第六迷宮、暗国ノ殿の最深部。そこは不気味な張り紙と封印の先に、謎の小部屋が待ち受けている。道中で得られた情報と合わせて、懸命な冒険者たちはまだその先には進んでいなかった。  結果的に、巨大な災厄が解き放たれる瞬間を遅らせたことになる。  そして、遅れながらも……旧世紀の悪夢は胎動をはじめていた。  そのことを誰もが知らぬまま、運命の一日が始まる。 「ナルフリード殿、伝声管の設置を完了しました」  特務封印騎士団の騎士に声をかけられ、ナルフリードは地図から顔をあげる。  今、ナルフリードは数人の騎士たちと一緒に、地下三階に赴いていた。この場所もそうだが、冒険者たちが踏破した区画には伝声管が整備されている。フリメラルダが指揮を執る金鹿図書館まで繋がる、特務封印騎士団の連絡網だ。 「ありがとう、ではそろそろ引き上げましょう。フリメラルダ殿に報告して、それから」  ちらりとナルフリードは、背後を振り返る。  そこには、まだ誰も開けていない扉があった。  地下三階の中央に位置する、その先だけが地図の空白地帯になっている。ぽっかりと口を開ける、地図の真ん中の謎の部屋。その先に進むことは、フリメラルダの言葉で厳に禁止とされていた。 「蟲、か……」  一人呟き、ナルフリードは地図をしまう。  騒がしい気配が近付いてきたのは、そんな時だった。 「いやいや、違うぜ相棒! 赤が最初、赤から黄、青に緑ときて、最後に白だぜ」 「違うよクラッツ、メモをよく見て……最初は緑だと思うな、僕」  気付けば、暗がりの向こうから冒険者たちがやってくる。見慣れた顔に会ったせいか、この薄暗く寒い地下迷宮の最奥で、不思議とナルフリードは緊張がやわらぐのを感じた。  向こうもこちらに気付いたらしく、周囲の騎士たちがそろって頭を垂れる。  ナルフリードも周囲に倣って、挨拶を投げかけた。 「お疲れ様、冒険者たち。クラッツとクラックス、だったよね」 「おう、ナル公! 宮仕えも辛いな、ええ? なにしてんだ」 「クラッツ、多分あれだよ。フリメラルダさんが言ってた、迷宮内の伝声管の整備だよ」  やってきたのは、いつもお馴染みのクラッツとクラックス。二人はナルフリードの過ちがケジメをもって精算されたあとは、友人づきあいをしてくれている。ナルフリードには、ヴェリオ以外の友人というのは、この二人が初めてだ。不思議と身体の同居人である姉にして妹、ベルフリーデも二人のことを憎からず思っているようだ。  そして、そんな二人のお目付け役のように、サーシャが一緒だ。  最後に、グルージャが友人のメテオーラと姿を現す。 「こんにちは、グルージャさん。サーシャさんも、メテオーラさんも」 「オッスー! わはは、騎士さん元気だった? ごめーん、今日はリシュは一緒じゃないんだー。残念っしょ?」 「あ、いえ……そういう訳では」 「そう? リシュは残念がってたとだけ伝えておこー、うんうん」  メテオーラがニシシと笑ってうんうん頷く。彼女はいつもの少女五人組の中でも、面倒見がよく人当たりが柔らかい。そのことを以前話したら、兄弟や姉妹が多いから普通なのだそうだ。そして、その隣ではグルージャが肩を竦めている。  そうこうしていると、特務封印騎士団のメンバーたちは道具を纏めて一足先にこの場を辞することになった。ナルフリードも後で追いかける旨を言って、その背を見送る。まだまだ伝声管の設置場所は残っているが、周囲の魔物たちなら大丈夫だろう。強力な魔物が跳梁跋扈するこの場所でも、屈強な騎士たちなら安心できる。 「皆さんは今日も調査ですか? お陰で随分、地図が埋まりました」 「まー、そんなとこかなあ? ね、グルージャ。とりあえず、あちこち抜け道を開通させて、行き来しやすいようにしてさ」 「そうね。あとはまあ、少し肩慣らし。……この子の切れ味も、試したかったし」  そういえば最近、冒険者たちはよくこの地下三階を行き来している。聞けば、この危険な暗国ノ殿で心身を鍛えているらしい。呆れるほどに豪胆な話だが、流石は伝承の巨神を倒した者たちだと感心してしまう。彼ら彼女らにとっては、この土地で最も危険な迷宮でさえ、鍛錬の場として活用してしまうのだ。  そして、ナルフリードはグルージャが腰に下げた短刀にふと目を落とす。 「この子、というのは……ああ、以前お話してた開かずの扉のお話ですね」 「そ」 「人間、そしてウロビトとイクサビト……三種の民がそれぞれに鍵の一部を今も保管していたとは。やはり昔は、皆が寄り添い仲良く暮らしていたのでしょうね」  グルージャは相変わらず表情が乏しいが、ナルフリードの言葉に何度も頷く。  ナルフリードも以前聞いたが、冒険者たちは第二大地の丹紅ノ石林にある小迷宮で、とうとう開かずの扉の先へ足を踏み入れたという。そこには、遥か太古の旧世紀に生み出された、民の守り神たる神鳥イワォロペネレプが待ち受けていたのだ。  見事イワォロペネレプに認められたグルージャが、その力の証である神剣エペタムを得たというのは、タルシスで現在最もホットな噂話である。 「グルージャは筋がいいから、もう使いこなし初めてるよ。僕も少し教えたけど、センスがいいのかな? 兄さん譲りなのかもね」 「別に……ただ、こんなの包丁やナイフと一緒じゃない」  笑うクラックスの声に、ぶっきらぼうにグルージャが応える。  そうして和やかに六人が談笑していた、その時だった。不意に場の空気が暗く澱んで、周囲にモンスターの気配が満ちる。殺気と害意が入り交じる中で、自然と誰もが口を閉じた。  だが、身構える中でメテオーラが素っ頓狂な声をあげる。 「あっ、あれ! 見て見て、みんな! 前に噂になった、ほら! ワルージャだよ!」 「……それ、まだ言ってたの? 違うわ、あの子は……あれは」  ふと、メテオーラの指差す先に……ぼんやりと光る小さな少女が立っている。  あれは、一時期幽霊騒ぎで噂になった女の子だ。  彼女は、消え入るような声を直接ナルフリードたちの頭へと注ぎ込んでくる。 『急いで……災厄が、解き放たれる。世界樹の思念が、再びボクを象った。ボクは』  不意に少女の姿が大きく歪んで、滲みながら空気へと溶け消える。  薄らいでゆく彼女は、最後に泣きながら哀切の念を呟いてきた。 『お願い……溶液を。五つの薬液を、集めて……それが、神樹を蝕む……蟲、に……お願い、助けて、あげて……蝕まれるまま、に、呪われ、墜ちた……もう、一つ、の……お願い、ねえ、さん』  少女の姿は完全に消えた。  それが呼び水となったように、周囲で獣の咆哮が迷宮に轟く。タイルを敷き詰めた床が震えて、地鳴りと共に殺意が溢れかえった。 「これは……クラックス! クラッツもだ。グルージャたちを守れ!」 「わかったよ、サーシャ! 君も!」 「やべぇぜ、相棒……なんて殺気だ。へへ、畜生……幽霊の次は魔物共かよ」  サーシャの声に、クラッツとクラックスが身構えた。同時に、メテオーラも剣を抜くなりグルージャに寄り添う。  そして、地響きを轟かせる魔物の群れが近付いてくる。  その時にはもう、ナルフリードの頭に姉であり妹の声が割れ響いた。 「姉様? え、敵が……はい、でも。……大丈夫です、俺がやります。やれますよ」  ナルフリードも腰の砲剣を抜いた。猛禽獣のエンブレムを刻んた刀身が、発火用電源の灯る微動に震える。互いにかばい合うように立つ中で、誰もが油断なく武器を構えた。  そんな中でも、グルージャが冷静にちらりと視線を巡らせる。  神剣エペタムを逆手に構える彼女の眼差しは、例の謎の扉の前にある機械へと注がれていた。まだ誰も進んでいない、その先に……今ははっきりと強烈な負の念を感じる。怨念とも妄念とも思える、見えぬ黒さに濁って澱む気配がナルフリードにも伝わった。 「あの機械は、薬液を入れるように以前言ってきた。その薬液って、多分」 「あっ! そうか、グルージャ。あれだ、五種類の! それだ!」  メテオーラが剣と盾を手に表情を明るくする。  恐らく、彷徨える幽鬼のような少女が口にした言葉は、それだ。  だが、一変してしまった周囲の空気は、徐々に唸り声を近づけながら周囲を包囲している。今ならまだ、アリアドネの糸での脱出も可能だが……ナルフリードは先程の少女の逼迫した涙声が気になっていた。  そして、一度大きく息を吸い込み、ゆっくり吐き出すや言葉を選ぶ。 「クラッツ、そしてクラックスも。五人で例の薬液を集めてくれないか? なにが起こっているのかはわからない……でも、なにかが起こっているんだ」  驚く五人の気配を前に、ナルフリードは言葉を続ける。 「地上にも伝声管で連絡を……この気配、尋常ではありません! 俺はこの場を確保し、敵を迎え撃ちます。皆さんはその隙に、魔物を避けてご箇所の薬液を、ッ! ま、待ってください姉様。まだ話が――」  瞬間、頭痛と共に意識が遠ざかる。  ここ最近、同じ身体を分け合う姉にして妹とは、激しい苦痛を隔てて暮らしていた。ナルフリードはベルフリーデと話す度に、神経を絞り上げるような痛みに苛まれる。  それでも、彼から主導権を奪ったベルフリーデが顕現した。 「痛いわね、もう……このクソ頭痛が。ちょっと! 兄様の話、聞いてたの? さっさと行きなさいよ! そっちの蜥蜴の! 順番、わかるわね?」 「え、あ、うん……緑から白、青、赤で、最後に黄色だよね」  えっ!? という顔をクラッツが見せたが、ベルフリーデの奥底でナルフリードは頷く。そうこうしている間にも、魔物たちの第一陣が押し寄せ部屋を満たした。その流れを押し返すように、ベルフリーデがアクセルドライブを放つ。  金切り声をあげる砲剣からの剣閃が、強烈な衝撃となって敵を吹き飛ばした。 「さあ、行きなさい! 愚図は嫌いよ。……嫌い、なんだから。あんたら、みんな……嫌いよ。さっさと行って!」  なにかを言いかけたサーシャを、グルージャごとクラックスが抱え上げた。両の小脇に二人のルーンマスターを持ち上げると、クラッツとメテオーラの剣が切り開く先へと青年は走る。  その背を見送り、ナルフリードもまた覚悟を決めた。  頭が割れて裂けそうな痛みの中で、ベルフリーデを励まし言葉で支える。  世界の命運を賭けた悪夢のような一日が、なんの前触れもなく始まった瞬間だった。