冒険者の街タルシスも、郊外へと走ればのどかな風景が広がる。牧草を喰む家畜の群れや、午後の日差しに揺れる稲穂。そして、汗を流す民たちの笑顔が咲いていた。  そんなタルシスの外れに、そのアパルトメントはひっそりと建っている。  以前にアルマナが話してくれた通り、どこか人目を避けるような古い建物だ。  迷わずクラックスは、アルマナの部屋へと階段を駆け上がる。 「アルマナ、大丈夫!? ごめん、僕……その、僕っ!」  ドアの前へと立って、そっと叩いてみる。  返事は、ない。  だが、間違いなく樫の木板の向こうにはアルマナの気配が感じられた。そして、クラックスの鋭敏な聴覚が拾う、か細く消え入りそうな泣き声。 「ねえ、アルマナ! 心配なんだ……こんな気持ち、初めてなんだよ」  ドアノブへと手を掛けても、虚しく鍵の金属音が返るだけ。内側からロックされたドアは、ぴくりとも動かない。まるで、頑ななアルマナの閉ざされた心そのものだ。  それでもクラックスは、ドアへと額を押し当て声を絞り出した。  どうして、こんなにもアルマナのことが気になるのだろう?  いつからかクラックスは、気付けば日々の中でアルマナを目で追っていた。男女の別なく横恋慕にふらふらしていた彼が、不思議と一人の女性を気にかけていたのだ。最初は、あの白い肌を侵す謎の黒い痣が気になった。だが、それとなく聞いてみても、アルマナは弱々しい笑みを返すだけだったのだ。  それでも、いつしかクラックスはアルマナの笑顔が見たくて、つきまとっていた。  そんなクラックスにアルマナもまた、少しずつ心を開いてくれた……ように、思う。  今はそれだけを信じてドアの前に立つが、不似合いな拒絶の空気が場を満たしていた。 「アルマナ……君の力になりたいんだ。その、僕なんかじゃ頼りない、頼れないかもしれないけど。でも」  焦れるような気持ちを言葉に乗せて絞りだすクラックス。  だが、静寂だけが周囲に満ちていった。  どうやら他の部屋は空いているらしく、周囲に人の気配はなかった。この賃貸物件自体が、まるで人目から逃れるためにあるような建物だ。その中に閉じ籠もってしまったアルマナが、クラックスにはとても遠くに感じた。  板切れ一枚挟んだ向こう側で、確かにあの人は泣いているのに。  クラックスは額を押し当てたまま、ズルズルとその場に膝を突く。 「……アルマナは前、僕に言ってくれたんだ。怒った兄さんにとって、殺す価値もない僕に。生命を正しく使えって。兄さんが生かした僕は、そうするべきなんだって」  忘れもしない、片時も忘れない。  そして多分、一生忘れないだろう。  クラックスにとって、それは初めての言葉だった。完成された生体兵器であり、究極の錬金生物だったクラックス。彼にとって全ては当たり前で、望む結果は常に力を振るえば転がり込んできた。ただ、それだけだったのだ。  だが、今は違う……違うとわかってから、クラックスの生き方は激変した。  それを教えてくれた人が今、見えないなにかに怯えながら泣いているのだ。 「お願いだよ、アルマナ……せめて、声を聴かせて」  どれくらいこうして、ドアの前に佇んでいただろうか。  膝の上に拳を握りながら、クラックスは不器用な気持ちをどうにか言葉にしようと足掻いていた。あまりにも自分が無知で無力で、こんなにもちっぽけに感じたのは初めてだった。  周囲は鳥の鳴く声が響いて、迫る夕闇が逢魔の刻を連れてくる。  日差しが真っ赤な夕焼けを差し込んでくる中で、クラックスは動けなかった。 「アルマナ……僕、誰にも言ってないんだ。誰にも言わない。君が望むなら、僕はなにも知らなくてもいい。でも、でも……君が泣いてると、なにかしたくてしょうがないんだ」  気付けばクラックスも、視界が潤んでゆくのを感じた。  兄と違い、完璧に人間の姿と機能を持って生まれたクラックス。最初は、そんな自分に疑問しか感じなかった。どうして超越者である自分が、人間そのものである己を内包しているのか。ただ、とめどなく溢れる欲望を弾けさせること以外に、人間である自分に意味が見出せなかったのだ。  それもでも、今は違う。  多くの挫折と仲間の存在が、クラックスの生命に意味を、意義をもたらした。  だから今、ゴシゴシと手の甲で涙を拭って耐え続ける。本当に泣きたいのは、そして今泣いてるのはアルマナなのだから。  その時、ドアの向こうで小さな声がした。 「……クラックス、君」 「アルマナ!」  クラックスは立ち上がるや、ドアノブへと手を伸べ、それを瞬時に思い留まる。ガチャガチャとドアノブを鳴らすだけで聞こえなくなりそうなほど、アルマナの声は弱々しかった。いつもの凛として涼やかな、それでいて耳に心地よい声音ではない。  静かにアルマナの言葉を待つクラックスは、次の瞬間には悲しい拒絶に貫かれる。 「帰って、ください……私は、大丈夫、ですから」 「そんな、アルマナ! ねえ、大丈夫な訳ないよね?」  大丈夫とは思えない。  クラックスはもう、ドアの向こうの気配が悲しみに沈んでゆくのが、我慢ならなかった。 「ごめん、アルマナ! 僕、ちょっとだけお邪魔するよ!」  小さく息を飲む気配を向こう側に拾いながらも、遂にクラックスはドアノブを握るや、力任せに引っ張る。古い扉はあっという間に、金具をガタガタ言わせながら鍵ごと外れた。ドアそのものを取っ払ってしまったクラックスは、それを脇へどける。  真っ暗な部屋の奥へ、アルマナの影が隠れるのが見えた。 「い、いけません! クラックス君……お願い、です。帰って」 「いっ、いやだ! ごめん、嫌だよ。だって、僕は……!?」  部屋の中へ入ったクラックスは目を見張った。  奥の間から僅かに半身を覗かせる、下着姿のアルマナが見えた。闇にぼんやりと浮かぶ白い肌には、以前も見た無数の痣が鎖のように走っている。そしてそれは前にも増して禍々しくアルマナの全身を侵しており、首を伝って顔にまで広がっていた。 「クラックス君……私は、この呪いに蝕まれ……もうすぐ」 「アルマナ……」 「それでも、よかった。最後まで騎士として呪いに抗い、あの竜を……忌むべき祖国の敵を倒すために戦って死ぬなら。でも、今は」  クラックスが駆け寄っても、もうアルマナは逃げなかった。  カーテンを閉めきった部屋の中で、僅かに差し込む夕暮れの日差し。それが浮かび上がらせるスレンダーな姿をクラックスは抱き締める。そうすることが自然に思えて、それしかしてやれることがない気がするクラックスだった。  クラックスの胸の中で、泣きながらアルマナは涙を零す。 「今は……こうして、呪いが全身に回った今は、私もう……戦えない。これ以上、もう……だって、私、私は。クラックス君、私は……知ってしまったから。貴方のことが、こんなにも」 「アルマナ……言わないで、大丈夫。大丈夫だよ……僕が必ず力になる。君が前に言ってくれた、生命の正しい使い方……それって多分、泣いてる誰かの力になることだと思うんだ」  それはもう、確信。クラックスは、腕の中で震えるアルマナの頭を撫でてやる。  涙に濡れながら見上げてくるアルマナの顔はもう、その美しさを汚すように黒い痣が縦横に刻まれていた。彼女を縛る竜の呪い……どうすればそれは解けるのだろうか? 「誰かの力に……そして今、君の力になりたい。ねえ、アルマナ……一人で背負うのが重過ぎるのなら、僕が力を貸すよ。僕が君ごと全部背負うよ?」 「クラックス君……でも、それは。私、初めてなんです……その、男の方に、こんなにも。こんな気持ち、初めてで」 「僕も一緒さ」  そう、初めて他者を愛おしいと思った。羨みながらも力で奪う、そういう残酷な無邪気さではない。自分の持てる力の全てで、守りたいと思える人をクラックスは見つけたのだ。  次第に夜の寒さが忍び寄る中で、泣きじゃくるアルマナの背を黙ってクラックスは支えた。 「……それと、ごめん。アルマナの部屋……ドア、壊しちゃった」 「クラックス君。い、いえ、いいんです。そうまでして……嬉しかった」 「心配でたまらなかった、胸が潰れそうだったよ。アルマナ、もう泣かないで……僕がついてる。僕も兄さんみたいに、大切な人の側にいるよ」  幼子をあやすようにアルマナの背をさすりながら、ちらりとクラックスは開きっぱなしの玄関を振り返る。 「僕もこう、落ち込んだ時の兄さんみたいに、平べったくなってあそこにはまって、ずっとアルマナの部屋のドアになっちゃっててもいいんだ。そうしてでも、側にいたい」 「クラックス君、それは……ふふ、それはいけません、よ? 駄目……貴方の力は、そんなことに使っては」 「アルマナ、よかった。やっと笑ってくれた」  次第に日が落ちる中で、二人は長いこと抱き合って体温を分かち合った。  結局アルマナは、クラックスの申し出を受けて、セフリムの宿の彼の部屋へと来てくれることになったのだった。