帝都を見下ろす世界樹の幹、煌天破ノ都。太古の都も今は廃墟となって、ただただ寒々しい空気に沈んでいる。そんなこの場所の正門、巨大な扉の前は慌ただしく怒号と悲鳴に満ちていた。  バルドゥール皇子に付き従った僅かな敗残兵たちが、なんとか集結していた。 「帝国議会、騎士団や空軍も全てこちらの手を離れました! 応答ありません」 「くそっ、冒険者め! 解放者気取りか……金鹿図書館の方はどうか」 「特務封印騎士団、全く動きがありません。以前同様、静観の構えですね」  周囲を行き交う者たちは皆、騎士も兵士も疲れ果てている。それは、目の前に巨大な硝子のポッドを見上げるクレーエも同じだった。  クレーエは代々皇室に仕える影、バルドゥール皇子を守るために闇を生きる騎士だ。  だが、そんな彼でもわかり始めている……皇子の覇業が破綻をきたしていることも。  そして、皇子の善なる心の衝動が、全てを急ぎ過ぎているとも知っていた。  それでも忠義を曲げられないのは、それだけがクレーエの信念だったから。 「アンプルの四番から七番までを投薬しろ! 次で壊れてもかまわん!」 「素体はもう、持つまいな……流石に神経をいじり過ぎた。強化のし過ぎというものだ」 「だが、今くたばってもらっては困る。殿下のために処置を急げ!」  慌ただしく動きまわるのは、帝国の暗部……禁忌の技術に魅せられた科学者たちだ。それが今、白衣をバタバタと慌ただしく翻しながら行き来している。彼らが奔走している理由は今、泡立つ溶液が満たされたポッドの中、硝子の向こうで瞼を閉じていた。  膝を抱えて眠る、白い裸体……誰もが魔女と呼ぶ帝国の騎士、エクレールだ。 「……悪ぃな、エクレール。いや、確かデフィールつったか」  そっと硝子に手で触れ、クレーエは呟く。  その声が密封されたポッドの中に伝わらずとも、どうか届いて欲しいと願いながら。 「でも、俺には、俺らにとってはエクレールだ。……あんたは、殿下にとって大事なエクレールなんだよ」  既にもう、大勢は決した……バルドゥール皇子の巨人復活が成功しても、皇室が再び豊かで平和な日常を取り戻すことはない。きっと皇子は、長らくこの国の歴史に反逆者として、暴君として名を刻まれるだろう。  それでも、あの青年は救おうとしている……これから帝国が百年、千年続くであろう国土を。  腐って朽ちてゆくこの国の大地を、世界樹の巨人で救おうというのだ。  それが例え汚名を着ることになっても、それを厭わぬ覚悟をクレーエは感じていた。  そんなバルドゥール皇子だからこそ、影としてずっと守り支えてきたのだ。 「殿下はこの扉の向こう、煌天破ノ都の奥へと向かわれた。巫女と心臓を手にれた皇子だけが、あの廃都の奥へと吸い込まれていったのさ。流石の冒険者も、この奥へは進めねえ」  自分にそう言い聞かせるように、クレーエはそう呟いてもう片方の手も硝子へと押し付ける。  薄緑の溶液へ胎児のように浮かぶエクレールは、ぴくりとも動かない。  それ自体が宝石でできた眠る女神のようで、しかしその美しさを刻むように周囲の科学者たちは慌ただしい。ポッドには次々とコードやケーブルが接続され、無数のアンプルが投薬されてゆく。  気付けばクレーエは、硝子に突いた両の手を固く握っていた。 「エクレール、殿下から伝言がある……」  聞こえているのだろうか? 端正な表情で眠るエクレールの片眉が、僅か動いた。それで周囲の科学者たちは、メーターの数値を拾いながら一層騒がしく動き出す。  クレーエは構わず言葉を続け、絞り出すように声を吐き出した。 「この度の武功、そして以前からの活躍に殿下からお言葉があった。よく聞け、エクレール」  この場でもう、エクレールとクレーエを見ていないのは、研究と実験の産物に夢中の科学者たちだけだった。疲れきった騎士や従者も、空軍の兵士たちもじっと巨大な硝子のポッドを見詰めている。  誰もが、一時は筆頭騎士代理を務めた帝国の魔女に、最後の戦いを感じていたのだ。  だが、そんな彼らの祈るような気持ちを、クレーエの言葉は裏切る。  クレーエの信じるバルドゥールという男……その漢はやはり、この国を統べるだけの器だったのだ。自ら悪行と知りながら覇業を進める中で、卑屈な劣等感とも戦いながら、よかれと思う未来を切り開いた。……切り開こうと、した。  クレーエは一度切った言葉を、再度ゆっくりと紡ぐ。 「帝国騎士エクレール。貴殿の並々ならぬ忠義に対し、皇子殿下より恩賞を賜った。……国へ帰れ。たった今、この瞬間より貴殿を帝国騎士の任より解く」  見守る誰彼問わずに、驚きのざわめきとどよめきが広がった。  だが、自分でもその意味をよく知る故に、噛み締めるような言葉をクレーエは続ける。 「貴殿の肉体と精神を弄びしこと、深く詫て謝罪せんとす。されど一時、皇子殿下は貴殿の中で母のぬくもりを思い出せたそうだ。そのことにより一層の感謝をとのこと。……以上」  この瞬間、エクレールは自由の身となった。  もとより、この者はたまたま帝国領内を通りかかった、遥か遠い国の聖騎士だったという。狩りに出ていた皇子をモンスターから救い、帝国へと招かれたのだ。確かにこうして見るとエクレールは、今は亡き王妃に……バルドゥール皇子の母君に似ている。早くに亡くなった王妃もまた、美しい人だったとクレーエは思い出した。  そして……全てを告げたあとで最後に、もう一度溶液の中を見詰めて声を絞った。 「……ここからは俺の個人的な話、殿下も帝国も関係ない。もう少しだけ聞けよ、エクレール」  誰もがざわざわと眼差しを交わし合って俯く中、クレーエは言葉を続ける。  それは身勝手で自己中心的な話かもしれないが、言わずにはいられない。  そして、この騎士道精神を凝結させた美の化身には、わかってもらえるような気がしていた。 「エクレール……それでも」  それでも、という言葉の先を、躊躇う。躊躇うが、苦渋の思いで押し出す。 「それでも、エクレール! 頼む、戦ってくれ……帝国という国家や臣民のためでもなく、皇室や皇子殿下のためでもなく。ただ一人、孤独に戦うあのバルドゥールという男のために」  返事は、ない。  それでもクレーエは言わずにはいられない。  気付けば周囲は静まり返り、誰もが固唾を飲んで見守っていた。 「俺は帝国騎士の中でも、汚れ仕事ばかりの日陰者、掃除屋みたいな騎士だ。だがな、忠義じゃ誰にも負けねえ……そんな俺にはできなくて、お前にはできる戦いがある。だから!」  その時、静かにたゆたうエクレールが瞳を開く。  同時にクレーエは腰の砲剣を抜刀するや、 「帝国騎士、クレーエ・アーベントが願い出る! 頼む……あの方をもう一度だけ、頼む!」  一閃、光の筋が走って硝子のポッドに静かに亀裂が生まれた。それは静かにヒビを広げて、あっという間に内側の水圧に耐えかねて決壊する。  そして、その溢れ出る液体の中から、帝国最強の騎士が立ち上がった。 「クレーエ・アーベント殿……このエクレール、全力でお受けする。あの子を独りにしてはおけない……これが最後の戦い、私はあの子のためにこそ戦いましょう」  そこには、濡れた髪をかきあげるエクレールの姿があった。  あらゆる数値が突然安定したようで、科学者たちは機械が吐き出すタイムシートをひっくり返しながらおたおたとしている。  そんな無様な白衣たちとはうって変わって、周囲の者たちは皆すぐに動き出した。 「エクレール様、今すぐ鎧をお持ちします! だれか、マントを!」 「こちらの砲剣をお使いください。倉庫で眠っていたものですが……Ta152、フォッケウルフ! 現在用意できるベストな砲剣です。どうか、これを」 「従者たち、出陣の用意を! さあ、走れ! これが最後の決戦ぞ」  最後まで帝国ではなく皇子を信じた者たちは、クレーエと同じ気持だった。  そして、クレーエの言葉に目覚めたエクレールもまた、同様だ。  彼女は堂々と裸で歩み出ると、差し出されたマントを羽織って剣を受け取る。  そんな彼女が、ふと脚を止めて中空へと手を伸べた。 「……雪か。こんな季節に……我らのようだな」  その言葉にクレーエは、突然降りだした雪に顔をあげる。今、廃都の巨大な正門前に雪が振っていた。こんな季節に珍しい……確かに今、なみなみならぬ冷気に肌寒い。  そして、突然の冬を呼び込む怒りが、この場所に姿を現そうとしていた。