その日、誰もが見上げる空に見た。  遠く帝国の西の果て、金鹿図書館のさらに奥の峰から伸びる……それは巨大な世界樹。だが、穏やかな光で枝葉を揺らして、四つの大地の民を見守る優しさは感じられない。禍々しく天を覆って暗雲を呼び込む、邪悪な気配が世界を包もうとしていた。  真昼だと言うのに、黒い世界樹が広がる空は真っ暗だった。  コッペペは愛用のリュートを片手に、吹き荒ぶ風の中へと出る。 「やな風だねえ……ったく、世界樹ばかり追いかけてたら、いよいよ今度は世界樹が敵に回るときたもんだ。おー、やだやだ、やだねえ」  冷たい風が吹き抜ける中、空はひっきりなしに軍艦が飛び交っている。西の果てに風景を切り裂き断ち割る黒き世界樹へ、軍の飛行船が次々と吸い込まれていった。  低く這うような暗雲は今、稲光で異形の世界樹を照らし出す。  今にも泣き出しそうな曇り空の下、遠景を望める巨石橋の上に……一人の女が立っていた。彼女はコッペペに振り返ると、弱々しく微笑む。 「……とうとう見つけたわ、わたし。見つけたの」  褐色の肌も顕なダンサーは、ファルファラだ。彼女は凍えるように自分で己の肩を抱きつつ、俯き黙ってしまった。  とうとう見つけた、彼女はそう言った。  だが、コッペペはなにも語らず彼女の隣に並ぶ。  隙間なく石のブロックが積み上げられた橋の上からは、遠くで不気味な明滅を繰り返す二本目の世界樹がよく見えた。周囲を飛び交う軍の船も、近付けずに四苦八苦している。あの根本では今、仲間たちが必死に戦っている筈だ。  そう、まだ戦っている……勝敗が決するまで負けずに戦い、負けても再び立ち上がる。  だから、コッペペはこの場所に来たのだ。 「よぉ、ファルファラよう。お前さん、そういや前から拘ってたなあ? 例の暗国ノ殿で、捜し物は見つかったみたいじゃねえか」  ファルファラは短く「ええ」と応えた。  それだけを聞いて、それ以上は問わず、問い詰めもしないコッペペ。彼はただ、リュートを構えてポンと塀の上に飛び上がった。吹きさらしの中、一歩踏み外せば数百メートル下は深い森……まるで空の中、天高く立ってるようで肝が冷える。  だが、次第にコッペペの中の高揚感が、身震いするような恐怖を追い払ってゆく。  そして、背後でファルファラが静かに語り出した。 「……この世界に複数存在する、世界樹。多くの地域に散らばり根ざして、冒険者たちによる探索は一大産業として民を潤す。世界樹は国を見守り、豊かさと厳しさの双方で人を迎え入れた」  ファルファラが語るように、この世界には複数の世界樹が存在する。  何故か、それは誰もわからない。  エトリアと呼ばれる辺境の街には、太古の希望を抱いた秘密が隠されていた。  ハイ・ラガートの世界樹が頂く天空の城には、古の超越者が虚しい夢を抱いていた。  アーモロードの世界樹は、対となる混沌を封じて海を守っていた。  そして、この地……タルシスより連なる四つの大地の北の果てに、やはり世界樹は全ての生命を見守っていた。例外なく、世界樹は試練と恩恵の両天秤で、あらゆる者たちに向き合ってきたのだ。  そのことを自分に言い聞かせるように、ファルファラは喋り続ける。 「ねえ、コッペペ……数多の世界樹を渡り歩いてきた、貴方ならわかるかしら? ねえ、教えて……誰もが好奇心と探究心を注ぐ世界樹。その世界樹に、大事な物を奪われた人間はどうなるのかしら? 大切な者を失った人間は……どうしたらいいのかしらね」  また、ファルファラは寂しそうに笑った。  ようやくコッペペは、得心に頷く。何故、仲間を裏切り、欺き、騙してまでファルファラは危険な橋を渡り続けたのか。秘宝や財宝で動くような女ではないし、彼女が動けば自然と宝石も金貨も踊り出す。富も名声も、彼女を中心に輪舞で廻っていた筈だ。  そんなファルファラが、酷く当たり前の動機で謎に挑んでいた。  コッペペは不思議だとは思わない。  ファルファラはああ見えて、情の深い女だから。すれた尻軽を気取っていても、彼女の優しさはサジタリオやコッペペにはお見通しだった。ミステリアスな雰囲気で煙に巻くのは、必要以上に他者を巻き込まないため。常に挑発的にポラーレを煽ってきたのも、彼の気持ちを彼自身に気付かせるため。ラミューを茶化しつつ辛辣に言葉の刃で斬りつけていたのも……きっと、昔の自分を思い出すからかもしれない。 「誰が、とか聞かないのね? わたしがなにをどれだけ失ったかを」 「はは、そういうのは、まあな……昼から話すにゃ辛い話もあるし、聞かなくていい過去も存在すらあ。ベッドで抱き合い眠る間に、気が向いたら囁かれたり聞かれたり……そうやってオイラたちは生きてるのさ」 「そういう優しさ、好きよ? コッペペ……わたし、なくしてしまったの。誰を亡くしたかも、なにを失くしたかも。喪失感をなくしてしまったの。わかるかしら?」 「さてね! 言われてハイソウデスカとわかるこたあ、世の中意外と少ないさ」  でも、とコッペペは肩越しに振り返る。  だがな、と自分にも言い聞かせる。  大人と大人でわかり合うには、ファルファラが抱えてきた想いは切実に思えた。酸いも甘いも知り尽くしたベテランの冒険者が今は、純潔の意味も知らぬ乙女に見えた。  だが、男と女で感じ合うことは、いつも一つだ。  そして、コッペペが今できることも一つだけだった。 「愚痴でも泣き言でも、オイラは聞くぜえ? けどな、ファルファラ……お前さん、ちょいと不器用な女だなあ。器量良しのべっぴんが、悪女気取っても性根は隠せねえ」 「……わたし、悪い女よ? ふふ」 「嘘は女のアクセサリー、脱ぐために着るドレスのようなもんさ」  それだけ言って、コッペペはリュートの弦を爪弾く。  空気を震わす音色が、凍てつく風鳴りにまぎれて溶け消えた。  それでもコッペペは、かじかむ指に熱意を込めてリュートを歌わせる。かき鳴らす弦の調べが、徐々にその場に満ちて響き渡った。  今、コッペペにできること……それは、彼が世界樹の語り部にして歌い手として、なにが歌えるかということに直結している。  意外そうに目を見開くファルファラに、振り返って正対するやコッペペは笑った。 「ファルファラ、踊ってくれよ。お前さんのリズムとビートを……連中に届けてやってくれや。オイラの歌が、お前の気持ちを運ぶぜ? あの馬鹿共によ」 「コッペペ、貴方……」 「お前は探した、探し続けた。誰もが愛する世界樹を憎むゆえ、この地に来た。神代の時代に生まれ損ねたと言われる、邪悪な世界樹……憎んでもいい世界樹、倒してもいい世界樹を求めて」  復讐という言葉が、どこか空虚でファルファラと重ならない。  だが、彼女は喪失感を感じなくなり、虚しささえ忘れる程に失い続けたのはわかる。  否、感じる。  父か母か、友か仲間か……恋人か。地位か名誉か、それともその両方なのか。失ったものを数えることさえできなくなった女が、唯一望んだこと……ただ、挑むものが納得で受け入れる真理への挑戦。唯一、弱肉強食の連理で全てを迎える、世界樹そのものへの挑戦を彼女は独りで戦ってきたのだ。 「お前さんは思った、世界樹が憎いと。だが、誰もが支えとする世界樹を敵に回す、そのことを迷った。……優しさが悲しいのはな、ファルファラ。それでも憎まずにいられぬから、敵を求めてしまったことさ」 「……そうよ。この地にわたしは見出した……大地のどこかに眠るという、倒してもいい世界樹。災厄として封じられし、歪な虚無より生える黒い世界樹。……でも」  ファルファラはコッペペの前に歩み出る。  その表情は、驚くほど穏やかだった。  袖にされた殿方が、毒婦だ売女だと悪態をつくような評判とは違う。喪失することすら喪失し、忘却することを忘却できぬ女の笑顔……それは今、以前よりずっと穏やかだ。 「でもね、コッペペ。なにをなくしたかさえなくしたわたしが、この土地で得られたもの……それがまたなくなることを、恐れてはいけないのかしら?」 「いいや、ちっとも。なくすのが恐いのは、大事だからさ。それほどに大切なものがみつかったなら……忘れた全てがお前さんを許すよ。オイラ、そう思うがねえ?」  そう言ってコッペペが手を伸べる。  少し迷いつつも、ファルファラはその手を取ることを選んだ。  ファルファラの軽い痩身を隣へ引っ張り上げて、二人は高く長い石橋の上で遠くを見据える。既に天をくまなく枝葉で覆った第二の世界樹は、徐々に蔦となって地に舞い降りつつあった。  このままでは、この大地は古き者たちが棄てた世界樹に飲み込まれるだろう。  根付いて祝福するのではなく、全てを覆って吸い尽くす宿木のように。 「っしゃ、ファルファラ! 最高の一曲を届けるぜ……オイラの歌を、お前の想いを今! 待ってる仲間が絶対にいる! まだ、いる……生きているんだ!」 「そうね……なくして忘れ、求めて得るのを待つだけの日々は終わりよ。願い望んで、引き寄せる。なくしても、なくても……生み出し築いて、作り上げる。その気持ちを今、二人の音に」 「そーいう訳だあ、サジタリオ! でフィール! ファレーナにラミューの嬢ちゃん、そしてぇ……ポラーレッ! 寝てる場合じゃねぇぞ、目ぇ覚ませっ! オイラの!」 「わたしの……わたしたちの!」 「届く限りの全てを、聴けえええええっ!」  コッペペの奏でる音楽に、ファルファラのステップがリズムを刻んでゆく。高鳴るビートに、彼女の身体が情熱を迸らせる。その真っ直ぐな熱量が、コッペペの灯して燃やす炎を紅蓮に高鳴らせる。  二人が渾身の力で振り絞る音が、嵐となった空を貫き、響き渡る。  冒険者たちの潜在能力を奮い立たせる音が、強く真っ直ぐ突き抜けてゆく。そして、ファルファラが魂を踏み鳴らすビートが……遠くで奇蹟となる。  舞が呼ぶ武が、最後の希望を目覚めさせようとしていた。