久々に踏むタルシスの地で、ファルファラの黒い髪を洗う風は優しい。  大小様々な風車が回る中、街の誰もが活気に満ちて往来を行き来していた。馴染みの酒場でドアをくぐれば、今日も踊る孔雀亭は大繁盛だ。最後の迷宮と噂される、暗国ノ殿へ挑む冒険者たちは、人種の区別なく賑わっている。  ウロビトもイクサビトも、もちろん人間たちも知らない顔が増えた。  ファルファラがカウンターに座ると、女将はなにも言わずに笑顔で迎えてくれる。  ファルファラの愛した街、タルシス……一度は捨てて裏切った者たちの、心の故郷。 「おっと、珍しい顔がいるねえ? どうだい、景気は」  気さくに声をかけてきた男が、許可もなく隣に座る。  ファルファラには久々のタルシスだったが、まるで昨日も今日も一緒だったかのような軽やかな声だ。ともすれば、昨夜も朝まで一緒だったかのような、そんな親しさと馴れ馴れしさも感じて、それも悪い気がしない。  隣に座ったのはコッペペだった。 「ボチボチよ、コッペペ。そっちは?」 「まあ、相変わらずだなあ。例の迷宮な、あのオバケ屋敷みたいなやつ……地下二階がだだっ広い広間と、見えない壁に仕切られた迷路ときてる」 「あら……喋っちゃってもいいのかしら? ヴィアラッテアとトライマーチが一番先に進んでて、だからこそわかる貴重な情報でしょう?」 「身内にゃあ、構わないんじゃないのかね。オイラもだが、みんなお前さんがまだヴィアラッテアの一員のような気がしてるぜ?」  そう言ってコッペペは、無精髭の顔で無邪気に笑う。  こういう時にこの男は、まるで子供のような笑顔を見せるのだ。これはタラシね、と内心呟きつつ、そういう男もファルファラは嫌いではない。嫌いだったら、男女の仲など御免こうむるのだ。利害の一致がなければ特に。  テーブルに頬杖をついて、まだ明るいのにファルファラはワインのグラスを傾ける。  コッペペもビールのジョッキを持つと、互いの酒がガラスの中でコン、と鳴った。  乾杯を交わす側から、コッペペはジョッキの中身を半分ほど一気に喉へ流し込み、実感のこもった溜息を零す。 「プハァーッ! たまんねえな、こりゃ。仕事のあとのビールは最高だぜ」 「いいのかしら? こんな日も高いうちから。シャオちゃんに怒られない?」 「はは、見つかったらまたお説教されちゃうぜ。だが、それがいい……なぁに、かわいいもんさ。……もう、一緒にいてやれる時間も限られてるからな。せいぜい尻にしかれながら、色々教えてやってアレコレ買ってやりてぇよ」 「お優しいこと。ホント、優しいんだから……バカね」  不思議とこの街の冒険者は、いつもファルファラに優しい。誰かに優しいこと自体が、根無し草で流離うファルファラにとっての憩いであり、癒やしである。だが、それを自ら捨ててまで望んだ夢があった。黒く澱んだ闇の中に消えた、うたかたの夢。  そのことに想いを馳せていたら、背後で声があがる。 「よぉ、なんだ? 珍しいな。帰ってきたなら声くらいかけろよな」 「そうじゃぞ、ファルファラ。……あ! そういうことかや? ワシらはお邪魔虫じゃったか、うはははは!」  振り返れば、そこにはサジタリオとしきみが立っていた。  この二人、一緒にいることも多いし、一緒に寝ることも多い仲だ。だが、そのことを以前聞いてみたことがあったが「相性がいーんだわ」「体の相性じゃなあ」と悪びれない。ようするにそういう割り切った仲なのだが、ファルファラが見ても大人らしく粋によろしくやってるので面白い。  その二人がそれぞれファルファラとコッペペを囲むようにカウンターに座った。 「タルシスに来たなら、相棒んとこにも顔出しとけよ。アレコレわだかまりはあろうが、ケジメだってつけた方がいい。それに、なあ」 「そうじゃぞ、ファルファラ。小姑みたいにうるさいことは言わんが、ラミューだのメテオーラだのがお主のことをあれこれ言って心配してたからのう」  二人はすぐに注文した酒を飲み始めて、あっという間に四人での小さな酒宴となった。時刻はようやく夕暮れに向かおうかという、昼と夜の狭間の時間。日は傾いてなお強く日差しを灯し、その光がようやく世界を夕焼け色に染めてゆく。  そんな中で、ファルファラは奇妙な気持ちに自然と心が落ち着くのを感じた。  やはり、タルシスはいい。  しかし、どうして突然今になって、自分は帰ってきたのだろう。  あの日、帝国に寝返りその野望の片棒を担いだ。仲間の信頼を裏切り、非道な仕打ちで敵へと売ったのだ。そうまでして欲しかったものは今、ファルファラの手が届きそうな場所に見えてきた。その謎を包む暗闇が今は、とても身近に感じられる。  そういう時に何故? どうして? その答は今、胸の奥で言葉になるのを待っている。  すると、そんなファルファラを見透かしたようにサジタリオが口を開いた。 「よぉ、お前……どうしてあの時、裏切った?」 「そうじゃぞ、ファルファラ。嘘は女のアクセサリーとか、そういう類はなしじゃ。言うてみい……返答によっては、仕置じゃな。折檻じゃあ」  ニシシと笑うしきみに苦笑を返して、改めてファルファラはサジタリオを、次いでコッペペを見やる。二人は対照的な顔をしていたが、それは表情の違いではない。いつものようにゆるい笑みを浮かべて酒を飲んでいるが、二人の目はなによりも雄弁に全てを語っていた。  言いたかないなら別に、と興味なさそうなコッペペの眼差し。  皆が気になるなら俺が聞いてやるさ、と言う割にはノリの軽いサジタリオ。  しきみも茶化すような言葉を控えつつ、黙って酒を飲んでいる。 「夢を……見てたのよ」  ふと、ファルファラの胸中に沈殿して凍っていた想いが溢れ出す。烈火の如き野望の中でも、業火をくぐるような悪事の連続でも、決して溶けることのなかった永久氷壁の奥から……炭火の温かさに触れた気持ちが浮かび上がった。 「冒険者は成功を求め、ロマンを感じて危険に挑むでしょう? ……私は、逆よ。逆なの」  ファルファラはいつからか、手段と目的が逆転している自分を持て余していた。  それはまるで麻薬のように自分を甘く蝕み、知らぬ間に彼女を踊らせたのだ。それを言い訳にするつもりはないが、ファルファラにとって危険な冒険とは、富と名誉を得るための手段ではない。  ファルファラは危険な冒険での一瞬、その生死を分かつ刹那のスリルとサスペンスに取り憑かれていたのだと思う。ナイフの上で舞うような、刃を踏んで踊り、喉元に食い込む切っ先の冷たさで歌う……そうして闇から闇へと影を飛ぶ蝶のように生きてきた。 「くだらない理由なのよ? そう、とてもくだらないわ……自分が生きてる、充実してると感じる時は、いつも生死の狭間。その果てに手にした財宝も宝石も、私にはくすんで見えたわ」  肩を竦めるファルファラに、仲間たちは小さく笑った。  そう、仲間だった。  まだ、仲間だと思える時間がファルファラを包んで迎え入れ、元の場所へと着地させた。 「くっだらねえなあ、ホントによ。ま、人のこたぁ言えねえがよ? なあ、コッペペ」 「違いねぇ、オイラだって詩篇の一片、音の一つに命が賭けれちまうんだ。一緒だなあ、へへ……一緒ついでに、今夜も一緒に、イテッ! 痛えぜ、しきみよう」 「はあ、呆れたのう。ワシは色狂いの戦狂いじゃが、ファルファラ、お主もそうとうよなあ」  そうなの、とファルファラも笑う。  そうだなあ、と皆が笑いで包む。 「ま、ファルファラ……お前が巫女シウアンを助けたことはもうみんな知ってるのさ」 「あら、そうなの? ……言ったでしょう? スリルに恋い焦がれていたの。夜の篝火に飛び込む蝶みたいなものよ? どうなるかを知ってても、その先がなくても……つい、ね」 「おお、こええ。おっかねえ女だなあ。……ま、それもいいさ。だからお前さん、いつも一人で……独りでいるのか。ようやくわかったぜ」  コッペペの言葉には答えず、黙ってファルファラは酒をグラスに継ぎ足した。  外はまさに逢魔が時、街は昼から夜へと化粧を変える。  無数の風車が引きずる影の中を、あるものは家へ、あるものは冒険へとすれ違っていた。  話は終わったとばかりに、ファルファラが席を立った、その時だった。  ふいに懐かしい声が黄色く響いて、あっという間に飛び込んでくる。 「ファルファラ姉様! お久しぶりですの!」 「っと、リシュリーちゃん。ふふ、相変わらず元気ね。少し背、伸びたかしら?」 「はいですの! ……でも、おばねーさまやファルファラ姉様みたいには、胸もお尻も大きくならないですわ。不思議なのですわ」 「あらまあ」  ファルファラの胸に飛び込んできたのは、リシュリーだ。  その無邪気な笑顔を抱き締めて、背後で控えるエミットともファルファラは目礼を交わす。すぐに彼女の仲間たちが集まり、あっという間にファルファラは囲まれてしまった。 「姐御! ファルファラの姐御、戻ってたのかよ! おいメテオーラ、見ろ。姐御だ」 「ほんとだー! ファルファラさーん! おっひさしぶりー!」  すぐにラミューとメテオーラに挟まれ、賑やかさが増す。そんな中で警戒心も顕なグルージャにも、心なしか安堵の表情が浮かんでいるように見えた。そして案の定、一団から飛び出たシャオイェンがコッペペに吸い込まれていく。 「コッペ様! また明るいうちからお酒! いけないんですぅ、飲み過ぎは、めぇーっ! ですう!」 「は、はは……シャオ、お前も飲むか?」 「駄目ですぅ! 未成年はお酒飲んじゃいけないんですぅー!」  ウーウーガウガウとシャオイェンは、コッペペの膝によじ登っている。流石の伊達男もタジタジのようで、それがなんだかおかしい。笑っていると、ファルファラの前に躊躇いながらもグルージャが立った。 「ファルファラさん……あの」 「あら、グルージャ。相変わらずなのね、もう少しお洒落にも気を使わなきゃ。ふふ……いいのよ、今丁度退散するところ。あの人にはよろしく言って頂戴? 私はもう、行くわ」 「……はい。でも、でもっ! あの!」  ファルファラは皆が見守る中で酒場の出口へ向かう。まだまだ特務封印騎士団の連中とやるべきことがあるし、その先にもしかしたら……そう、もしかしたら。過程で味わう以上のなにかがあって、自分が変わるような、そんな予感が胸に熱い。そう感じるのはもしかしたら、既に自分が変わっているからかもしれない。 「じゃあ、ね……また会いましょう? 嫌でも会うと思うわ……第六迷宮、気をつけて進むのね」 「ファルファラさん! ……あの、ありがとう。シウアンのことも……あたしを冒険者にしてくれたことも」 「……バカね、グルージャ。そんなこと、いいのよ。面白そうだったから……ただ、それだけよ」  そう言って笑うと、夜を彷徨う揚羽蝶が羽撃く。  夜の帳に彩られる薄闇の中へ、ファルファラは踏み出しやがて消えるのだった。