長い長い眠りから目覚めたクラッツの世界は、一変していた。  そして、いつもと変わらぬ空気があった。  あの大災厄と決戦から、一週間が経過していた。その間にポラーレがラミューたちと様々な手続きに追われ、沢山のお祭りがあって、そして日々が再び始まったらしい。  そして、日常へ復帰したクラッツの隣には、やっぱりあいつがいた。  隣のベッドを見やれば、包帯だらけのクラックスがたじたじだ。 「だ、大丈夫だよアルマナ。ほら、僕は兄さんより人に近いから、どうしても手当されると大げさなんだよね。だから」 「……本当ですか? クラックス君……私、ずっと心配で。全然目を覚ましてくれなくて」 「ごめん、ちょっと構成物質を体内で再分配中だったから、一時的に休眠みたいになってたんだ。本当にごめん、心配かけたよね」  あたふたとするクラックスの枕元に椅子を置いて、アルマナが林檎をむいている。彼女の目は真っ赤で、先程意識を回復したクラックスにしがみついて泣いてたのだ。少し落ち着きを取り戻したようだが、伏目がちに林檎をむいている。  彼女の見事なナイフさばきが、林檎の皮を解かれたリボンのように床へ広げてゆく。そのまま彼女は、うるうるとクラックスを見詰めては俯き、頬を赤らめながら林檎の極薄スライステープを作り続けた。手の中の林檎がどんどん小さくなってゆく。  その光景に、クラッツも正直ほっとした。  自分が目覚めたことより、相棒とその恋人の幸せの方が嬉しかった。  そして、苦笑しつつも振り返ると……クラッツの枕元にも、一人の少女が座っていた。 「はは、よかったじゃねえか。なあ? サーシャ……おいサーシャ、あのなあ」 「うぐっ、うう……ううううっ! ぐずっ」 「……ほらよ、ちり紙」  クラッツはなんとも言えぬ表情で、そばのテーブルからちり紙をとってやる。それを受け取ったサーシャは、乙女が見せてはいけない勢いで鼻をチーン! とかむと……また泣き出した。さっきからずっと、これである。 「なあサーシャ、泣き止めよ。どした? 腹でも痛いのか?」 「やっと……やっと、目を、覚まして……ぐすっ! そんなこと、言って」 「あー、悪かったよ。なんかぐっすり寝ちまったぜ! わはは……はは、はぁ……」  サーシャはぼろぼろと大粒の涙をこぼしながら、テーブルに置かれた籠から林檎を掴み取った。そして、果物ナイフを抜き放つ。  目が据わっている。  殺気すら感じた。 「ぐすっ、ふん……り、林檎をむいてやろう」 「い、いいよ!」 なんか、あぶねえし……な? な?」 「クラッツ……」 「お、おう」 「死んだら、殺すからな。私は、うっ、ぐす……私を残して、死んだら、殺すからな!」 「わーった、わーったよ……いいからもう泣くなって」  果物ナイフを持ったまま、その切っ先をブルブル震わせサーシャが泣いている。とてもじゃないが、クラックスとアルマナのような光景にはならなそうだ。  それでクラッツは、溜息を零しつつサーシャから林檎を取り上げる。  ちょっとパジャマの端で拭いてから、クラッツは林檎を真っ二つに手で割った。 「ほれ。お前も食えよ、サーシャ」 「……うん」 「大げさなんだよ、フミヲも酷かったぞ? 俺ぁ包帯だらけでミイラ男になるとこだったんだ。あいつめ」 「酷い、怪我だったから……ぐすっ」 「あーもぉ、泣き止め。な? な? ったく、どうしたら泣き止んでくれんだよ。俺ぁ、その、嫌なんだよ……苦手なんだ。お前が、その、泣いてるの」  そうこうしていると、クラッツたち重傷者が寝ていた病室に見舞いの客が訪れる。花瓶の水を取り替えたり、お茶とおやつを持ってきてくれたのは顔なじみの少女たちだった。 「皆様、ごきげんよう。お茶などお持ちしましたわ。お菓子もありますの」 「わはは、こっちの部屋は残念だったねー。わたしらの部屋じゃお酒が出たのに」 「……まあ、こっちは正真正銘の死に損なった人たちばかりだから」  リシュリーとメテオーラ、そしてグルージャだ。  包帯だらけの冒険者がベッドを連ねる室内が、一気に明るくなる。彼女たち三人は、誰にでも笑顔で茶を注いでマグを渡し、籠の中の菓子を選ばせる。  驚いたことに、あのグルージャですら今日は表情が柔らかい。  リシュリーやメテオーラと違って、ぎこちないが……あの無愛想な仏頂面が心なしか影を潜めていた。  そんな三人を眺めていたら、視線に気付いたのかメテオーラが振り返る。 「あ、クラッツ起きてる! って、あんた……駄目じゃん! サーシャ泣かせちゃ!」 「ちっ、違ぇよ! こいつが勝手に」 「はぁ、駄目だねえ……駄目駄目に駄目だねえ。これだから男の子って奴は」  部屋の中を笑いが満たして、それでようやくサーシャもハンカチで涙を拭う。しかし、泣き止んだかと思うとクラッツを見詰めて、またぼろぼろと涙を溢れさせるのだ。  八方塞がりでお手上げだったが、ふとクラッツは隣のベッドを見る。  クラックスと逆側の隣には、今も目覚めぬ一人の騎士が眠っていた。  毎日来てそうするように、リシュリーやメテオーラ、グルージャが枕元に立つ。 「今日も寝てるね、ナルフリード君とベルフリーデ……ま、寝る子は育つ? って言うしね、わはは! ……早く目覚めると、いいよねえ」 「大丈夫よ、メテオーラ。ベルは殺しても死なないタイプだから」 「およ? 今、ベルって……ふーん、いいじゃん? グルージャってばもぉ!」 「……ちょっと、頭撫でないでくれる? 少し、鬱陶しい」 「まあまあ、そう言わずに!」  口でこそ煙たがっているが、グルージャが嫌がっていないのは明らかだ。そんな少女たちの朗らかさに囲まれて、まだナルフリードは眠っていた。その中に同居するベルフリーデと共に。今や、恐るべき破戒の狂騎士だった二人を恐れる者は、もういない。  冒険者の誰にとっても今、彼と彼女は大事な仲間だった。  そうこうしているとリシュリーが、ぱむ! と両の手を叩く。 「そうですわ、わたくし物語で読みましたの。こういう時は、お姫様のキスで目覚めるのですわ。きっとそうですの! ……あら? まあ、皆様……なにか」  ニッコリ笑ったリシュリーが、部屋中の視線を集めていた。他ならぬお姫様がそう言うので、誰もがニヤニヤとするしかない。クラッツも内心、自分で言うかあ? と思ったが……ついつい笑みが溢れてしまう。  そして、メテオーラが肘で小突きつつリシュリーにそのことを伝えた。 「んじゃさ、リシュやってみる? むふふ、だってほら……ナルフリード君はリシュのこと、結構……リシュもまんざらでなさそうだったじゃん?」 「ふふ、そうですわね。では、試してみますの!」 「へ? あ、いや、まじですかー! まじでやるんですかー、って、あっ!」  天真爛漫な無邪気さが、そのまま少年性と共に内包されているのがリシュリーという少女だ。彼女は名案だとばかりに、早速寝ているナルフリードの唇に唇を寄せる。  誰もが止める間もなく、止める理由を持たぬうちに……彼女は桜色の唇で、キス。  しようとした。  もうすぐ接する唇と唇の距離が、限りなくゼロになりそうな瞬間だった。 「……なにしてんのよ、ちょっと。私の兄様になにする気?」 「まあ……あらあら、まあまあ! ベルですのね? 皆様、ベルが目を覚ましましたの!」 「気安いわね、ったく。なに? ちょっと、なんなのよ。なんで私をみんな見てるの?」  目覚めたのは、ベルフリーデだった。  リュシュリーの形よい鼻を摘んで顔をどけながら、彼女は上体を起こす。  そして、クラッツは見た。メテオーラもグルージャも、リシュリーごとベルフリーデを抱きしめる。歓声があがって、これで全員の冒険者が意識を取り戻したのだった。  そう、共に視線をくぐった双子もまた、クラッツたちと同じ冒険者だった。 「ちょっと、苦しいわ! ああもう、なんなのよ! ……あ、あれ? ちょっと、待って……にい、さま? 兄様!?」 「どうしたの、ベル。……まさか」 「あ、ああ、グルージャ。お、おかしいのよ。私の中に、兄様が……いないの」  もみくちゃにされていたベルフリーデの顔が、あっという間に真っ青になる。  クラッツも、フミヲやクアン、パッセロから聞いていた。  あの無茶苦茶な戦闘力を持つ双子は、雌雄同体の肉体に二つの人格が入っている。しかし、それは極めてアンバランスな状態なのだ。だから、肉体は自然とどちらかを選んで、もう片方を眠らせると言われていた。二人を宿主とする肉体は、ナルフリードではなくベルフリーデを主として選んだようだ。  その事実にわななき震えて、ベルフリーデが絶叫を張り上げる。 「なんで、どうして! 私が消えればよかったのに! どうして兄様が、私の兄様が! 酷いわ、どうして……なんで私なの! 私なんて誰もいらない、必要ないのに!」  重苦しい沈黙が広がり、その静寂を乾いた音が突き破る。  クラッツは、平手を振りかぶったグルージャを見て、それより早く動いた少女を見詰める。ふだんから笑顔しか見せない彼女は、初めて怒りの表情を露わにしてた。 「そんなこと言うなっ! それ以上言ったら、ぶつよ!」  メテオーラは、今しがたベルフリーデを張り倒した右手で、硬く小さな拳を作る。ひっぱたこうとしていたグルージャも、既にぶたれたベルフリーデも、リシュリーたち周囲の人間も固まってしまった。 「必要ない人間なんていない! 人間には必要かどうかなんて関係ないんだっ! あんたは生き残って、ナルフリード君は……それって、しょうがないでしょ!」 「でも、私は……」 「うっさい! グルージャがね、毎日来てたんだよ? リシュも、ついでにわたしも! あんたをベルって呼んでくれる子、いるんだよ? あんたと一緒に、ナルフリード君を失った子も、ここにいる。それでもあんた、そういうこと言えるの?」  ベルフリーデは黙って俯いてしまった。事態がまだよく飲み込めてないらしいが、それでもリシュリーは、自分を救ってくれた騎士が去ったことを感じたらしい。その星海を満たした双眸から星屑のように涙が零れた。  そんなリシュリーを抱き寄せつつ、グルージャが静かに言い放つ。 「とりあえず、おかえりベル……それでも、あたしたちが嬉しいことを、わかれなんて言わない。ただ、目覚めたからには言わせて」 「……なによ」 「あの時、守ってくれてありがとう。あたしとメテオーラを守って、あなたは戦ってくれたわ。だから、ありがとう」  静かになった病室で、ベルフリーデは声を殺して泣いた。  誰も死なずに済んだ決戦の中で、一人の騎士が去った。そして、それを見送る少女を一人の騎士へと成長させる。それは、帝国でも世界各国でも延々脈々と続いてきた、誇り高き騎士たちの生き方……騎士道を感じて奉じる心があるからだとクラッツは思った。その時にはもう、幼少期から抱えていた騎士への憎悪が、知らぬ間に消えていたのだった。