連なる四つの大地に、平和が戻ってきた。  伝承の巨神から開放されたバルドゥール皇子は、自分の衰弱をおして帝国へ戻り、復興の陣頭指揮を執っている。悔い改めた彼を、国民の誰もが温かく迎えた。また、巫女シウアンもその支えとなり、ウロビトたちの里から手助けをしている。  世界は今、傷付きながらも絆を取り戻し、痛みを癒やし始めたのだ。  タルシスの冒険者たちもまた、忙しい毎日を過ごしていた。 「ポラーレさん、精算が終わりました。……あまり領収書を貯めてはいけませんよ?」  踊る孔雀亭の喧騒の中を、聴き心地のいい声がよく通る。  サーシャと休憩中におやつを食べていたクラックスは、テーブルから顔をあげると振り返った。隅の席で今、アルマナが書類の整理をしている。ヴィアラッテアとトライマーチの見慣れた顔が、各々に決済を待って小さな行列を作っていた。  クラックスはつい、アルマナの顔をじっと見詰めてしまう。 「……どうしたんだろう、アルマナは。あの顔の眼帯は、あれは」 「ん? やはり気になるか、クラックス」 「う、うん。ねえサーシャ、アルマナは少し調子も悪いみたいだし」  アルマナは以前から、時々体調不良を理由に冒険を休んでいた。今はこうして両ギルドの財務を見てくれているが、心なしか顔色が悪い。そして蒼白な表情の半分を覆うように、左目を大きな眼帯で覆っていた。  自然とクラックスは、ワッフルを頬張りその横顔を見やる。 「あと、ポラーレさん。老婆心ですが……あなたはヴィアラッテアのギルドマスターなんですよ? ふふ、ギルド長や他のギルドとの寄り合いでは、もう少し自分を飾ってもいいんです」 「あ、いや、その、アルマナ……僕は、ほら、服は自分である程度作れるし……ワインの類は駄目だし、食事も特に贅沢は」 「周りの方が遠慮してしまいます。体外的な折衝では社交の場にも出るのですから」  そう言うアルマナは、静かに頬を崩した。  クラックスもよく知っている、兄は贅沢とか見栄を張るということを知らない。いつだったか、各種族の重鎮がタルシスに集まった大事な会議の場で、懇親会の流れになった時……彼はパンとスープだけで済まそうとして周囲を唖然とさせたのだった。  だが、そんな慎ましいギルドマスターをみんな慕って信頼していた。  せいぜい贅沢と言えば、友と酒場で酒を飲み、珍しい書物を時々買うくらいだ。 「今度から、気をつけるよ……そうか」 「アルマナ、この人をあまり責めないでやってほしい。ふふ、本当に不器用な人だから」  黒い影に寄り添うように今、白い麗人が微笑みそ腕を組んで身を寄せる。  最近、ポラーレの横にはファレーナが一緒だ。そのことでまだクラックスの胸は僅かに痛むが、その疼痛すらも今は愛おしい。あの二人はようやく、激戦を経て互いの距離を近づけるために歩み寄ったのだ。  領収書の精算を終えたポラーレが、ファレーナと連れ添い酒場を出てゆく。  その後姿へ目を細めて見送るクラックスは、自然と柔らかな笑みを浮かべていた。 「……大丈夫か、クラックス」 「あ、うん。……平気だよ、サーシャ。次は、サーシャの番だね」 「なっ! なな、なにを言っているのだ、私は」 「クラッツはきっと、サーシャのこと好きだよ?」  だって、自分の好きなクラッツだから。  それを言ってやったら、サーシャはボシュッ! と真っ赤になって俯いてしまった。  だが、そんなうららかな午後のひとときを、絹を裂くような女の悲鳴が遮る。  何事かと首を巡らせると……一人のイクサビトがアルマナの前で固まっていた。 「すみません、キクリさん。こちらの領収書は経費では落ちません」  申し訳無さそうにアルマナは、飲食店の領収書の束をそっと返す。  それを力なく受け取ったキクリは、耳をぺしゃーんと力なく垂れたまま俯いた。 「あ、あのぉ、アルマナさん……これは、全部ちゃんとした合コン……じゃない、ギルド間の打ち合わせでぇ。わたし、情報収集とかも一生懸命しましたし、他のみんなもぉ」 「どちらかというと、私的な飲食になるかと……キクリさん」 「ふぇ……やっぱりそうですかぁ? はあ……どうしてもダメでしょうか」 「どうしても、ダメですね。両ギルドの資金管理も、私に任されたお仕事ですし」  クラックスは「あ」と思わず声をあげて口を手で抑える。  自分も誘われたことがあるのだ……キクリの打ち合わせや地域交流会と銘打った合コンに。さらに言えば、婚活に。確かにそれは有益な情報も得られただろうが、至極私的なキクリの自己都合による出費とも言えた。  だが、共犯者が力強くキクリの隣に現れて助け舟を出す。 「アルマナ、ダメかや? ちっくと出してやれぃ、ワシが誘ったのも悪かったんじゃ」 「しきみさん……しかし」 「あまり小役人のように小賢しくてもいかんぞ? のうキクリ。金は天下の回りものじゃあ」  煙管に紫煙を燻らしながら、以前より包帯の減ったしきみがニッカリ笑う。隣でキクリが、うんうん! うんうんうん! と何度も頷いた。  キクリの婚活は概ね、しきみの男漁りと利害の一致を見て共同戦線となることが多かった。  だが、形良いおとがいに手を当て、アルマナは考え込んでしまう。彼女はフランツ王国の三銃士、騎士であると同時に王政中枢の官僚機構にも身を置いていた才女だ。クラックスも以前から、彼女がやや頭が硬い、硬過ぎるきらいがあることは知っていた。  しかし、生真面目なアルマナの性格はむしろ、好ましく思えるのだが。  悩むアルマナの横に今度は別の人物が顔を出す。 「お待ち下さい、しきみ殿! 倭国の武人ともあろう方が、いけません。ええ、いけませんとも! ギルドの資金はいわば、皆の資金です。それに手を付けて酒を飲むなど、いけません!」  話が、ややこしくなってきた。  アルマナの華奢な肩にポンと手をおくと、オルテンシアがグッ! と拳を握って力説する。そう、彼女はある意味ではアルマナ以上に堅物で、彼女の騎士道には道に迷うことも道を曲げることもありえないのだ。公明正大を尊ぶオルテンシアの笑顔は、今日も晴れやかで眩しい。 「オルテンシア、お主のう……よし、承知じゃ! とりあえず今夜、お主も飲みにこい」 「それは嬉しいのですが、しきみ殿。わたしはやはり、武人同士で交流を深めるのは、個人の裁量ですべきかと! ええ、ええ! 今夜は飲んで語らいましょう……自腹で。割り勘で」  のらりくらりと煙草を吹かすしきみと、キッパリと譲らないオルテンシア。  二人は笑顔と笑顔だったが、なかなか話がまとまらない。ともすれば、そういうやりとりを楽しんでる雰囲気もあって、自然と酒場中の笑いを誘った。  そんな中、キクリは最後の抵抗を試みる。 「あのぉ、アルマナさぁん。この領収書――」 「ええと……ごめんなさい、キクリさん。それはいけません」 「駄目ですかぁ?」 「いけません、ね」  今度こそうなだれてしまったキクリは、領収書の束を抱えてふらふらと行ってしまった。それをしきみは慰め気遣い元気づけて、結局二人で出てゆく。あれは今夜、またこの場に戻ってきて飲む腹積もりだな……クラックスも自然と頬が緩んだ。  だが、異変が起こったのはそんな時だった。 「ん、お? おおっ!? ア、アルマナ殿! お顔が……こ、これは面妖な!」  不意にオルテンシアの声が悲鳴のように叫ばれた。  それは、眼帯から僅かに覗く素顔を、アルマナが手で抑えるのと同時。彼女は椅子を蹴って立ち上がると、クラックスたちのテーブルを掠めて外へと駆け出した。  クラックスは見た……すぐ横を通り過ぎたアルマナの顔に、縛鎖のような黒い痣が広がるのを。  そして、思わず立ったクラックスはワッフルの残りを口に押し込む。 「クラックス、アルマナ殿を追え! 急げ馬鹿者、走れ!」 「サーシャ……でも」 「貴様のことなどお見通しだ、いいからあとを追うんだ。……頼む」  酒場が騒然とする中で、サーシャがクラックスを見詰めてくる。そこには、口調こそ粗野で厳しが、少年傭兵団シャドウリンクスの鬼副長とは思えぬ潤んだ瞳が揺れていた。 「お前が以前からアルマナ殿を気にかけていたのは知っている。なら、こういう時こそ勇気だ」 「勇気……?」 「そ、そうだ! それくらいわかれ、全く愚図が……お前は、あの時の私に勇気をくれた。だから、その勇気を今度は自分で使うんだ」  ぼそぼそと頬を赤らめつつ言葉を零すサーシャに、クラックスは力強く頷く。  次の瞬間には、クラックスはアルマナを追って酒場を飛び出ていた。夕闇が迫るタルシスの町並みの、その向こうに既にアルマナの姿は見えない。だが、クラックスは彼女が郊外に借りてるアパルトメントへ向けて全速力で走った。