深く澱んで沈む、闇。  光さえ差さぬ暗黒の中を、ポラーレの意識は彷徨っていた。  自我の境界線を失い、暴走させた術式の中へ、奥へと引き摺り込まれたところまでは覚えている。そこから先はもう、虚無の深淵……外へと広がる内なる世界が無限に広がる。  ポラーレはただ、上も下もない中で流されるままに漂っていた。 『僕は、死ぬ……のか? 死ぬということは、こういうことなのか……?』  自問する己への答が、自ずと自明の理となって反響する。  これは、死ではない。  生あるモノの帰結が、避けられぬ死ならば……ポラーレは死なない筈なのだ。もとより生命とは言えぬ錬金生物だったし、それでも生きていると思えた時があって、その時間をくれた人たちがいた。  そういう人たちのために力を使った、そのことに後悔は、ない。  ただ、まだポラーレは死ねない……死んだとは思いたくないのだ。  納得して死を許容できるほど、まだ生きていない。  まだ、生きていたい。 『そうか、だから僕は……うん、そうなのか。割りと単純に、生きてたんだな。生きて、いたいんだ』  そう呟いた時、ポラーレの視界の隅で光が瞬く。  それは、徐々に強さを増して近付きながら、周囲の虚空を白く塗り替えていった。目を凝らせば、眩しい程に煌々と輝くその光は……ついにポラーレを包み込んでしまう。  あっという間に光芒の中へ飲み込まれたポラーレは、不思議と懐かしい声を聞いた。  同時に、目の前に小さな小さな人影が浮かび上がる。 『父さん……嘗てその可能性であって、これからもそうあるもの……そうであれと願う、人』 『君、は……? 誰だい? 僕を、今……父さん、と』  直視できぬほどに眩い光の中に、小さな小さな女の子が浮かんでいた。  彼女は微笑んでいるような、涙ぐんでいるような表情を向けてくる。二房に結った長い長い髪が、左右へと棚引き揺れていた。  彼女はじっと、ポラーレを見詰めてくる。 『ボクは、ソーニョ。あなたの……父さんの、可能性。そういう未来もあったという、手には届かぬ祈りと願いの概念』 『可能性? 未来……願いと、祈り』 『そう。姉さんと流離い流転の日々を送る中で、父さんは見つけた……世界樹を遠景に臨む、あの街に』 『あの街……冒険者の街、タルシス。そこで、僕は?』 『うん。造られた場所より遠く離れ、創られた時から幾星霜……あなたが生まれ直した場所。生き始めた場所。あなただけの物語が、ボクの父さんとして廻り始めた場所』  不意にソーニョと名乗った少女が手を伸べてくる。  その手に手を重ねようとして、初めてポラーレが自分に四肢があることに気付いた。失われた肉体を今、人の姿でポラーレは象りながら漂っていたのだ。 『あなたが自分を投げ打ち紡いだ未来を、今……あなたの仲間たちが明日へと繋いだ。その先へ、あなたは挑まなければならない。ボクはその導……』 『挑む……僕が? 教えて、ソーニョ。それは』 『伝承の巨神へと未来を託した、遥か太古の閉ざされた人類……その末裔が選んだ、もう一つの可能性。それは今、暗き妄念となって溢れ出る。帝国が永らく封印してきた、世界の痛み』  それだけ言うと、ポラーレの手を取るソーニョの髪が逆立つ。  二房の髪はそれぞれ、互いを取り巻くように逆巻き拗じられてゆく。  天へと伸びて昇る二重螺旋の先に、ポラーレは吸い込まれ始めた。 『さよなら、父さん……違う未来、限りなく遠く、果てしなく近い明日の、父さんである人』 『君は……ソーニョ、君はもしかして! ……ああ、うん。わかったよ……届いていたよ、サジタリオ。僕は――』  刹那、全てが色を失う中へとポラーレは吸い込まれる。  急激に遠ざかるソーニョの姿が、あっという間に足元へと消えた。  そのままポラーレは、長い長い夢を見終えたあとのように瞳を開く。見上げる天井に見覚えがあって、そこがセフリムの宿の自室だと気付いた時には……ぼんやりと霞んで滲む視界は鮮明になっていった。  自分が現実の世界へと再醒したことが、信じられない。  あの時、ヨルンの術式で自分は暴走し、自我と引き換えに破壊の権化へと堕ちた筈だった。  だが、現実にポラーレは生きている。生き続けて生き抜き、生き終えるための生を自覚する肉体と精神に戻ってきたのだ。 「僕は……! この、剣……そうか、またこの剣に助けられたのか」  ベッドに身を起こせば、枕元にあの剣が……天羽々斬があった。鞘に収まる刀身は、リン、と小さく鳴る。その音が、ベッドに突っ伏すように眠りこけていた人物を起こしたようだった。  気付けばポラーレの周囲には、少女たちが囲んで眠っていた。  愛娘グルージャと、その友人たちだ。 「ん……あ。あれ、あたし眠って……!?」 「や、やあグルージャ。みんなも。おはよう、って言えばいいのかな。随分長く眠ってたような気がし、っ! ……グルージャ?」  瞼を擦るグルージャたちは皆、双眸にポラーレを映して見詰めるや、言葉を失った。  言葉を失うグルージャにラミュー、リシュリーとメテオーラとシャオイェンを前に、ポラーレがぎこちなく挨拶を放る。次の瞬間には、顔をくしゃくしゃにしたグルージャが砲弾のように胸へと飛び込んできた。  慌てて抱き留めるポラーレの腕の中で、グルージャは声をあげて泣いていた。 「馬鹿っ! 父さんの馬鹿、馬鹿……どうしていつもそうなの? 後先考えないで……馬鹿!」 「ごめんよ、グルージャ。って、グルージャ? 待って、悪かったよ、ごめん」 「許さないんだから、許せない! 馬鹿、父さんってホントに馬鹿……許してあげないんだから! ……ううん、わかってる、けど……あんまし馬鹿だから、あたしもう」  幼子のように泣きじゃくるグルージャが、ぽすぽすと両の拳を交互にポラーレへと叩き付けてくる。小さなゲンコツが叩いてくる胸の奥底に、ポラーレはじんわりと熱が広がってゆくのを感じた。グルージャの涙が、手が、受け止める全身が温かい。  冷たい自分の身体が感知する体温である以上に、グルージャの全てが熱かった。 「旦那……ヘヘ、やっと目が覚めたみてぇだな。オレ、信じてたぜ? けど、けどよ……ぐすっ」 「おじ様がグルージャを一人にする訳がありませんの。いつでもおじ様は、わたくしたちと共にあるのですわ」 「よかったー、もう心配で心配で……ご飯も三杯しか喉を通らなかったんだからねー」 「シャオは知ってたですぅ! ポラーレ様はいつだって、グルージャを独りぼっちにしない方なんですぅ」  次々と少女たちが抱きついてくるので、ポラーレはあわわと両手を広げつつその全てを受け止める。その時、ドアが開いて人影が立った。 「あら、お目覚めね。まったく……どうしてこう、男の子って無茶するのかしらん?」  そこには、包帯姿のデフィールが腕組み立っていた。 「や、やあデフィール。その、僕は男の子っていう歳じゃ」 「一緒よ、一緒。あの人ももう、無茶苦茶なんだから……こってり絞ってやったけど? でも、金輪際こゆことはやめて頂戴ね。あなたがいないと沢山の女の子が泣く羽目になるんだから」 「えっと、あ、うん……ごめん」  もごもごと要領を得ずに、ポラーレは少女たちを胸の上に泣かせながら俯いた。  だが、やれやれと肩を竦めたデフィールは「ほら、入って」と背後を振り向く。  道をゆずるデフィールの奥から、一人の麗人が姿を現した。 「ポラーレ、やっと……やっと目を、覚ましましたね。本当にあなたは……いけない人だ」 「ファレーナ! あ、いや、その……うん。ごめん」 「謝ってばかりではないですか、いつも。本当に、いつも、いつでも……あなたはずっとそう」 「ご、ごめん。あ! えっと……と、とりあえず、ただいま」 「ええ。おかえりなさい、ポラーレ。ずっと待っていました。もう、待たせないでくださいね?」  微笑むファレーナの白い顔を見上げて、ポラーレは大きく頷く。  既にもう、外ではタルシスの街は復興の活況に沸き立っていた。辺境伯の指示の下、三つの種族は互いを支えて新たな道を歩み出した。  遠くに今も、以前と変わらぬ世界樹を見やりながら。