蘇りし悪夢、冥闇に堕した者の翼が唸りを上げる。  屈強な騎士たちを、煉獄翔の羽撃きが襲った。レオーネやクレーエといった仲間たちがそうであるように、ナルフリードもまた歯を食いしばって耐えるしかない。避けることも防ぐこともできぬまま、脚は根が生えたように動かず、手は握る砲剣の感触すらない。  思考を結ぶ側から逃がして霧散させる頭痛で、それでも三人は起死回生のチャンスを待つ。 『クァハ! ハ、ハァ……愚か、愚かなり! 朕を前に全ては無力と知れ』  いよいよ荒ぶる邪竜を前に、ナルフリードの中で割れるように響く声。燃え滾る憎悪に滾る烈火の焔が、彼の中で紅蓮に逆巻いていた。それは双子の姉であるベルフリーデの、圧倒的な殺意……目の前の敵に勝るとも劣らぬ、負の感情が全身へと伝搬してゆく。  だが、ナルフリードは身体を決して渡そうとしなかった。 「すみません、姉様っ! あの方は……リシュリー姫は俺が助け出さねばならないのです」  寒く凍った薄暗い洞窟での出会いだった。蝙蝠が飛び交う、見えぬ通路で結ばれた小迷宮……その奥でナルフリードは出会った。自分と同じく雌雄併せ持つ宿命に生まれながら、星空に浮かぶ月のように微笑む少女に。  今でも忘れはしない、あの時のリシュリーの笑顔を。  ブリテンではアウト・オブ・ラウンド、破戒の狂騎士と呼ばれたナルフリードが……初めて目にして、心に感じたのだ。真に仕えたいと思える、純真無垢な高貴さに。それが叶わぬまでも、彼女を守りたいと今は誓っている。  ナルフリードはボロボロに擦り切れ燃えたマントを脱ぎ捨て、砲剣を身構える。  背後で互いを支え合うレオーネとクレーエから、悲鳴のような絶叫が迸った。 「ナルフリード君、やめたまえ! 一人では……無茶だっ!」 「よせっ、死に急ぐな! 客将を死なせて、殿下が……俺が、俺たちが喜ぶものかよ!」  だが、肩越しに一度だけ振り向き、ナルフリードは口元に笑みを浮かべる。  それは、覚悟を決めた彼の中から、自然と浮き出た気持ちの透明感に彩られていた。 「コラッジョーゾ卿、アーベント卿! お二人に奴の首、お預けします! 僅かなチャンスでいい……リシュリー姫さえ助け出せれば、あとは皆が! ……勝負っ!」  己を蝕み封じて縛る、目に見えぬ呪いに抗うようにナルフリードが駆け出す。  その手に引きずる砲剣が、猛禽獣を刻んだ刀身を振るえさせた。モーターが金切り声を歌って、自由を奪われた全身の呪縛を振り払ってゆく。  ナルフリードは裂帛の気合で縛鎖を引き千切るや、砲剣を振り上げ跳躍する。  巨体を揺すって嗤う黒き邪竜は、その全身に風を纏って嵐を放った。  雷旋風の唸る轟雷と烈風が、たちまちナフルリードを刻んで爆ぜた。 「ナルフリード君! くっ!」 「レオーネ、俺が行くッ! 俺の方が疾い……援護してくれ!」  薄れゆく意識の中で、ナルフリードは後に仲間たちの声を聞いた。  そう、仲間だ。  かつて伝承の巨神と、共に戦った仲間だ。皆、自分とは違って高潔な騎士だ。故国のために敢えて逆賊の汚名を着ることも厭わぬ、主君のためならば過ちと知っても筋を通す、そういう男だちだ。  リシュリーさえ救えば、あとは二人が……タルシスの冒険者がなんとかしてくれる。  ヴェリオやフリメラルダの反対を振り切り、この場へ駆け付けたのは間違いではなかった。……筈だ。それを証明せんとしたナルフリードの視界が、真っ白に消えてゆく。 『骨も残さず砕けたか? 穢らわしき混者の騎士よ……我が身に取込し姫君は、小癪な神竜エルダードラゴンの加護を纏っておる。じゃが、貴様なぞは――!?』  ナルフリードの意識が、いつもの高揚感に塗り替わってゆく。  そしてそれは、普段の暴力的な血の衝動ではなかった。  周囲に砕けた鎧の破片を振りまきながら……白い肌も顕な狂騎士が吼えた。その両手に振り上げた砲剣が、アクセルドライブの金切り声を振り下ろす。   勝利の哄笑に顔を歪めていた冥闇に堕した者が、目を見開いて絶叫する。 『馬鹿な! 貴様、なにゆえ……朕に傷を! この高貴なる姿に血を!』  直撃を受けて爆光に消える間際に、ナルフリードが放ったアクセルドライブが炸裂していた。それは今、冥闇に堕した者の顔に僅かな傷を残す。そして、その隙へと飛び込む影はまだ生きていた。 「うっさいわね、サディスト野郎っ! 兄様の肌にまた傷を……殺す! あとで殺すわ、バラバラに引き千切ってやる! そこおぉぉぉぉ、動くなああああっ!」  獣のような咆哮と共に、血塗れの裸体が飛ぶ。見開く瞳を充血させて、爛々と輝かせる鬼女の形相が冥闇に堕した者へと取り付いた。巨大なドラゴンの鼻先へとしがみついて、彼女は……そう、彼女へと豹変したナルフリードが鱗と甲殻の上を這い上がる。  夥しい流血の赤を黒い竜へと描きながら、彼女は……ベルフリーデは視力を振り絞る。 「兄様があ! その小娘、よこせって、言ってるのよ! トカゲ風情が」 『貴様ぁ……貴様っ! 朕の高貴なる鱗と甲殻に! 穢れた混者の血を! なにより、朕の血を……この朕に傷を!』 「黙んなさいよ、竜畜生の腐れ外道……うっ! あ、がぁ……あ、頭が、また……だ、大丈夫、大丈夫よ兄様……これぐらい」  激しく身を揺すって、周囲に雷光と業火を纏う黒き竜。その鼻先をよじ登ったベルフリーデは、振り落とされそうになりながらも額へ埋まった少女へ手を伸べた。  ベルフリーデを苛む痛みは、冥闇に堕した者が刻んだ傷だけではない。  ここ最近、二人で一つの肉体を蝕むように、正体不明の激痛が走るのだ。  それは、常にベルフリーデの人格が表面上に顕現する時に現れる。  そして、その徴候を冥闇に堕した者は見逃しはしなかった。 『そうか、貴様は! そうか、そうかや……クハハッ! 混者の肉体に二つの精神を宿しておるか。それでは、持たぬなあ? もとより命は、一つの躰に一つの魂しか宿せぬ』 「黙れって、言ってん、のよ……っ! ハァ、ハァ……なにさ、こんな貧相な娘……兄様、趣味が悪い、わ……え? 姫? お姫様なの、この娘? 守る……そう、騎士だから。そう……なら、あたしが守るわ。兄様と、あたしが」  ベルフリーデは冥闇に堕した者の額に埋まり、徐々に沈み込むかのように同化してゆくリシュリーへ手を伸べる。その細い腰に手を回して、ぬめる粘液が糸を引く中から引っ張り出した。それは、復讐に燃える黒き竜の逆鱗に触れる行為だった。 『貴様……それに手を触れるでない! それは、朕のもの……彼奴が祝福せし、朕の呪う全て! 彼奴の……神竜の前で、最初に汚され辱められる命ぞ! それを!』 「ざけんじゃないわよ、笑わせないで。あんたみたいな、クズが……女の子を、汚せる、訳、ない……じゃない。どんな娘だって、あんたなんかで汚れて、やらない……やるもんか」  姉の中で全てを見守るナルフリードの、張り上げた絶叫はベルフリーデに届かない。  彼女は取り出したリシュリーを庇うように抱き締め、黒き爪を掻い潜るようにして飛び降りた。不思議と今、ナルフリードは身体の全てを姉へと譲渡した中で、初めての一体感を感じていた。自分が思う通りに姉が、ベルフリーデが動いてくれる。リシュリーを守ってくれる。  そして、ナルフリードを自分の奥底に封じたまま、ベルフリーデが気を失った、その時。  錐揉み落ちる二人の少女の裸体を、長身の影が受け止め抱き上げた。  それは、唯一にして絶対の逆鱗に触れられたもう一匹の竜だ。 「……レオーネ、クレーエ殿も。待たせてすまない。貴公らは一度退け。ここは私が引き受けた」  軽々と少女二人分の体重を抱き止め、そっと脱いだマントで包む。  そうして激昂の邪竜に振り向く姿は、エミットだった。 『貴様……人間風情が、朕に……朕の復讐に』 「堕落せし邪悪な竜王よ。多くの悲劇を振りまき、自ら蘇ってさらなる悲劇を招く……もはや生かしておけぬ。その前に……お前は自らが犯した罪を贖うがいい。今こそ因果に応報する時!」  次の瞬間、光が走った。  ナルフリードには、その鋭い斬撃が見えなかった。  人の限界を超える、神速……なにかが吼え荒ぶ邪竜の眼前を擦過し、鋭い刃の一閃と共に舞い降りる。  レオーネとクレーエの目が捉えて、叫ばれた言葉がナルフリードに教えてくれた。 「アルマナ殿っ! ……そ、その御姿は! あ、ああ」 「あ、あんた……それは。だっ、駄目だ! 立ってるのもやっとじゃねえか!」  そこには、撓る突剣の切っ先を敵へと突きつけるアルマナが立っていた。そして、彼女に寄り添う影のように、背を庇ってクラックスが支えている。  アルマナが隠すことをやめた全身の痣は、既に黒い瘴気の焔を吹き上げていた。さながら、呪いの主が復活したことで活性化し、彼女自身の命を燃やし尽くそうとしているようだ。白い肌に蠢く黒焔が、縛鎖の毒蛇の如く蠢いていた。  だが、それでも二人は凛とした表情で敵を睨んで武器を構える。 「とうとう見つけました……我が祖国を燃やし、主君と民を襲った怨敵。この私の身を蝕み、今また多くの呪いを振りまく元凶。決して許しはしません……例えこの命、尽きても!」 「お前が……そうか、お前なんだな。見つけた、見つけたね、アルマナ。こいつが……やっちゃおう。やっつけちゃおう! 僕は……今までで一番、許せないっ!」  狭く閉じて暗くなる視界の中で、確かにナルフリードは見た。そして、姉のベルフリーデに見せたかった。目の前に今、死の淵に立ちながらも、気高く運命へ向かう男女の姿があった。