第四大地、絶界雲上域。今日も空には、移民を乗せた船が無数に行き交う。国家規模での引っ越しを遠景に眺めながら、クレーエは目を細める。  頬の絆創膏を剥がせば、激戦の傷はもうふさがりかけていた。  それでもあちこちを包帯の白で覆って、彼は窓辺で振り返る。  金鹿図書館は今日も、恐るべき災厄の後処理で大忙しだった。  今も大きな執務机に齧りついて、フリメラルダが書類と格闘している。騎士団長ともなれば管理職も兼ねるので、いつの時代も手続きに追われる日々は変わらない。 「……しっかし、あんた。どういう鍛え方してんだ?」  思わず呆れて、クレーエは呟く。  満身創痍に見えて派手に怪我をしているが、フリメラルダは次々と職務をこなしていた。  傍らで補佐するプレヤーデンも、にこやかに笑って頷く。  書類を見てペンを走らせたまま、フリメラルダは億劫そうに呟いた。 「寝てなんていられませんわ。帝国のほぼ全てがタルシスに移動しますのも。この金鹿図書館の機能を残すためにも、色々と手続き、手続き、また手続き……なにかと手続きで忙しいですわ」 「まあ、それは……そうでもあるが」 「おちおち原稿も進めていられませんわね! ああもう」  それでもフリメラルダは、ふと手を止めて顔をあげた。  官女の視線を追って首を巡らせれば、艦隊の行き交う空の向こう……遠く首都の向こうに、今日も世界樹が見事な枝葉を広げている。  クレーエもそれを見やって、改めて勝利の実感に胸を熱く焦がした。  同時に首都での噂を思い出して、それとなく聞いてみる。 「なあ、フリメラルダ。あんた、次期筆頭騎士の椅子を蹴ったんだってな。出発前、ローゲル殿が笑っていたぞ」 「当然ですわ」 「殿下も色々とお考えがあってのこと。それに、武勲と忠義には報いて見せねばと仰っていたが」  クレーエの言葉に、一度フリメラルダはペンを置く。  そうして机の上に両肘を突くと、手を組みその上に形良いおとがいを乗せて微笑んだ。 「謹んで辞退させてもらいましたわ。わたくし、これでも身の程はわきまえてますの」 「そうかあ?」 「まっ! なんですの? その言いぐさは」 「いや……俺も、いい人事だと思ったんだがな」  帝国の筆頭騎士ローゲルは今、その座を一時返上している。自分なりに、今回の一連の騒動を振り返って考えたいのだという。そして、そのためには再び冒険者ワールウインドとなって、身分も名も捨ててみなければならないと考えたのだ。  そのことをバルドゥールは許し、快く責務から解き放った。  それで空席となった筆頭騎士の座を、様々な騎士が欲しているのだという。  そんな中でバルドゥールが選んだのが、フリメラルダだった。  だが、当の本人は……怪我も治らぬうちから再びこの場所に戻ってきた。特務封印騎士団という裏の顔を持つ、帝国の絶対戦力が集う場所。独立した強い権限を持つ、金鹿図書館へと。  フリメラルダは溜息を零しつつも、僅かに表情を和らげた。 「わたくしなど、ローゲル殿の足元にも及びませんわ。せっかくプレヤーデン殿が用意してくださった砲剣、使いこなすどころか……あれは失態でしたわね」  先日の決戦の折、蟲との戦いをフリメラルダは言っているのだ。  外法の刃、特攻用砲剣"桜花"を振るい、彼女はただ一人で災禍の現況と戦い、倒した。しかし、巨大な蟲は苗床に過ぎず、その中から異形の世界樹が飛び出したのである。  冒険者たちの勇気ある戦いによって、世界を癒やしの闇に覆う敵意は砕かれた。  だが、そのことを思い出したのかプレヤーデンは神妙な顔になった。 「やはり、使用者の命をも危険に晒す砲剣……嫌なものですな。そうした一振りを作ること、もう二度とない時代にせねばなりますまい」  帝国でも有数の砲剣技師は、自分を戒めるように呟いた。  だが、そんな彼をちらりと振り返って、フルメラルダは気にした様子を見せない。 「あら、プレヤーデン・ナカジマ。貴方の仕事は完璧でしたわ。わたくしがこうして五体満足でいられること、なにより例の蟲を一撃のもとに倒せたこと……これでもわたくし、感謝してましてよ?」 「しかし……真に尊き帝国の財産は、民。その民を守る帝国騎士が振るうには、あの刃はあまりに凄惨で哀しいですぞ。それに」 「それに?」  クレーエも言葉を待って振り返る。  プレヤーデンは胸を張って、それこそ大事と一言放った。 「なにより、美しくありませんからな! 私が求める機能美とは、程遠い」 「まあ」 「はは、違いない」  三人は誰からともなく、笑った。  開け放った窓から吹く風が、楽しげな声を持ち去ってゆく。  そんなフリメラルダの執務室に、ノックの音が響き渡った。  部屋の主が入室を促せば、一人のダンサーが現れる。既に旅装のマントを羽織り、手には小さなトランクケースを持っている。 「暇乞いに来たわ、フリメラルダ。プレヤーデン、それにクレーエもいるのね。……よかった」  現れたのは、ファルファラだ。  妙にさっぱりとした笑顔は、いつになく美しい。陰影の影の中でまどろむ、妖艶でミステリアスな美貌ではない。そこには、本当の笑顔を取り戻した冒険者の姿があった。  別れの時が来たのだと、自然とクレーエは悟った。  そして、この場の誰もが、そのことを顔にも言葉にも出さない。  勿論、フリメラルダもだ……彼女はいつも通りに笑顔で語りかける。 「お疲れ様、ファルファラ。どうかしら? 例の話、一応返答だけ聞きましてよ?」 「ふふ……世の中には、筆頭騎士の椅子を蹴る人がいるんですもの。つまり、そういうことよ」 「そう」 「ええ」  短いやり取りの中で、クレーエは察した。  今、特務封印騎士団は再編成される中で、相変わらず暗国ノ殿を調査する日々が続いている。怪我でリタイヤした騎士も多く、人手はいくらでも欲しい時期だった。そして、一時羽をこの場で休めていた蝶は、その羽撃きで多くの騎士たちを助け、金鹿図書館の業務も補佐してくれた。  そんな日々が終わる時が来たのだ。  蝶はその羽に光を集め、やがて飛び立ち去ってゆく。  小さな身体で懸命に羽撃き、海をも超えて旅をするのだ。  そんなことを思っていると、ファルファラはさっぱりした顔で微笑む。 「じゃ、もう行くわ。長居すると湿っぽくなっちゃうから……そういうの、嫌でしょう? ふふ、柄じゃないわ」 「そうね」 「じゃ、フリメラルダ。プレヤーデンも、そっちの色男さんも……ええと、確かクレーエ。そう、クレーエ"コルヴォ"アーベント。ありがとう、そしてお別れね」  珍しく殊勝に頭をさげて、ファルファラは去ろうとした。  その背をフリメラルダは、最後に一言だけで呼び止める。 「ファルファラ、このあとは? この次は……行くあてはあるんですの?」  愚問だったと、言った本人も知っている。  勿論、プレヤーデンと顔を見合わせるクレーエも一緒だ。  肩越しに振り返って、ファルファラは今までみたこともない笑顔を咲かせる。  そこには、ただの一介の冒険者となった女性がいた。 「そうね……風の吹くまま、気の向くまま。次の儲け話を探してふらふらしてくつもりよ」 「そう、いいわね。じゃ、気をつけて」 「ありがとう」 「まあ……貴女からお礼の言葉を聴くなんて。明日は槍でも降るのかしら」 「言うわね、フリメラルダ。まあ……なにが降っても貴女たちは国と民を守って戦うんでしょう? そのこと、忘れないで。私も忘れないわ。ずっと忘れない。片時も、忘れないから」  それだけ言うと、ファルファラは行ってしまった。  一抹の寂しさを感じて、クレーエは小さく溜息を零す。  一つの冒険が終わり、世界は太古の呪縛から解き放たれた。そして、冒険を終えた場所に未練を残さないのが冒険者の習いだ。名だけを残して、彼ら彼女らは旅立ってしまう。次の冒険へ、次の次の冒険へ……それ自体が終わらぬ冒険であるかのように。  しんみりとした空気を共有していると、突然乱暴にドアが開かれる。  転がり込んできた騎士は、金鹿図書館の司書の制服姿で息を荒げていた。 「団長! フリメラルダ団長! あっ、あの! 大変です!」 「なんですの? 落ち着きなさいな。帝国騎士たるもの、常に平常心ですわよ?」 「は、はい、それが、その……」  次の瞬間、美しい物語の一つの結末が塗り替えられる。 「金鹿図書館の蔵書の内、皇室指定の禁忌書ばかりが……! 門外不出の超極秘文献が、知らぬ間に何者かに閲覧された形跡が! 恐らく、内容を全て書き写されたかと!」  空気が凍って固まった。  フリメラルダは「はぁ!?」と、美貌の女騎士がしてはいけない表情で立ち上がる。クレーエもプレヤーデンと顔を見合わせ、思わず吹き出してしまった。  蝶は自らの羽で風をつかまえ、吹き渡るままに飛び去った。  長らく心を縛ってきた、危険への抗い難い誘惑を忘れて……その先にあるものに再び気付いたから、飛んでいったのだ。そのことを思ったら、不思議と愉快な気持ちでクレーエは朗らかにプレヤーデンと笑うのだった。