その少女の小さく白い手は、クラックスの手の中で震えていた。それでも彼は、ずっと部屋に閉じ籠っていたサーシャを、外に連れ出したのは良かったと思う。  タルシスの街は今、最後の決戦に向けて冒険者たちで賑わっていた。  そんな中、サーシャの手を引いてクラックスは歩く。 「ほらサーシャ、酒場にいけばクラッツもいるよ。元気な顔を見せなきゃ」 「……うん……でも」  木偶ノ文庫での戦い以来、サーシャは沈みがちで食事もろくに取っていない。もうすぐ三日になるというのに、クラックスにはなにもできることがないのだ。せいぜい、小さな蜥蜴になってベッドの彼女に寄り添うしかできない。  否、できなかった……昨日までは。  それでも、大事な人のためにと彼も彼なりに勇気を振り絞ったのだ。  その結果がどんな物語を呼び込むかを、半ば知っていながら。  クラックスはサーシャをエスコートしながら、踊る孔雀亭のドアをくぐる。 「ええと、クラッツは……」 「……駄目、クラックス。ごめん、駄目だ……私、帰る」 「サーシャ」 「あの馬鹿に合わせる顔がない……だってもう、私……私、汚されちゃった」  泣く子も黙るシャドウリンクスの副長は、そこにはいなかった。木偶ノ文庫でサーシャは、鋼の獣たちに蹂躙され、嬲られた……クラッツとクラックスが助けるまで、狂った騎士の慰み者になったのだ。それは貞操と純潔を辛うじて守ったものの、サーシャの心に深い深い傷を残したのだった。  震えるサーシャの肩をそっと抱いて、クラックスは店内を見渡す。  求める姿は奥の方で、やはり騒ぎの中心にすぐ見つかった。人だかりの中に辛うじて、フミヲが涙目で抱きつく背中が立っている。  そして響く怒号、まるで憤怒に煮え滾る野獣のような少年の声。 「おうこら、手前ぇ……やっと見つけたぜ。どの面さげてこの街にいんだ? あぁん?」 「だっ、駄目だよクラッツぅ〜」  クラックスはサーシャを気遣いつつ、騒ぎの様子をじっと見守る。  そこには、まだ包帯姿も痛々しいクラッツと、その腰にしがみつくフミヲ。そして……あの時、コテンパンに懲らしめてやった帝国の騎士がいた。狂奔をはらんだ悪意と害意の塊が、今は嘘のようにテーブルの隅で背を丸めている。まるで捨てられた子犬のよう。  あの時サーシャを辱めた騎士は、クラッツ同様に満身創痍だった。  確か、ナルフリードとかいう名前だ。そして同時に、彼は彼女であり、ベルフリーデだ。  そんな両性を併せ持つブリテンの騎士を前に、黒衣の青年が立ち塞がる。 「我々も冒険者に協力したいんだ。それが僕たちの……なにより、ナルの罪滅ぼしになるとも思うし」 「るせぇよ……うるせぇ! 手前ぇらの手なんか借りるかよ! だいたいなんだ? なんの詫びも入れず……そいつに話させろよ、そいつに言ってんだ!」 「事情が、当方にも事情があったんだ。彼の生まれや育ち、そして境遇を――」 「うるせえって、言ってんだよぉ!」  クラッツの怒りたるや、相当なものだ。そう、彼は激怒している……仲間のサーシャを辱めた連中を決して許さないだろう。それがクラックスには痛いほどにわかる。サーシャはクラッツにとって恐らく、仲間である以上の意味を持ち始めたからだ。  それを考えれば、なんだか身体のどこにもないはずのなにかが、痛い。 「……ありがとう、ヴェリオ。でも、これは俺自身が招いた結果だ。俺が彼に謝罪して、姉様のことについても許しを請わねばならない。その上で許されるなら、共に戦おう」  ナルフリードは力なく立ち上がると、クラッツの前へと歩み出る。  だが、その瞬間にもう、クラッツの腕はナルフリードの襟元を掴んで吊るしあげていた。 「おうこら、眠いこと言ってんじゃねえぞ……手前ぇ、サーシャになにしたかわかってんだろうな。……こっちはとっくにキレてんだよ」 「済まない、申し訳なかった。姉様の無礼をどうか、許して欲しい。姉様も悪気はなかったんだけども、どうしても俺は……そう、俺たちは」 「やかましい! 姉貴のせいにしてんじゃねえよ……俺は今、手前ぇと話してんだ!」  直後、クラッツの拳が唸りをあげた。彼はしがみつくフミヲを振り払うと、力なく吊るされるままのナルフリードに鉄拳を見舞う。並んだテーブルや椅子を散らかしながら、華奢な騎士の身体が酒場の奥へとすっ飛んだ。  周囲の大人たちが歓声を上げる中、クラックスはサーシャを守るように抱き寄せる。 「待て! 待ってくれ、僕たちの話も聞いてくれ! ナルは、ナルには事情が」 「事情なんざ誰にでもあらぁ……引っ込んでな、ヤブ医者。おらあ、立てえ!」  ヴェリオと呼ばれた青年のとりなしも無視して、クラッツが怒鳴る。  よろよろと立ち上がったナルフリードの目に、たちまち狂気を帯びた怪しい光が灯りかけた。 「っ! く……い、いけませんよ、姉様……これは、彼と俺との、問題です。俺は、俺たちは……彼を怒らせるだけのことをしたのです。駄目だ、姉様! 身体は渡せない!」  ナルフリードは頭を抱えながらも、よろけて千鳥足でクラッツの前に歩み寄る。  クラックスがサーシャと遠くから見守るクラッツの背中は、あの日の傷口が開いて真っ赤に染まっていた。それを見てクラッツの隣で、もうフミヲが涙目になっている。  だが、その痛みさえ感じぬ怒りの境地で、クラッツは暗い炎を瞳に燃やして声を荒げる。 「へっ、姉貴に頼らなけりゃ喧嘩もできねえか? ええ?」 「よすんだ、やめてくれ……やめろ! 姉様を刺激しないでくれ」 「無理すんなよ、騎士様よぉ。いつも通り面倒事は姉貴に押し付けて、スカートの影に隠れたらどうだ? そうやって手前ぇはいつも、全部終わったあとに紳士面してるんだよ!」 「俺はっ! ……好きでそんな。でも」 「でももカカシもねえ! いいからさっさと例のアバズレを出しな、もう一発ブン殴ってやる。手前ら二人で一人だろうが、そんなことは知らねえ。殴らねえと気がすまねえ!」 「……姉様を侮辱するなっ! 俺は、ぐっ! あ、ああ……いけません、姉様。いけません!」  ナルフリードはまるで呪詛に抵抗するかのように顔をしかめつつ、再びクラッツの前に立つ。彼もまた包帯姿だったが、容赦なくクラッツは再び拳を打ち付けた。だが、今度はナルフリードは吹き飛ばず倒れない。そればかりか、 「先ほどの言葉を訂正しろ、冒険者! 姉様を侮辱して……なにも知らないくせに!」 「ああ、知るかよ! 知りたくもねえ!」  たちまち二人は殴り合いの大喧嘩になった。周囲がはやしたてる中、取っ組み合いの大乱闘だ。そこにはもう、怪我人と怪我人が傷も厭わず演じる、気持ちを裸にした拳の語り合いがあった。 「だいたい手前ぇは! めそめそと女々しいんだよ! そんなんじゃタルシスでやってけねえ。さっさと国に帰っちまえ!」 「うるさい、冒険者! 俺だって……わかってます、姉様。でも駄目です、ここは俺が! 俺が彼を殴らないと気がすまない! これは俺の喧嘩です、姉様は引っ込んでてください!」  既に傷が開いてクラッツのシャツは真っ赤だったが、彼はその痛みを己に再度刻むように拳を振るう。それはナルフリードも一緒だったが、彼は口と手とが反比例。謝罪を繰り返しながらも、クラッツへと稚拙な拳を振り上げる。 「俺だって! 俺の意思で、冒険者たちの力になりたい。今、この地域の安定のために……そういうこともある、けど。俺だって、騎士としての矜持がある!」 「そうかい! だが手前ぇは……俺を怒らせた! 謝って済むなら、拳はいらねえんだよ!」  ナルフリードのパンチを捌いて、カウンターでクラッツが強烈なアッパーカットを放つ。ナルフリードの華奢な身は宙を舞って、派手に吹き飛んだ。それっきり動かなくなる。  だが、最後の一撃を放つと同時に、クラッツは血が滲むほど握りしめた拳を解いた。 「……はぁ、はぁ……難しいこと言ってんじゃねえ、謝るなら俺じゃなくサーシャに謝れ。それがすんだら……手前ぇをあの世界樹に連れてってやらあ。戦えんだろ、なあ……騎士様よ」  それだけ言うと、ヴェリオが駆け寄り抱き起こすナルフリードへと、クラッツは手を差し伸べる。鼻先へと差し出されたクラッツの手を、しかしナルフリードは握らなかった。 「感謝を、冒険者……でも、俺は一人で立てる。俺はこれから、俺だけの力で……立って、歩かなければいけない。贖罪のため、姉様のために……そして、これからの仲間と平和のために」 「ごたいそうだぜ、ハッ! やれるもんならやってみな。一人で先走るようなら、俺がケツを蹴っ飛ばすからな」  ナルフリードはクラッツの差し出す手を避けて、立ち上がろうとした。  一部始終をサーシャと見守っていたクラックスは、そっと小さな背中を押してやる。クラックスに促されたサーシャは、一度だけ振り向いて金月蜥蜴の青年を見上げた。  だが、その時だった。 「いいから手を握れよ、ふらふらじゃねえか。手を貸してやるって」 「いや、大丈夫だ。俺は、一人で……ああっと!」  立ち上がってよろけたナルフリードは、派手に転んだ。それをそのまま、クラッツは差し出していた手で受け止めたのだが……彼の手は不幸にも、やわらかな膨らみをキャッチしていた。 「お? おお、あー、うん……まあ、そういう身体だしなあ。おう……で、でかいな、意外と」 「は、離せ冒険者! ま、待って姉様、待っ――貴様ぁ! ブチ殺すわ、よくも兄様と私の胸を! ちょっと離しなさいよ、いつまで揉んでるのよ! ああもう、汚らわしい、殺す殺す!」  顔を真赤にしたナルフリードは、その瞬間にはもうベルフリーデになってクラッツに往復ビンタの嵐をお見舞いしていた。そんな姿に周囲からも笑い声が巻き起こる。  クラックスはその光景にサーシャを送り出してやると、自分は場を後にした。  サーシャの手を離せばどうなるか、知っていたが……それでも今、クラッツの隣にサーシャを見たかったから。クラックスは二人の健やかな未来を、疼痛を胸に刻みながら見守った。