光を取り戻した世界は、四つの大地でそれぞれの時間を刻みだした。  始まりの地、タルシスも同じだ。  皆、前にも増して忙しい日々を送っている。  それはパッセロも同じで、彼の最初の仕事は診療所の裏の小麦粉倉庫を借り受けることだった。念入りに清掃して換気をよくし、消毒してからベッドを運び込む。  小さな診療所から溢れた怪我人たちが、まだパッセロの手当を必要としていたのだ。  午後になって臨時の入院病棟に顔を出すと、馴染みの面々が寛いでいる。  息抜きを兼ねた回診で、パッセロは三人組の少女に声をかけた。 「よう、リシュちゃん。グルージャもメテオーラも。具合はどうだ?」  暇潰しにカードで遊んでいた三人が、それぞれに振り返って三者三様に声を上げる。その返事を聴けば、自然と皆が快方に向かっていることは明らかだった。 「あっ、パッセロ様。脚の怪我もだいぶいいですわ」 「わたしとグルージャはほら、頑丈にデキてるから! わはは」 「……一緒にしないでくれる? メテオーラには、かなわないし」  三人は笑顔で互いに顔を合わせては、柔らかな表情ではにかむ。この病室の中でも、メテオーラとグルージャの怪我が酷かったが、日に日によくなっているようだ。  そして、パッセロはそのまま視線を窓際へと滑らせる。  倉庫の時は戸板と一緒にはめ殺しだった窓辺には、一人の麗人が佇んでいた。  黄昏たように、静かな美貌を外の風景へと向けている。 「……リシュちゃん、あの……エミットさんはあれ、どうしちゃったの」 「おばねーさまは、先程御見舞の方が沢山いらしてましたの」 「ああ、それでか」  エミットは今、全てを悟った賢者のような表情で……贈り物と花束に埋もれていた。恐らく、街中のご婦人たちが持ち寄ったものだろう。かわいそうに、評判のイケメンお姉さまとしてチヤホヤされた挙句、夢を壊さぬように振る舞った結果、少し疲れたようだ。  エミットの骨折した右脚は、ギブスで固定されて吊るされている。  それは、冒険者や街の御嬢様たちの回復を願う落書きで満たされていた。  他の面々にとっても珍しい風景ではないらしく、病室は穏やかな憩いの空間になっている。冒険者たちにとって、一つの冒険が終わって、今は休息の時なのだ。  そんな室内に目を細めていると、グルージャが相変わらずの目付きで見上げてくる。 「父さんは……ちゃんと、してる?」 「あ? ああ、ファレーナやデフィールさんたちと大忙しだ。バルドゥール殿下や辺境伯への報告もあったし、イクサビトやウロビトの里にも行かなきゃならん」 「そう、なんだ。うまく、やってそう?」 「そりゃ大丈夫さ。長い冒険の日々が続いたからかね? 旦那もすっかり世間慣れして」 「そうじゃなくて……その、お姉さんと……うまく、やってるのかなって」  僅かに俯き瞳を伏せるグルージャだが、その評定は驚くほどに柔らかい。  言動こそ普段と変わらぬ無愛想なものだが、以前よりずっと情緒豊かにパッセロには感じられた。それがまるで妹か姪っ子を見るようで、とても嬉しい。  リシュリーもニコニコ、メテオーラもニマニマと笑っていた。  だが、思い出したようにメテオーラは手を叩く。 「そうだ、パッセロさん! あの子、目が覚めた? 意外や意外、グルージャがずっと心配しててさ、うるさいの。目覚めたかー、まだかー、まだ寝てるのかー、って」 「……そんなこと、言ってない。……訳でも、ないけど」 「グルージャは優しい方ですもの。今までは色々ありましたけど、これからはナルフリード様やベルフリーデ様と仲良くできますわ」  あの、暗国ノ殿での激戦は、多くの冒険者に傷を残した。  その中で、傷を絆に変えた者たちの、その強さをパッセロは密かに誇りたい。  だからこそ、全ての仲間の怪我を治して、また冒険の日常に送り出したいのだ。 「……さっき、ヴェリオが来てたけどよ。どうも……よくねえんだ。怪我はまあ、あのバケモノじみた身体能力だ、心配ねえ。けど、な」  ブリテンからやってきた騎士、ナルフリードとベルフリーデ。雌雄一対で生まれた一つの肉体に宿る、双子の少年と少女。重傷で意識不明だが、意識が戻ることをパッセロは信じて疑わない。  だが、彼と彼女、二人が戻ってくるかどうかは……少し自信がない。  昔からの友人で主治医でもあるヴェリオの見解を、パッセロも先日聞いたばかりだ。 「謎の頭痛に随分悩まされてたらしいからな。それで……まあ、どうなるかわからねえ」 「……また、会える。一応、仮にも、友達? らしいから」  そう言ってグルージャは、手元のカードに視線を落とした。  素直じゃないのは父親譲り、そして父親似だ。  そんな少女に苦笑していると、パッセロは視界の隅で許しがたい光景を目にした。それで、三人娘に挨拶もそこそこに、一番隅のベッドへと強い歩調で歩み寄る。  そこでは、精悍な顔つきの美丈夫が、あろうことか酒を飲んでいた。 「……ヨルン、あんた……なにやってんだ? 一応ここ、病室なんだが」 「ん、パッセロか。なに、少し遅いが勝利の美酒というやつだ」 「なあ、あんた……自覚してるか? あの時タルシスを守ってあんたは……あの、剛腕の狒狒王を」 「フッ……雑魚を相手に少々手間取ったか」 「嘘つかないでください、やっとの思いで倒したじゃないですか! しかも、またこんな大怪我して……いつも思うけどな、ヨルン。あんた、どういう鍛え方してんだ?」  氷雷の錬金術師ことヨルンは、優雅にコニャックで一杯やっていた。その全身は包帯だらけで、所々に血が滲んでいる。  だが、不思議と端正な顔には穏やかな笑みが浮かんでいた。  毎度のことながら呆れつつ、パッセロも溜息混じりに笑った。 「この日のために取っておいた高級品だ。……最高の一杯というやつだな。ふむ」 「できれば退院するまで取っといてほしかったですけどね。……ん? なんですか、ちょっと」  不意にヨルンは、枕元の小さな机からもう一つのグラスを手に取る。それをパッセロに渡して、豊穣なる琥珀色を満たした瓶を向けてきた。 「……共犯者、ですか」 「そういうことだ。パッセロ、俺から一杯奢らせてもらおうか。お前たちメディックの活躍がなければ、タルシスも他の里も守りきれなかっただろう」 「よしてくださいよ、柄じゃない。俺ぁ、医者として当然のことをしたまでで」 「当然で当たり前で、だからこそそれを貫ける人間は、強い。俺はお前を宋家する」  真顔で平然とそんなことを言われると、妙に居心地が悪い。世界樹を廻る冒険譚を吟遊詩人が歌えば、詩篇の節々に名の出る氷雷の錬金術師がそう言うのだ。  だが、ヨルンは嘘を言うような男ではないし、世辞も言わない。  黙ってパッセロはグラスを受け取り、継がれたコニャックに口をつけた。 「……美味い。高かったでしょうに、これ」 「なに、祝いの酒だ」 「なるほど、それで……つまり、一杯奢ってくれた訳ですね?」 「そういう訳だ」  ヨルンは自分のグラスにもコニャックを継ぎ足そうとした。  その瓶を、すかさずパッセロは奪い取る。 「じゃあ、一杯だけ……奢られっかな。なあ、ヨルン」 「おい待て、それは俺が苦労して交易所で探し出した逸品で――」 「うおーい、みんな! ヨルンの旦那がおごってくれるぞ! 今日、この時間のみ、成人した男女に限って体内の消毒を許す。このアルコールで殺菌するように!」  ヨルンの表情が凍った。  同時に、振り返った冒険者たちが笑顔で瞳を煌めかせる。 「おっ、流石はヨルンの旦那だ! 気前がいいねえ!」 「そうそう、入院してっと酒が恋しくならあ」 「パッセロ先生、話がわかるじゃんかよ! おい、グラスだ。湯呑みでも茶碗でも構わねえ」  パッセロは初めて、狼狽えたような表情のヨルンを見た。かわいそうに、泰然として揺るがぬクールでニヒルな一流冒険者も、まるでおやつを取り上げられた子供のようだ。彼はしばし伸ばした手を虚空に彷徨わせたが、返せとも取り消すとも言わなかった。  そして、病室内が賑やかになってくる。  自然と誰かがお茶を沸かしに出ていって、エミットのベッド脇に山と積まれた菓子が配られ始める。その頃にはもう、カードに飽きたグルージャたち三人娘も、お茶会の準備を始めていたのだった。 「おばねーさまのところ、チョコレートもクッキーもありますわ」 「大人たちには……メテオーラ、あれ出して。隠し持ってるでしょ? 夜食用の鴨の燻製」 「え? あ、う、お、んー……なんの話かなあ、ってグルージャ! 酷い! ああ、待って持ってかないで、それを夜中にかじるのが寝る前の楽しみで……ああ、そんなにザクザク切らないで、大きく切ってとりわけないで! なくなっちゃう!」  枕元に立てかけてたエペタムを抜くや、グルージャがドスドスとダイナミックに鴨の燻製を切って、それが大人たちの手から手へと渡ってゆく。最後にはメテオーラが「もってけ泥棒ぉ、酒にゃー鴨だあ!」と、大盤振る舞いしていた。  こうして、ヨルンの最高級コニャックが、それぞれ一杯ずつ配られ、綺麗に空になる。  だが、彼は笑ってパッセロにグラスを掲げてきた。 「俺を出し抜いた男など、そうそういない、な。まあ、祝いの酒だ、問題あるまい」 「これで酒はもう持ってないですよね?」 「ああ、看板だ」 「……上着のポケットのやつも出してください。そっちは俺があずかりますから」  苦笑しつつヨルンは、壁にかけてある上着のポケットから小瓶を出した。それを受け取り、パッセロは賑やかになった病室をあとにした。