世界の終わりが、終わった。  その終わりが今、始まったのだ。  不思議な浮遊感でファレーナは、そのことを感じていた。  見なくてもわかる、感じる。  そして、今の目に見えている光景が夢だとわかった。 「ああ……ふふ、そうか。あなたもまた、確かに世界樹だったのだな。人の想い、祈り、願い……そういうものを受け止めるカタチ。わたしは記憶しよう……黒き神樹よ。あなたも世界樹へと還れ……今」  眩しい陽光の中に今、ファレーナはいた。  窓から差し込む光が、まるで現実のように暖かい。  そして……目の前にいつも通り、いつものように、あの人がいた。 「どうしたんだい? ファレーナ。ええと、その……」  相変わらずぼんやりと、表情の乏しい白い顔が笑う。  そう、笑っていた。  黒い影のような男が、笑いかけてくれた。  それがポラーレだと知っているのに、奇妙な違和感がある。そして、その方向へと身を翻そうとして、ファレーナは自分の格好に少し驚いた。  いつも通りにポラーレは、闇を凝縮したような黒衣を身に着けている。  それは今、タキシードだ。  そしてファレーナは、何故か純白のドレスに身を包んでいた。  その理由が今、二人の間で声をあげる。 「パパ、だめだよ! そういうんじゃないの、もー! ボクがおしえてあげる!」  小さな少女が、そう言ってポラーレの腕にぶら下がった。ツインテールの髪を揺らしながら、彼女は父の手を……父と呼んだポラーレの手を引いて、身を寄せてくる。 「ママ、きれい! えとね、まってね……はいパパ、ボクのいうとーりにまねしてみて! いい? これ、ぜったいだからね! ぜったい!」 「え、あ、ああ、うん」 「いーい? えっと……ママ、きれいだよ!」 「ママ、きれいだよ?」 「もーっ、なんでぎもんなのーっ! ちがうよパパー!」 「はは、ゴメンゴメン。あまり、こういうのは慣れなくて」  その頃にはようやく、ファレーナはわかってきた。  夢だと俯瞰していた自分が、夢の中の自分に入り込んで一体化する感覚。  そして、ニシシと無邪気な笑顔の少女の正体にも気付いた。  この子は、娘のソーニョだ……この人と、ポラーレとの間にもうけた、目に入れても痛くない愛娘だ。どういう訳か、そうだとわかる。  既にもう、夢は夢ではなくなっていた。  夢見たことすらない、甘い甘い時間。  世界樹を夢見た異形が、夢破れて散りゆく中で見せる……幻想だ。 「じゃあ、いいー? パパ、もっかい! さん、はい! ママ、きれい!」 「ママ、きれい」 「もっとじょーねつてきに! ママ、きれいだよ! あいしてる!」 「ママ、きれいだよ……あっ、ああ、あい……して、ます」 「……なんかパパ、がっかりだよボク。でも……そんなパパがすきー!」  一緒になってすぐ、ソーニョが生まれた。  忙しくて、式を挙げるなんて考えたこともなかった。  それが突然、ポラーレが言い出したのだ。  結婚式を挙げよう、と。  娘にじゃれつかれるポラーレを見ていると、不思議とファレーナは現実を忘れてゆく。この夢の一瞬、その刹那を永遠に引き伸ばした中に溺れそうになる。 「ん? どしたの、ファーレナ。……やっぱり、変かな? 僕の格好は」 「パパ、いつものくろふくとちがうもんねー? シンジュクなんばーわんのホストさんじゃないもんねー!」 「はは、半分は用心棒のようなもんだけどね。でも、これからは少し違う仕事ができそうなんだ。もっと昼間に働けるし、家族とも夜一緒にいられる。だから、その」  シンジュク?  どこかで聞いたことのある街の名前だ。  そう、シンジュクという街がある筈だ。  それをファレーナは今、ずっと知っていたことを理解した。  どんどん夢は、彼女を優しく包んで多幸感で満たしてゆく。  その時、控室のドアが開いた。  そして、もう一人の愛娘が入ってくる。 「父さん、母さんも。みんなもう来てる」 「ああ、グルージャ。じゃあ、そろそろ……ファレーナ、いこうか」  伸べられるポラーレの手に、自然とファレーナも手を重ねた。  しかし、奇妙な違和感があって、ソーニョを引き寄せるグルージャへと視線が奪われる。彼女は、こんなに柔らかい笑顔を見せる娘だったろうか? ……否、こういう笑顔の彼女がずっと見たかった筈だ。この人と、ポラーレと見たかった筈だ。  思わずじっと見てしまったのだろう。  訝しげに見上げるグルージャは、小首を傾げた。 「あ……えと、お姉さんは、今日から、その……あたしにも、母さんになるなって」 「わー、おねえちゃん! かおがまっかだよ? てれてるー」 「ソーニョ、うるさい……と、とにかく、いい機会なんだから。あたしも、母さんって呼ぶ。ように、してみる。ソーニョの母さんは、父さんの奥さんで、あたしの母さん」 「すごいね、おねえちゃん! それってかぞくだね! ちょーつよいね!」  笑うソーニョを連れて、グルージャが扉を開く。  部屋の外に、大勢の人たちがいた。  皆、見知った親しい人たちよのうな気がした。  その顔ぶれが皆、眩しい笑顔で迎えてくれた。  光が溢れて、その中へとポラーレが歩き出す。  ファレーナはその手に手を引かれて、並んで進み出す。  そういう夢が、一層の輝きを増して広がっていった。  なんて美しい、理想の光景なんだろう。  ここではファレーナは、このままポラーレに寄り添い暮らして、共に生き、一緒に老いてゆくのだ。死が二人を分かつまで、望む限りに一緒でいられるのだ。  そう思ったら、自然と涙が零れ出た。 「……なんて眩しい世界なのだろう」 「ん? どうしたの、ファレーナ」 「いえ……ありがとう、ポラーレ。わたしは幸せです。だから……そのことを知るために、伝えるために戻らなければ」  光に溢れた世界は、眩しくて、眩しくて……もう、なにも見えない。  人は光が強ければ溺れ、小さく灯ればすがりたくなる。  だから……安心して眠れる夜が必要なのだ。  闇が光を包むから、その中で光は輝ける。闇は常に、光と寄り添う。  モノクロームで彩りを知らない二人が、それでいいと思えるのは、きっとそうなのだ。だから……自然とファレーナは自分で夢へと別れを告げた。  そうしてまぶたが開くと……青い空の中にファレーナは浮いていた。 「気付いた? ファレーナ」 「ポラーレ……わたしは」 「下を見ない方がいいよ。ゆっくり、落ちてる。降りてるというか……どうやら世界樹が僕たちを帰してくるみたいだ。僕たちの、大地へ」  それでもちらりと見てしまい、遥か下に霞む大地にファレーナは絶句した。  思わずポラーレの首に抱きついてしまう。  それで気付いたのだが、ファレーナはポラーレに抱き上げられていた。まるで、悪い竜の王にさらわれた姫君のようだ。そのまま二人は、ゆっくりと降りてゆく。 「はは、しっかり掴まってて。それと」 「それと?」 「後も、見ないで。……見ないでやって、欲しい」  ポラーレが言い終わらぬうちに、ついちらりとファレーナは見てしまった。  仲間も無事でホッとしたが、苦笑するポラーレの意味がわかった。  驚いたことに、ポラーレはぎこちなく笑っていた。  そして、背後には……サジタリオを抱き上げたデフィールが浮いていた。 「……おうこら、相棒。ぜってー誰にも言うなよ? デフィール、あんたもだ。この俺様がこんな格好……ちとやりすぎたぜ、腰が抜けちまった」 「あら、大丈夫よ? 男の子が小さいことを気にするものじゃないわ。よくて?」 「よくねー、ついでに男の子って歳でもねー! ……しまらねえぜ、ったくよ」 「秘密は守るわ、私。大事な秘密はいつだって、ヨルンにしか打ち明けたことがないもの」 「……終わった……いいからもう、手を放してくれ。このまま落としてくれ」  自然とファレーナも、笑った。  皆で、笑った。  そうして四人の冒険者は……ずっと一緒だった筈の、五人目の仲間が待つ地上へと吸い込まれてゆく。徐々に鮮明になり始める眼下の光景で、赤い頭巾の少女が光を掲げている。それはやがて、周囲を舞う世界樹の種子と共に……風に乘って天へと吸い込まれていった。  こうして、四つの大地と世界を飲み込もうとした災厄は……自分がなにものかを思い出して、散っていった。一度だけ振り返れば、本当の世界樹は今日も枝葉を揺らして全てを睥睨している。その眼差しの中に、ファレーナは確かに娘の息遣いを感じた気がするのだった。  冒険者たちの伝説は幕を閉じ……三つの民の新たな時代が始まり始めた瞬間だった。