金鹿図書館は混乱の渦中に叩き込まれていた。  ここ最近は事務仕事の処理で忙しかったヴェリオは、漠然とだが理解した。この地に封じて閉じ込めた災いが、ついにその牙を向いたのだ。覚醒前に滅するべく招聘されていた冒険者は、間に合わなかった。  或いは、冒険者たちの接近が災禍の胎動を促したのか。  どちらにせよ、決戦の火蓋は切って落とされたのだ。 「各隊、報告を! 現状の把握を最優先」  書類の束を抱えて続くヴェリオの先を、大股に歩くのはフリメラルダだ。完全武装でマントを羽織った彼女は、足早に暗国ノ殿へと向かう。  ヴェリオにも今、はっきりとわかる。  物言わぬ旧世紀の遺跡は、邪悪なが敵意の塊へと豹変していた。  フリメラルダの周囲に集まり始める騎士たちは、誰もがみな表情を失っている。負傷している者もいて、鮮血を滴らせる姿はすぐにも治療が必要だった。 「フリメラルダ様! 地下二階で分断されました、第二、第三、それと第七中隊が孤立中です! 現在、決死隊を再編成しての救出を模索中」 「団長、こちらに五名回してください! 地下一階のモンスターを突破し、階段への橋頭堡を再確保します!」 「負傷者を下がらせろ! 図書館側に採集防衛ラインを構築する……一歩も外に出すな!」 「タルシスの冒険者たちへ連絡を! ……それと、新しい砲剣をくれ! もう一度出る!」  そこには戦場の空気が広がっていた。  あの、古強者の騎士たちが、特務封印騎士団の最精鋭たちが必死さをむき出しに行き交う。こんなにも逼迫した空気を、ヴェリオは感じたことがない。そして、誰も彼もが青い顔を恐怖で強張らせながら、自分の義務を果たそうと懸命に働いていた。  そんな中を、双肩に背負った重圧をもろともせず、涼しい顔でフリメラルダは進む。  すぐに金鹿図書館の裏手へ出れば、巨大な被造物がそそり立っていた。  迷わずフリメラルダは、次々と負傷者を吐き出す入り口に向かう。 「伝声管を」  悲壮な声が行き来する中で、フリメラルダの一言が静かに響く。その背を見詰めながら、ヴェリオはただならぬ気配に驚き震えていた。  この人は、毎日グータラと執務室でゴロゴロしていた女性だ。  騎士団長の仕事もそこそこに、毎日男色趣味の絵草紙を描いていた人だ。  なんの緊張感も見せず、気だるげに優雅に過ごしていた、その面影は今はない。そして、はっきりと理解できる。部下たちが差し出す受話器の紐を類って、静かに耳を当てる姿は……間違いなく、この帝国の最強騎士の一人に他ならない。  フリメラルダの声は凍れる刃のように鋭く、冴え冴えと響く。  叫ぶでもなく、怒鳴るでもなく……寧ろ、不思議な穏やかささえ感じられた。 「わたくしのかわいい貴方たち。報告を。なにがあったのかしら?」 『その声は……団長! こちら第二中隊です。突然、迷宮のあちこちから魔物が……既に第三中隊が全滅、第七中隊も負傷者多数。自力での脱出が不能になりました! 階段を抑えられ孤立、このままでは』 「すぐに救援に向かうわ、それと……地下三階の様子は」 『冒険者が何名か……あと、ドレットノート卿が! ナルフリード君と部下たちが。安否は不明です……健在と信じたいですが、この数を相手に』  ヴェリオの耳にもはっきりと聞こえる。  張り巡らされた伝声管の向こうから、獣の咆哮と騎士たちの悲鳴、絶叫。そして、それを飲み込み押し潰して迫りくる、圧倒的な悪意と害意。  血に濡れ掠れた男の声は、この場にいる全ての者たちの耳に突き刺さる。 『団長、これより炸薬を再分配し、最後の攻勢に出ます! 帝国に栄光あれ! ……では、おさらばでございます。貴女の下で戦えて、よかった』 「……お待ちなさい。お待ちなさい! 特攻などわたくし、許しませんわ!」  珍しく声を荒げたフリメラルダに、周囲の空気が静まり返る。  彼女は髪をかきあげ受話器を持ち直すと、いつもの優美で落ち着いた声音でゆっくりと喋った。落ち着いたその声色に、不思議と危機でささくれだった気持ちが癒やされる。 「絶望することは許しませんわ。貴方は栄えある特務封印騎士団の騎士、帝国最強の騎士団の一員……さあ、わたくしのかわいい貴方たち。落ち着いて。防御戦闘に徹して耐えるのよ……必ず救援を回します。わたくしを信じて」 『し、しかし、団長』 「捨てる命あらば、わたくしに預けなさい! いいこと?」 『……了解』  伝声管を手放したフリメラルダは、居並ぶ騎士たちを見渡し、そしてヴェリオを振り返って頷いた。  ヴェリオは文官、非戦闘員だ。  だが、それ以前に医者なのだ。 「あらあら、フリメラルダ……なんて顔をしてるのかしら? ふふ、流石の貴女も余裕ではいられないということね。少しお手伝いしたいのだけど……いいかしら?」  ふと声がして、振り向けばそこに一人の踊り子が立っていた。  全く気配を感じなかった……そして、それは周囲の騎士たちも同じようだ。いかに臨戦態勢で気が立っていても、達人たちの集うこの場で、気取られずに歩み寄る……そんな芸当ができる人間は少ない。  現れたのは、開いた鉄扇の奥で微笑むファルファラだ。 「ファルファラ、わたくしはこれから迷宮へいかねばなりませんの。あとを頼めて?」 「それはいいのだけど、期待には添えないかもしれないわよ? それに……裏切り者は二度寝返る、なんてことは考えないのかしら」  怪しげに微笑むファルファラの不穏な言葉に、騎士たちが身を強張らせる。  だが、フリメラルダの声は軽やかで、危機さえ忘れそうな程に普段通りだった。 「一度、タルシスに戻ったのでしょう? そして、貴女は再びこの地に来た」 「仕事ですもの。そう……長らく求めた答が今、動き出した」 「いい里帰りだったのね、きっと。ファルファラ、貴女は少しいい顔をしてますわ」 「里帰り?」 「ええ。貴女はタルシスの冒険者……風に洗われるあの街の人間。違うのかしら?」  その言葉に答えず、ファルファラは肩を竦めるだけだった。  轟音を響かせ、上空に帝国空軍の艦が一隻やってきたのは、その時だった。徐々に高度を下げるその艦は、速度を重視した小型の駆逐艦だ。恐らく、なによりも速さを重視して飛んできたのだろう……慌ただしい乗組員たちの声が響く。  そして、降下する艦体から飛び降りた男が、ワイヤーを手に目の前に立った。  その姿にフリメラルダも目を細める。 「あらあら、お早いおつきね? クレーエ・"コルヴォ"・アーベント」 「呼ばれずとも押しかけるさ、フリメラルダ・フォン・フェステンバルト」  駆けつけてくれたのは、クレーエだった。その颯爽とした涼し気な顔に、周囲の騎士たちから「おお!」と声があがる。かつての隠密騎士、影から影に生きる闇の始末屋は既に、帝国を代表する騎士へと成長していた。もとからあった力と才気が、忠義の中で自然と認められたのだ。 「とりあえず、帝国本土で集められる戦力を急遽連れてきた。後詰にしかならんが、俺も前に出る。冒険者たちは中か? 一応、こちらからもタルシスのポラーレ殿に連絡を入れておいた」 「的確な判断ね、クレーエ。感謝を」 「では行こう、恐らく中は阿鼻叫喚の地獄絵図だ。だが……彼らなら」  クレーエが見上げる頭上から、再び影が舞い降りる。  それは意外な者たちで、流石のフリメラルダも驚きを隠せないようだった。  数十名の若者たちを引き連れて現れたのは、イクサビトのモノノフだ。その実質的な指導者と言える男が片膝を突くと、周囲の侍たちも揃って身を沈める。  まるで、戦に猛る己を押さえ込むように、その男は地面に右手の指を揃えて立てる。 「イクサビトがモノノフ、24名……参陣! 黄泉路への案内仕る」 「あ、あなたたちは……面をお上げください、ヤマツミ殿。皆も」  イクサビトの里を守る、最精鋭の益荒男たちだ。その中心で、ニヤリと笑ってヤマツミが顔をあげる。彼の左右には、ミツミネやイナンナ、キクリといった者たちが控えていた。  皆、笑っている。  清々しい笑みに狂気と狂奔をはらませ、笑っているのだ。 「我々は今、命を捨てる戦を得たのです。我らが命で明日が、未来が買えるなら安いもの……士道は死ぬことと見つけたり。その上で……死中に活を見出し、突破するのみ!」 「しかし、それでは里の守りは」 「ウロビトの術士たちが来てくれています。タルシスからの冒険者たちも。参りましょうぞ、フリメラルダ殿」  ヤマツミは、礼を尽くして地に触れる手を、そっと握るや……大地へ軽く落とした。  瞬間、漲る覇気が見えない波動となって風を舞い上げる。倣って続くように、ミツミネたちも拳を地面へ叩きつける。  これはたしか、イクサビトたちの死線へ向かう際の作法だ。  地に添えた手は仲間へ、そして立つ時は拳で己を奮い立たせる。 「……意外と馬鹿が多いのね。みんな、馬鹿よ」 「大いに結構。一番の大馬鹿者が、一人で邪悪に挑もうというのですからな。その戦ぶりを見届けずにはおれんのですよ、我らイクサビトは」 「御助力に感謝を。わたくしは地下三階へ向かいます。活路を……」 「引き受けた!」  ああ、誰も彼もが行ってしまう……ヴェリオは察して感じ、悟った。  征ってしまう。  溢れ出る破滅を前に、飛び込んでゆくのだ。我が身を斧に変えてでも、災の元凶を断ち切り砕くために。そして、フリメラルダがその先頭で歩き出した、その時だった。 「フリメラルダ殿、剣を! ……私はこんなものを。しかし! これを!」  金鹿図書館から息せき切って駆けつけたプレヤーデンが、その胸に抱く長大は砲剣を放った。確かに、砲剣だ。布に巻かれて厳重に封のされた一振りの剣。 「……間に合いましたわね。ありがとう。皆の砲剣のメンテをお願いできて?」 「それはもう……しかし、フリメラルダ殿。その一振りは外法の刃、振るえば――」  だが、フリメラルダはニコリと微笑むと、その砲剣を背負って行ってしまった。続くクレーエやモノノフたちが見えなくなるまで、ヴェリオはプレヤーデンと並んで見送る。  空には暗雲が垂れこめ、暗く低く風が吹き荒れはじめていた。