深い深い、日も差さぬ深海にも似た奈落の深淵……無意識の奥底へと押し込められていた自我と人格は今、自分が徐々に浮かび上がるのを感じていた。  永らく封印されていたデフィール・オンディーヌという人間の全てが、肉体へと戻ってくる。  水面の上の空に見上げるしかできなかった、エクレールという魔女の凶行を彼女は、ずっと見詰めてきた。目を逸らすことも許されず、自分の身体が犯した罪として心に刻んできたのだ。 「ん……こ、ここは。……ヨルン? あなた、そこにいるの?」  ゆっくりと開いた瞳は、ぼやけた視界の中に見知らぬ天井を映す。ベッドに寝かされていることに気付けば、デフィールはゆっくりと首を横へと巡らした。  彼女が名を呼んだ夫の姿は、枕元の椅子に座っていた。  なにやら文庫本を読み耽っていた淡麗な美丈夫は、顔色一つ変えずに本を閉じると立ち上がる。間違いない、氷雷の錬金術士ヨルン……デフィールが二十年間ずっと、いつも愛した男だ。 「目が覚めたか、デフィール。デフィール……だな?」 「え、ええ。あの、私……」 「なにも言うな、言わずともわかる。お前はデフィール・オンディーヌ……俺の女だ」 「……相変わらずなのね、あなた。それにしても、随分と永い間夢見ていたような――!?」  上体を起こしてベッドから降りようとしたデフィールは、不意に言葉を失った。  ヨルンは長身を僅かに屈めてデフィールの頬に手を当て、長い長い金髪をそっとかきあげると……おもむろに唇へと唇を重ねてきた。  突然のくちづけに目を見張るデフィールは、次の瞬間には蕩けるような法悦に瞳を潤ませ閉じる。瞼の裏が薔薇色に染まって、今まで凍えていた全身に火が灯ったよう。  再会のキスは長く長く、互いの呼吸が行き交う中でデフィールに教えてくれる。  自分は今、あの男の隣に……いるべき場所へと戻ってきたのだと。  だが、甘い接吻が続く中で、夢見心地のデフィールは徐々にだが息を詰まらせた。 「ん、ぁ……んっ……んんっ! んっー! んー!」  あまりに再会のキスが長過ぎたので、顔を紅潮させながらデフィールは夫の背をバシバシ叩く。薔薇色に染まる瞼の裏は今、酸欠で桜色になっていった。  ジタバタするデフィールに気付いたのか、ようやくヨルンは妻の唇から離れた。 「ぷあっ! はぁ、はぁ……も、もっ! ヨルン? 私を殺す気かしら?」 「殺して死ぬようなタマでもあるまい。……よく戻ったな、デフィール」 「あっ……」  抗議もそこそこにデフィールは、強く強く抱き締められた。痛いくらいに抱き竦めてくるヨルンの手は、震えていた。誰にも弱さを見せることのない、最強の錬金術士が妻にだけ見せる、それは怯え。ずっと隠し続けていた正直な気持ちで、ヨルンはデフィールをぎゅっとしてくれた。  愛する男の胸の中で、懐かしい匂いと温もりに包まれて……ようやくデフィールは理解した。  自分は帰ってきた、戻ってきたのだと。 「もうっ、大げさでしてよ? ね、ヨルン……ちょっと痛いですわ、ふふ。大丈夫よ、大変なことをしてしまったけど……幸か不幸か、私は――」  不器用に甘えてくる夫の背に手を回して、全身で浸透してくる温もりに触れる。そうして数年間の空白をデフィールは、ゆっくり埋めていけばいいと心から思った。  だが、彼女の夫は比翼と比翼とに引き裂かれていた日々を、一足飛びに埋めてくる。 「……よし、デフィール」 「うん? あらなに、甘えるのはもう終わりかしら? ふふ、あなたったら普段からそれくらいかわいげがあれば女の子にだってもっと、こう――」 「脱げ」 「……ほへ? え? あ、あらやだ、私ったら……今、なんて?」 「脱げと言った、いやいい……脱がすぞ」  ロマンチックもセンチメンタルも、あっという間に吹き飛んだ。思わず「はぁ?」と夫にしか見せられない顔になってしまったデフィールだが、ヨルンはこういう時は有無を言わさぬ強さがある。強引で唯我独尊で、自信家で冷静にして冷徹、冷酷でさえある氷雷の錬金術士……この仏頂面の朴念仁が考えることは、時々デフィールにも理解しかねることが多々あった。  理解する必要がないほどに信頼を、愛情を感じていたから問題はなかったが。  だが、ヨルンは抱擁の手を解くや、あっという間にデフィールの寝巻きをまくってしまう。 「ちょ、ちょっとヨルン! 駄目よ、汗をかいて……じゃない、そういうことじゃないわ、ヨルン! どうしてもっと雰囲気を作ってくれないのかしらっ! ああもぉ、ヨルン!」  裸にひん剥かれながらも、怒りなのか失望なのか、ちょっとときめいているのかもわからぬままデフィールは再度ベッドの上に転がされた。その白い肌を這う大きな手と長い指が、その感触が懐かしさを加速させる。  だが、ヨルンは息を荒げたデフィールをぺたぺたと触ってくまなく肌という肌を隅々まで調べると……「ふむ」と得心を得たようにパッと手を離した。 「……ヨルン? ねえ、あなた……なんなのよ、もうっ!」 「例の呪いの痕、蔦や蔓が茂る場所はないようだな。感染した形跡もない」 「は?」 「フッ、まずは一安心というところか。……なんだ? 俺の顔になにかついているか? さっさと服を着ろ、風邪を引く。もう少しお前には休息が必要だ」  これだ、これである。  いつもこうなのだ。  デフィールにとって夫のヨルンは、いつもこう。とことんマイペース驀進、とってもマイウェイ邁進な人間なのである。そして、概ね説明の必要を感じていないし、説明を求めてもそれが得られることは少ない。間違った言動はめったにないが、それでもデフィールは長い結婚生活でアレコレ思い知らされていた。  だが、ヨルンはベッドに腰掛けると、先ほど剥ぎ取った寝巻きを肩にかけてくれる。 「……イクサビトやウロビトの中には今、巨人の呪いと呼ばれる疫病が蔓延している。あの皇子の側にいて、絶えず世界樹に近かったお前だ。もしやと思ってな」 「そ、それだけ?」 「ああ」 「そ、そう……うん、大丈夫よヨルン。私は平気……ただ、あの子は……バルドゥールは」  デフィールは表情を陰らせながらも、羽織る寝間着のシャツをぎゅむと握る。  最後の最後であの子は、バルドゥールは自分を遠ざけた……自由へと解放しようとしてくれたのだ。そのことが今、デフィールにははっきりとわかる。 「……私、償いきれない罪を犯したわ。冒険者たちを何度も……」 「全て帝国が仕組んだことだ」 「でも、私……」 「今は心身を休めろ、デフィール。……お前は俺の側にいればいい」 「……ええ。ありがとう、ヨルン」 「俺だけの力ではない。そもそも――」  その時だった。  二人が蜜月を取り戻す宿屋の一室に「見えないよクラッツ」「いや待て、待てって押すな! クラックス、ナル公もこら!」「あっ、旦那! 旦那もお疲れ、今二人は」「……覗き見は関心しないね、ラミュー君」「でも、お二人共とても仲が良さそうですわ」などなど、雑多な声がこそこそと響く。  何事かとデフィールが視線を走らせれば、突然バン! とドアが開かれた。  そして、大勢の若者たちが雪崩を打って部屋の中へと倒れこんで将棋倒しになる。 「お、おつかれ、ヨルンの旦那! オ、オレは……そう、ちょっと様子を見に」 「クラッツ、フミヲもサーシャもナルフリードも……重いよぉ」 「あの、しきみさん! なに堂々と載っかって、あ、ちょっと! 立つな、踏むなーっ!」 「サジタリオ、賭けぁオイラの勝ちだなあ。ハッハッハ、800エンまいどありー」 「……ばかくせえ、犬も食わぬノロケを見せられて、丸損かよ。おいヨルン、酒おごれよなぁ」 「やあ、ヨルン。奥方も無事みたいだね」  皆が皆、決まりが悪そうに張り付いた笑いを浮かべている。このタルシスの冒険者たちだ。その中心でシュルシュルと一度影へ身をやつして人の山をすり抜けるや、一人のナイトシーカーが立ち上がった。確か、名はポラーレ……幾度も帝国を窮地に陥れた恐るべき男だ。  そのポラーレだが、ぼんやりと覇気の欠片もない無表情でデフィールとヨルンを見詰めてくる。 「流石だね、ヨルン。帝国は奥方の神経や脳を一定の電圧で縛っていた。忌むべき太古の禁術だよ」 「ああ。だから、俺の雷で強制的に体内の電圧を吹き飛ばし、正常なシナプス間の電気パルスを……まあ、一種のショック療法だ」  唐突にデフィールは、自分が正気を取り戻せた仕組みと原理を知らされた。  だが、ポラーレは若者たちを立ち上がらせつつ、言葉を続ける。 「悪い知らせだよ、ヨルン。世界樹が枯れて倒れた……恐らく今、煌破天ノ都の奥で皇子は」  ポラーレの真剣な白い顔は、ただならぬ気配に緊張感を漲らせている。  だが、鼻で笑ったヨルンは、改めてデフィールにしか見せぬ表情を浮かべた。めずらしく、皆の前で。居並ぶ少年少女や、あとから顔を出したイクサビトやウロビトにも優しく微笑む。 「紹介がまだだったな、デフィール。連中が俺の……俺たちの、仲間だ」  デフィールは察した……自分と離れ離れの間に、夫はこんなにも多くの友を得たのだ。  こうしてエトリアの聖騎士と呼ばれた英雄は、罪を償う新たな戦いの輪へと加わるのだった。