クラックスは身の内より込み上げる震えが止まらなかった。  それは恐怖ではない……武者震いにも似た高揚感を炙る、怒りと憎しみが滾る熱だ。  背後に降り立つポラーレとファレーナの、妙に落ち着いた声さえ届かない。 「レオーネ君、クレーエ君も。すまない、リシュリーちゃんを連れて下がってくれ」 「ここはわたしたち五人が。……決して許すことはできない。そういう相手だ、だから」  兄の、そして兄の愛した人の怒りが肌で感じられる。完全無欠の錬金生物兵器たる自分の胸に、彼らの言葉が染みこむように響く。それはクラックスの憤怒と激怒に入り混じって、端正な表情をより一層静かな無表情へと凍らせていった。  そして、アルマナに寄り添いながら見上げる先で、邪悪な哄笑が響き渡る。 『愚か……愚か! 朕に逆らい抗うか、定命の者よ……人ですらない者たちよ。造られし偽りの命たち、理を司る虚ろな亜人、そして……ほう? 貴様は。クハ、クハハハッ! 貴様は!』  冥闇に堕した者の表情が邪悪に歪む。  その視線は、クラックスの前に立つ女性へと注がれていた。 「我が祖国を焼き、無数の民と仲間から命を奪った罪……この私が償わせませしょう。貴方の命で!」  アルマナの声は凛として涼やかで、しかし静かに滾る怒りが渦巻いている。普段からそよ風のように穏やかな彼女の中に、激しい激情の嵐が渦巻いていた。そして、そんなアルマナの全身から吹き出す呪いの焔は、彼女を縛りながら次第に着衣をも燃やし始めていた。  『思い出したぞ……封印から漏れ出た我の力、僅か万分の一の力で灰にした国の者か。フハッ! 憎悪を律する魂の香り……甘露! この匂い……生娘ではないなあ? 既に男を知ったか!』 「私を辱めようとしても無駄です、邪竜よ。私は……人と触れ合い、交わる中で……愛を知りました。真に守るべきモノを得た私の手で、真に倒すべき貴方を屠りましょう」 『できるかあ? それが……できぬなあ! できぬぞ、剣の乙女よ! 乙女であった人の剣よ! 朕は無敵、故に無敗! 万象全てを縛りて封じる力……潰えるその命で、思い知るがいい!』  冥闇に堕した者から眩い光が迸る。その瞬間、アルマナを支えていたクラックスは目に見えぬ力に縛られた。腕が、脚が、そして思考が奪われる。もとよりあらゆる呪詛への耐性を持つ人造生命体のクラックスは、本能で無意識にその幾つかを振り払った。  だが、根が生えたように脚が動かない。  そして、同じように背後で仲間たちが言葉を噛み殺す中……アルマナがそっと離れた。 「忘れているようですね……既に私は呪われた身、貴方の術は効きません。そして、教えて差し上げます。例え手脚を封じて知性を奪っても……人の意志までは縛れないと!」 「アルマナ! 駄目だ、君は――」  肩越しに一度だけ振り向いて、アルマナが微笑んだ。その優しい表情すら、全身から吹き出す獄鎖の黒炎に飲み込まれてゆく。彼女は撓る突剣を構えて風を呼ぶと、吼え荒ぶ竜へと跳躍した。  アルマナが引き絞る剣の切っ先に、紫電が閃光となって瞬く。  リンクサンダーの一撃が、空気を沸騰させる一撃となって炸裂した。  竜の絶叫を前に、全身全霊の一閃を振り抜いたアルマナが倒れる。  それはまるでスローモーションのように見えて、クラックスの中で感情を撃発させた。そしてそれは、背後で自由を奪われつつも吼える兄の声を連れてくる。 「アルマナッ!」 「落ち着くんだ、クラックス! ……リンクの雷光が消えてない。まだ彼女は!」  クラックス同様、人ならざる術への耐性でポラーレの身が膨れ上がる。冥闇に堕した者の呪縛を振り払った黒い影が、あっという間に巨大な黒狼竜へと姿を変えた。人の姿でただの冒険者をやると誓ったポラーレの、激昂が呼ぶ真の力が解放された瞬間だった。 『ほう? 竜へと姿を……だが、偽りの姿で朕の力に抗おうなどと!』 「お前と話すことなんか、もうない。僕の答は牙と爪だ……クラックス! 乗って!」  瞬間、冥闇に堕した者から苛烈な光が迸る。周囲で空気中の水分が凝結し、凍てつく輝きの礫となってクラックスたちを襲った。荒れ狂う氷礫波の中で、邪竜の巨体が信じられぬスピードで躍動する。竜でありながら人の上体を露わにした歪な邪神像は、両腕の爪を繰り出してくる。  ポラーレの背に放られ跨ったクラックスは、背後でファレーナが方陣を広げる光を見た。  そして、巨大な爪が甲高い金切り声を歌って、重金属の盾が削られる音が響く。 「エミット!」 「征け、クラックス……アルマナ殿のリンクは生きている、ならば! その最後の力をお前が繋ぐんだ! 征け……征くんだ、クラックス! お前の力でアルマナ殿を繋ぎ止めろ!」  仲間全員を庇って立ち向かうエミットが、逆巻く鮮血の渦に飲み込まれる。盾も鎧も金属片となって舞い上がる中で、彼女の叫びに鞭打たれたようにポラーレが地を蹴った。  自然とクラックスは、黒い疾風となる兄の背で一振りの太刀を握っていた。  それは久方ぶりに攻撃衝動を解放したポラーレより、その身の内より浮き出る神屠りの刃……太古の深海に沈みし、昏き海淵のの禍神より削り出した神刀、天羽々斬。 『ぬう! そ、その剣は! 何故、貴様等のような者たちが、それを!』 「言いたくないね……兄さんと同じだ! 僕も今……お前と交わす言葉など持たない! 持つ、もん、かあああっ!」  冥闇に堕した者の表情が驚愕に歪む中、舞い散る爆炎と雷撃の中をポラーレは馳せる。腕か脚か、それとも頭か……呪いの力で縛られてるとは思えぬその力強い疾走が、空に足跡の波紋を広げながら敵へと迫る。  その背で立ち上がったクラックスは、両手で握った天羽々斬を引き絞った。 「翔べ、クラックス! お前ならやれる……お前だけがアルマナを救えるんだ!」 「兄さん! ……今いくよ、アルマナッ!」  激しい抵抗にポラーレの身が零れてゆく。異形の竜は漆黒を撒き散らしながら、徐々に弱まるその力を最後の一片まで振り絞る。天へと昇る暗黒の流星となって、駆け抜ける。絶対制空権の中心で砲火のごとき三属性の弾幕を張る、邪悪な竜の真上へとクラックスは踊り出た。  そして、竜の姿を維持できなくなったポラーレの、最後の力で放り出される。  瞬間、クラックスの振り上げた天羽々斬に周囲の稲妻が……アルマナの光が集い始めた。乱れ刃紋の並ぶ剣が、紫光の輝きで膨れ上がる。 「アルマナの痛みっ! 思い、知れえええええっ!」  迷わず急降下するクラックスが、冥闇に堕した者の脳天へと天羽々斬を突き立てる。深々と根本まで突き立った刃が、真っ黒な血柱を拭きあげた。そして、その一撃に連なる雷が轟き、周囲にプラズマをスパークさせる。  だが、クラックスの怒りはそれで収まらなかった。  徐々に人の輪郭を崩してゆくクラックスは、眩い雷光を受けて金色の巨体へと膨れ上がる。全身の鱗と甲殻を輝かせ、黄金の体毛を逆立てる……金月蜥蜴と化したクラックスの爪が、放電の全てを吸い込み炸裂した。 『おのれ、人の造りし竜め……竜ですらない蜥蜴風情が! ……クハ、クハハハッ! ハァ……よかろう! 朕の最大奥義にて、全てを灰燼に帰す時! 受けるがいい、超新星爆発――!?』  縦に邪竜を引き裂き、真っ二つにして着地したクラックスが細い人影を口に咥える。雷神と化した金月蜥蜴が守るのは、呪いの黒き業火に燃え尽きようとしているアルマナだ。  だが、生と死が分かつ瞬間の二人を、二つの光が包み込む。  黒い血の雨の中、天よりスーパーノヴァの光芒を呼び込む冥闇に堕した者。  そして、人の姿へと崩れ落ちながらも、剣の乙女を抱き上げる蜥蜴の騎士と……二人を包むように地に満ちる巨大な方陣の光。複雑な術式を連ねる輝きが大地に描かれ、冥闇に堕した者をその中心へと捉えた。 『グッ! 小癪……朕の知性を、万象を司る叡智を! 世界の真理と共にある、朕の頭脳を!』 「掴まえた……わたしは、お前を、完全に……掴まえた。我らウロビトが代々紡いできた、方陣師の力を甘く見るなど。もう、逃がさない。お前は、ここで、終わりだ。……終わらせる!」 『虚ろなる亜人風情が! 何故だ、何故振りほどけん!? 何の力だと言うのだ!』  小さく消えゆくアルマナの呼吸と鼓動を抱いたまま、クラックスは冥闇に堕した者を見上げていた。動揺も顕な邪竜は今、縦に割れてずれ落ちる左右を支えつつ、頭部を縛られ狼狽えている。そして、そこへと注がれるファレーナの声は、静かな怒りに満ちていた。  ファレーナは強過ぎる術の励起に血涙を流しながら、血塗れの手で錫杖を振りかざした。 「わからないでしょう、冥闇に堕した者よ……お前が縛り封じて奪う力、それは呪い。だが、わたしは……わたしたち冒険者は、違う。そしてウロビトの力は、紡いで繋ぎ、結ぶ力だ!」  珍しく声を荒げたファレーナの絶叫が、巨大な方陣を集束させてゆく。冥闇に堕した者を包むように光が爆縮して、曇天の吹き飛んだ青空へと光条が屹立した。  それは、優しく穏やかなファレーナが初めて見せる、破陣の強力な爆発だった。  その断末魔に、クラックスは片手でアルマナを抱き直すや手を述べる。そこには舞い降りてきた天羽々斬が、まるで第二の使い手を認めるように握られていた。 『ば、馬鹿な! 結ぶ、力、だと……消える、朕が! 朕の力が!』 「なにものにも縛られぬ冒険者たちが、縁を結んだ力……わからないよね、お前には。わかる必要なんてないよ。僕が学んで兄さんたちが教えてくれた、この力は力だけじゃないから」 『貴様、貴様ァァァァァァッ! 朕は、朕は神竜をも、朕はァァァァァ!』 「その顔、もう見飽きたよ……消えろ」  ヒュン、とクラックスが天羽々斬を横に薙ぐ。光の柱となって消えゆく冥闇に堕した者は、最後の一撃で霧散した。ファレーナが解き放った破陣の力が消えると……クラックスの前に暗く輝く宝玉が浮いていた。  そして、頭の中にあの声が響く。 『ハァ、ハァ……見事、見事ぞ! 蜥蜴の王子よ。さあ、朕の力を手にするのだ……貴様にはその資格がある。蜥蜴よ、今こそ朕と契約を結べ……竜の高みへと共に』  だが、クラックスにはもう、脳裏に反響する黒い声は届いていなかった。  彼の胸の中で、瞼を開いたアルマナが微笑んでいる。その全身からは、縛鎖のような黒い痣も、そこから吹き出す呪いの焔も消えていた。ただ、アルマナの白い肌には、痣の跡のような乾いた轍がそのままに残っていた。  それでも、アルマナは黙って頷く。 『さあ、朕の力を……貴様の女か? その女にも朕の祝福を与えよう。跡となった痣さえ消せるぞ。それだけではない、貴様が望めば永遠の命さえ――!? な、何をする! 貴様!』  クラックスは、光を吸い込み妖しく煌めく宝玉を握った。  そして、握る手に力を込めてゆく。 「もう黙れよ……僕はアルマナと仲間の平穏以外、なにもいらない」 『馬鹿な! 貴様、この朕が……朕の力が!』 「お前の力なんていらないよ。僕は蜥蜴でも、今のままで十分だ。お前の力なんかなくても……必ずアルマナを守って、幸せにしてみせる」  クラックスはそのまま、濁った光が澱む宝玉を握り潰した。  耳障りな絶叫と共に、砕けた宝玉から闇が溢れだし……それも全て、周囲の空気へと解け消えていった。帝国が太古の昔に封じた災厄が、完全に消滅した瞬間だった。