誰にでもそうであるように、彼女にも旅立ちの朝がきた。  それは、彼女が彼として戦うために生きること。  短い時間の中で、ベルフリーデは自分の時間を有意義に終えることができた。  旅装に身を包んで、彼女は見送りの友人たちを振り返る。  そう、友人……短い時間の中で、長らく友人ったように思えた少女たちだ。 「ここまででいいわ。……みんな、ありがと」  振り返って頷くベルフリーデは、笑顔だ。破戒の狂騎士、アウト・オブ・ラウンドと呼ばれた少女とは思えない。  静かに彼女は、友人になってくれた少女たちを見渡し、別れを告げる。 「ラミュー、メテオーラ……リシュ。そして、グルージャ。お別れね。シャオのこと、お願いね。あの娘は大丈夫、きっとまた元気になる。彼女自身がそれはわかってるから」  不思議と涙はない。  診療所のベッドでの日々が、とても満ち足りていたから。  もうベルフリーデは、一生分の青春を謳歌したのだ。  その実感があるから、微笑む表情が静謐にも似て美しい。  そして、見送る友人たちもまた笑顔だった。 「やっぱ国に帰るのかあー、ベル。ほら! リシュ! なんか言ってやんなよ」 「ええ、メテオーラ。ベル様、お元気で……わたくし、貴女たちのことを忘れませんわ。貴女がこれからのナルフリード様になるなら、わたくしは今までのナルフリード様を覚えています。ずっと」  先日、ブリテンからの使者がタルシスを訪れた。  遂にブリテンは、ハイランドとの戦争を再開したのだ。  長い停戦が終わり、再び泥沼の戦争が始まる。国土と民族の存続を賭け、ハイランドの戦士たちは立ち上がったのだ。  ――ハイランダー。  誰もが彼ら彼女らを恐れた。  ブリテンの多くの騎士や兵士が破れ、円卓にも三つの空席ができてしまった。  それでも、戦争は終わらない。  そして、戦争はベルフリーデから彼女自身を引き剥がしてゆく。  自分の中に消えた兄の名で、彼女は故国のために戦う道を選んだのだ。  だが、不思議とベルフリーデは気持ちが軽かった。 「今日、このタルシスを出た瞬間……その時から、私はナルフリード兄様になる。兄様の名誉と、兄様が守りたかった国と民のために戦うわ」  再度ベルフリーデは、友人たちを見回した。  ラミューはなにか言いたげに苛立って、唇を噛み締めている。そんな彼女に寄り添い、メテオーラはいつも笑顔を見せてくれた。リシュリーも、星海のように輝く瞳から星々を零そうとしない。優雅な微笑みで、兄が恋した少女は小さく頷く。  そして、グルージャは相変わらずの仏頂面だ。  だが、ぶっきらぼうに呟く言葉には熱がこもる。 「……ベル、お別れは言わないわ。いずれまた」 「ええ。またいつか。いつか、この街で……タルシスで」 「今なら前言撤回してもいい、かも。宮仕えなんかやめて、タルシスで冒険者でもすればいいじゃない。あたしだって、気がのらないけど手伝ってあげてもいいし」 「ふふ、ベルフリーデはそうするわ。だから……その名と共に、私をここへ置いていくの。短い時間だったけど、貴女たちと友達になれてよかった」  そう、後悔はない。  自分の名前と気持ちを、この風の中に置いてゆくんだ。  この街に吹く風はきっと、友人たちによい季節を運ぶだろう。  その中に、ベルフリーデを置いてゆく。  そしてこれからは、ナルフリードとしてブリテンのために戦うのだ。 「じゃ、みんなも元気で。まあ、あんたたちも運が太い娘たちだし、それは私も一緒。きっと悪いようにはならないわ。この戦争は長くない……そう思う。これは、騎士としての勘」  宿からヴェリオがやってきて、出発の準備は整った。  そして、マントを翻してベルフリーデは空を仰ぐ。  抜けるような青い空には、雲一つない。  高い高い蒼天に、雲雀が飛んでいる。  穏やかな別れと旅立ちの浅だ。  だが、すぐに察した。  戦場へと戻るベルフリーデへ向けられる、強烈な殺気。  そこかしこで自分を睨む、血の色の眼光。  ベルフリーデの、ベルフリーデとしての最後の戦いが始まった。 「さよなら、みんな。さよなら……グルージャ。そして――」  ベルフリーデは腰の剣を抜き放つと、周囲を見渡し叫ぶ。  突然のことに、友人たちは驚いた顔を見せた。  それでも、構わず声を限りに叫ぶ。 「聴けっ、異郷の戦士たちよ! ハイランダーよ! このタルシスを血で染めるならば、その紅に己を沈める覚悟でかかってくるがいい! ……ここは戦士と騎士のいていい土地ではない。ここは、この街は……冒険者の街なのだから!」  そして、友人たちが息を飲む気配が伝わった。  リシュリーを護るようにして、メテオーラが剣を抜く。  その二人を背に庇って、ラミューも抜刀と共に身構えた。  ただ、グルージャだけが……剣を掲げるベルフリーデの左手を握ってくれる。  それは、平和なタルシスのそこかしこに戦鬼が立ち上がるのと同時だった。  見渡す街並みのあちこちで、人とは思えぬ強力な殺意が具現化する。これほどの覇気を纏う人間は、冒険者の中でも数えるほどしかいない。例えば黒狼竜の化身たる黒衣の冒険者や、その相棒の闇狩人。エトリアの聖騎士や氷雷の錬金術師。そういった、伝説に値する者たちに劣らぬ力がベルフリーデを睨んでいた。  並ぶ屋根に、路地裏の影に、行き交う人々の中に。  その者たち、ハイランダーが無数に黒い影でマントを揺らしている。  恐らく、この場でベルフリーデを始末するつもりだ。何故なら、彼女は……兄の名で無数の武功をあげ、数え切れぬハイランダーを屠ってきたから。ハイランドに最も流血を強いた騎士、ナルフリードの正体は彼女だのだから。  そして今、本当のナルフリードになるべく、彼女は決意を新たにしていた。  これからの戦いで、今度こそ兄の名誉のために戦う。  兄がなりたかった騎士に、ベルフリーデは名を捨て生まれ変わるのだ。  だが、そんな彼女を暗い声が包む 「……破戒の狂騎士、アウト・オブ・ラウンド……死を、一切合切の死を!」 「一族の恨み、我らが血に宿った怨嗟と憎悪をその身に受けよ」 「父祖が守った土地と同胞のため、今ここで……災禍の根源を潰す!」  ここで戦えば、周囲の犠牲は避けられない。  そして、こんな戦いに友人たちを巻き込んではいけないのだ。  ベルフリーデが大好きになった少女たちは、騎士でも兵士でもない……この街の誇れる冒険者なのだから。  一触即発の空気が膨らんでゆく中で、不意に声が走った。 「そこまでです、異国の戦士たちよ! 名のある武人とお見受けした……この場は剣を引き、槍を収められよ! 聞き入れぬとあらば……暁の騎士が全身全霊でお相手する!」  信じられない声が響く。  そして、振り向くベルフリーデは見た。  街の誰もが道を譲る中……抜き放つ砲剣の揺らぐ熱気にマントをはためかせて。鈍色の鎧を排熱で朱に染め、夜明けを呼ぶものがやってくる。その端正な表情は今、涼やかな中にも不退転の決意を灯していた。  暁の騎士、レオーネ……帝国最強のインペリアルの一人だ。  彼は周囲を見渡し、金切り声を歌う砲剣を構えて叫んだ。 「我が共ナルフリードは、逃げません! 必ずや彼の地で、貴公らと刃を交えることを約束しましょう。それでも尚、待てぬなら……この私がお相手いたしましょうぞ!」  突然のことで、街の民にざわめきが広がってゆく。  燻る殺意の権化たちは、レオーネの一喝で固まった。  他ならぬベルフリーデ自身も、動けなかった。  そして、一人、また一人とハイランダーの気配が遠ざかってゆく。  それを確認して剣を収め、レオーネは笑顔でベルフリーデに手を伸べてきた。握手を求めてきたのだと気付き、ベルフリーデも納剣する 「お達者で、ベルフリーデ殿。そして、ご武運を、ナルフリード殿……お別れです、我が戦友。クレーエ殿やフリメラルダ殿からもよろしくと。帝国の危機に立ち向かってくれた駐留武官のことを、我らは決して忘れませぬ」 「感謝を、レオーネ殿……みんなも、ありがとう。では! おさらばです! ヴェリオ、戻りましょう。私の……いや」  少女は一歩を踏み出す。  進む先へと今、少年として歩み出す。 「いや……俺たちの戦場へ!」  この年の冬、破られた停戦は三ヶ月で終戦へとこぎつけることになる。多くの犠牲と血の代価を払って、ハイランドとブリテンには終戦協定が結ばれ、和平交渉が始まることになったのだ。  式典に参列した円卓の騎士たちの中に、破戒の狂騎士と呼ばれた少年の姿はない。  遠く異国の地タルシスに、ベルフリーデという少女の名が残るのみである。  ハイランドでは後々まで、修羅の如く戦う鬼神の姿を代々伝えて語り継いだ。  ――さあ坊や、いい子にして眠らないと立派なハイランダーにはなれませんよ。ママの言うことを聞かない子は、あのナルフリードが首を落としに来るんですからね。さあ、おやすみなさい、私のかわいいあなた。いい夢を。  かくて伝説は伝説として潰え、その中で起こった命の引き継ぎを知る者はいない。  タルシスの冒険者を除く、誰一人として。