似て。兄弟が対で噛み合う必殺の顎門に喰い千切られた首が、突然天井高く浮かび上がった。  同時に、酷く平坦で抑揚に欠く機械音声が周囲を不気味に震わせる。 『自己消滅プログラム作動……機密保持ノ為ニ、自爆プロセスヲ実行シマス』  誰もが表情を凍らせ、次の瞬間には身構える。  ふわふわと浮く機械の生首は今、不思議な光の明滅を徐々にテンポアップさせていた。 「じっ、自爆だぁ!? 手前ぇこら、なに勝手に抜かしやがる! え、えと、ど、どしよ」 「どしよ、じゃないでしょラミュー! お姉さん、下がってください。あたしのルーンの盾で防げればいいけど……もし物理的な衝撃波と爆風が予想以上の威力だった場合は――」  慌てふためきつつオロオロするラミューを叱咤して、グルージャがファレーナの前に立ちふさがった。だが、果敢な勇気ある乙女たちのさらに前へと、黒い影が太刀を構える。右手に握った剣を片手で構えつつ、左手にはカウントダウンの光を反射する出刃包丁が現れた。  クラックスの視線に気付いて、ポラーレは笑いもせずいつもの無表情で飛び出す。 「これは、宿の女将さんから……包丁もそれなりに、使える。魔物の素材を剥いだり捌いだりも、便利だからね。……あいつは、そういう価値はなさそうだ、けど」  間髪入れずにクラックスも加速する。  兄と一緒に強撃を浴びせて、あらん限りの力で叩き、斬り付け、突き刺した。  だが、いよいよ点滅の間隔を短くさせながら、巨人の生首はゆっくりとその表情を変化させる。瞳にはめ込まれた硝子玉は発光し、今まさに爆発しそうな輝きを放っていた。  これは駄目だと思ったクラックスが、最大攻撃形態を曝け出そうとした、その時。  ポラーレは「ふむ」と冷静そのものとも言える声を零すや、その手から武器を消した。魔性の太刀も女将の出刃包丁も、あっという間に彼の身体へと消えてしまう。 「に、兄さん? こっ、これ、爆発しそうだよ! ……僕が外へ! 僕なら爆発にも耐え――」 「そういうのはね、クラックス。冒険者の間では流行らないんだ」  その時ポラーレは、ニヤリと笑った。  クラックスが始めて目にする兄の笑みだった。それは、背筋を冷たい興奮で突き抜けてゆく。 「うおおおおっ、イチかバチかだっ! 旦那っ!」 「ラミュー君。やってみよう……フルリンク、君の炎を全て、僕が貰う」  この絶体絶命のさなかで、ラミューが精神力を研ぎ澄ますや突剣に光を走らせる。ありったけの力を込めて放たれたリンクの炎をなぞるように、ポラーレが人の輪郭を崩してゆく。  そこには美しくも恐ろしい、一匹の黒狼竜が姿を現していた。  一声唸るや、床を蹴る黒狼竜は燃え盛る炎へ飛び込み、紅蓮の業火となって巨人の生首を飲み込む。幾重にも折り重なるリンクの衝撃と爆風で、見上げる先は天上の星全てが落ちてきたよう。  刹那、激震と共に小さな爆発が起こり……跡形もなく消し飛んだ生首の爆煙は、その中から一人の男を浮かび上がらせた。闇夜のように黒い影は、パンパンと手を叩くとゆっくり床へと舞い降りた。あっけに取られるクラックスの横から、 「またあなたは……無茶をして! いけない、人だ。ほんとうに……もう」  ファレーナが飛び出し、着地したポラーレの首へと抱きついていった。  それだけでもう、クラックスは改めて全てを理解し、始めて得るべきを得たのだった。