帝国の西の外れ、切り立つ断崖の上に金鹿図書館はある。  表向きは帝国の貴重な文献を保存する場所だが、金鹿図書館にはもう一つの裏の顔があった。それが、帝国最強の独立戦力……特務封印騎士団。  ファルファラは厄介になっている金鹿図書館の窓辺に立って、外の風景に目を細めた。  そこには、特務封印騎士団が長らく封じてきた、この地の最大の災厄が眠っている。  金鹿図書館の裏手、山奥に不気味に鎮座する謎の黒い建造物がそうだ。 「ついにここまで来たわ……あと少し。あと少しで、手が届くの」  妖艶な笑みに唇を歪めると、ファルファラは窓を閉めて歩き出す。すれ違う職員や司書たちも、緊急時には戦闘要員となる屈強な騎士たちである。その誰もが、ファルファラへ礼儀正しく頭を垂れて、挨拶を返す彼女の背を視線で追っていた。  ファルファラは団長の執務室へ赴き、重い扉をノックして入室した。 「あら、ファルファラ。どうかしら? ここの暮らしにはもう慣れて?」  ソファにしどけなく身を崩して座るのは、この特務封印騎士団の長、フリメラルダ・フォン・グリントハイムだ。  彼女は今、ちょっと人には見せられないような姿をしている。帝国にも潜伏したことがあるファルファラの耳には、謎の特務封印騎士団の麗しき美人団長として、フリメラルダの噂はアチコチで話題になっているのだ。  誰もが皆、見たこともない最強騎士団の美しき長に想いを馳せているのだ。  そして、今のフリメラルダの格好は、その夢を木っ端微塵に粉砕する破壊力がある。 「……なんて格好をしてるのかしら、団長さん?」 「あら、一応今はオフの時間ですわ。だからせっせと作業を進めてますのよ? ……まあ、手を動かすのはわたくしではないのですけど」  ジャージ姿のフリメラルダは、笑って執務机を指差す。  大きな机では今、一人の青年が涙目になりながら筆を走らせていた。彼は確か、ブリテンから来た帝国の駐留武官、ヴェリオだ。ナルフリードの姿が見えないが、そのことを正直にファルファラが口に出すと、彼はペンを走らせ続けながら見もせずに答える。 「ナルなら、他の騎士たちと一緒に定期巡回に行ったよ。例のあの施設にね」 「あら、立ち入れるのかしら? 封印されてるんでしょう?」 「構造物自体には入れないさ。でも、監視を続けてるんだ……ここは、特務封印騎士団は。僕らもそれを手伝うと決めた。……彼女が言うように、災禍が解き放たれようとしてるなら」  チラリとヴェリオは顔をあげて、ソファでゴロゴロしてるフリメラルダを見やる。  フリメラルダはのんびりと爪の手入れなんぞをしながら、心底寛いでいるようだった。  だが、忙しそうにペンを握るヴェリオは、ブツブツと文句を言いながら机にかじりついている。その広い卓上にファルファラは腰掛けると、彼の手元を覗き込んだ。 「……なんの書類かしら? ねえ、ヴェリオ……なにを書いてるの?」 「描かされてるんです! そこの人に! ……見てください、漫画と呼ばれる絵草紙ですよ。フリメラルダさんは、しかもこんな……僕は目が腐りそうですよ! まったく!」  悲鳴に近い声をあげつつ、ヴェリオは半ばやけくそでペンを走らせている。  だが、ソファにとうとう横になってしまったフリメラルダは「ベタを塗らせてるだけですわ」と悪びれない。彼女は野暮ったいジャージ姿で、そっと右手を差し出してくる。  フリメラルダの右手には、今も包帯が巻かれていた。  これは以前、迷宮でヴィアラッテアの冒険者、サジタリオの矢に射抜かれた傷だ。百発百中の射手は、狙い違わずフリメラルダの利き腕を防具ごと貫き、その剣技を封じてきたのだ。  フリメラルダはいまだに残る痛みを確かめるように、手を強く握って拳を作る。 「利き腕がまだ使えないの、だからヴェリオさんにお願いしてるのだけど。締め切りも近いですし、急いで入稿しないと帝都の印刷所を困らせることになりますわ」  ファルファラは、意外な趣味があるフリメラルダに驚いた。  そして、ヴェリオの手元を覗き込み……その美貌を限りなくフラットに塗り潰してゆく。ヴェリオが手伝わされている漫画の原稿は、男性同士の情愛や情事を描いた、男色物だったのだ。 「呆れた……フリメラルダ、貴女って人はホントに」 「あら、ファルファラはお嫌い? 昔の偉人の格言にもありますのよ? 男色が嫌いな女子なんかいません!!!! って」 「……ノーコメントにしておくわ。それより」  フリメラルダがつまらなそうに鼻から溜息を零して、ソファに深々と沈んだ。  その間もヴェリオは、ブツブツと文句を言いながら漫画の原稿にベタを塗っている。  栄えある特務封印騎士団の団長室とは思えぬ雰囲気だったが、ファルファラは自身の情報網にたった今飛び込んできた話を二人へと聞かせた。 「冒険者たちは二匹目の竜を討伐したわ。第一大地の紅いドラゴンに続いて、第二大地の金色のドラゴンよ。徐々にだけど、彼らは力をつけているわ」  ファルファラの言葉に、思わず驚愕からヴェリオは手を止める。顔を上げた彼の表情は、驚きに満ちていた。逆に、フリメラルダはさして驚いた素振りも見せずに素足の指の爪へと視線を落としている。 「ファルファラさん、それは本当なのですか? 人の手で竜が倒せるなんて……」 「事実よ。そして現実だわ。彼らは、ポラーレたちは強くなっているの」 「た、楽しそうですね、ファルファラさん」 「あら、そう?」  気付けば笑っている自分がおかしくて、ファルファラは頬に手を当てる。妖艶な美貌は今、童女のようにあどけない笑顔に綻んでいた。  このまま冒険者たちが、タルシスと帝国、ウロビトとイクサビトとの新たな時代を切り開くなら……最後のドラゴン、第三大地の青い竜とも戦いは避けられない。  だが、ファルファラはその勝利を信じていたし、彼女の思惟は既にその先へ巡っていた。 「第四大地には……この帝国には、ドラゴンはいないのかしら?」  ファルファラのもっともな問に、ヴェリオが視線をソファへと注ぐ。  相変わらずやる気ゼロでペシャーンとしているフリメラルダが、思い出したように言葉を続けてくれた。それは、この帝国の歴史に暗い影を落とす災厄の物語だ。 「あら、この土地にもドラゴンはいましてよ? いた、という過去形が正しいですわね」 「じゃあ、既に倒されたのかしら?」 「いいえ……辛うじて無力化し、封じ込めたのよ。余りに強い力に加えて、高度な知性を持つ黒い竜。遠く南の空中樹海に住むという、伝説の神竜に匹敵する力を持つと言われているわ」  ようやくソファの上に身を起こしたフリメラルダは、髪をかきあげながら喋り続ける。 「帝国の北東の果てにある、巨大なクレーターをご存知かしら?」 「ええ。あれは……」 「大昔、帝国は持てる全ての戦力で黒き竜と戦い、その邪悪な身体をあそこに封じましたの。でも、強過ぎる竜の力は時折漏れ出て、その後も頻繁に世界各地へ災いを振りまきましたわ」  その言葉にヴェリオが、なにかに気付いたように顔をあげた。  ファルファラにも心当たりがあったし、その渦中の人物たちは真実へと近付こうとしている。 「数年前の、フランツ王国の惨劇……? そうか、フランツ王国を襲った黒い竜とは」 「アルマナが追ってる竜は、恐らくそれね」  ファルファラは一人、かつてタルシスで同じ冒険者だった女剣士を思い出す。共に戦った期間は短かったが、決して肌を外へ出さない不思議な女性だった。  そのアルマナだが、今は普通に暮らしてクラックスと共に竜を追っている。  人の縁とは不思議なもので、その情報を手にした時はファルファラも同じ女性として成功を祈った。既に全身に呪いの痣が広がったアルマナは、確実にその元凶へと、故郷と同胞の仇へと近付いていた。残された最後の寿命が尽きる瞬間と共に。  ファルファラが物思いに僅かな時間耽っていると、フリメラルダはサンダルを足につっかけながら小さく零す。 「古の黒き竜すら倒す……そういう人間でなければ、これから先の戦いには生き残れない」 「フリメラルダ……そろそろ教えて頂戴? あの建物に……この金鹿図書館の奥のあれに、なにが封印されているの? ……それは、私の想像しているものと同じなのかしら」 「そうね、ファルファラ。それは……旧世紀の希望、祈りと願い。その残滓、成れの果てよ」  それだけ言うと、フリメラルダは立ち上がって執務机に歩み寄り、ヴェリオの手元を覗き込む。そして、あられもない絶叫が響き渡った。 「ヴェリオッ、違うわ、違いましてよ! ベタを塗るのは、×の印のとこですわ! 逆、逆!」 「えっ? ああ、こっちを塗るのか。道理で……」 「キイイイイッ! わたくしのポラーレ様が、ヨルン様が、サジタリオ様がああああっ! 真っ黒に! ……描き直しですわっ!」  廊下の誰もが足を止めるような、金切り声に近い絶叫だった。  ファルファラは半べそで原稿を宙へと放り出すフリメラルダに、自然と笑みが零れた。