その大陸には、失われた歴史がある。
四つの種族……セリアン、ブラニー、ルナリア、そしてアースラン。アルカディアと呼ばれた土地の民たちは、互いに
それは、戦災の中に消えた物語。
港が開かれ外との航路が築かれて、はや十年と少し。
今、アルカディアの世界樹に再び冒険者は集おうとしていた。
世界樹が見下ろす巨大な交易都市、アイオリス。
近年、アルカディア評議会の決定で、長らく閉ざされていた世界樹への扉が開かれた。その奥へ待つのは、
アルカディアの内外を問わず、多くの冒険者たちがアイオリスに集った。
その中に、身なりの小奇麗な青年の姿がある。
名は、ニカノール・コシチェイ。
色白な表情は端正に整いつつも、ルナリア特有の
「いいね、こういう雰囲気がアイオリスかあ。さて、まずはどうしよう」
流れ者の
だが、ニカノールには世間の暮らしやならい、冒険者のイロハがわからない。
突然の旅立ちだったし、何不自由無い御屋敷から遠出するのも初めてだった。
それでも彼は、一種の
「そうだなあ、さっき冒険者ギルドでエドガーさんも言ってたけど、どうやら仲間を集めてギルドを結成する必要があるみたいだね。……どうやってやるんだろう?」
問いかけにグラスの
ニカノールはお行儀よく、薄焼きのパンに挟まった野菜と肉とを食べる。手で直接食べ物を持つことも、それに
もぎゅもぎゅと優雅にランチを楽しみながら、改めてニカノールは周囲を見渡す。
そんな時、急にたゆたう音楽が止まった。
同時に、酒場の奥で騒ぎが持ち上がる。
「おうおう、爺さん! 悪ぃが俺たちゃアイオリスではちょっとした顔でねえ? 頼みが聞けねえってんなら、相応のやりかたってやつを教えてやらなきゃなんねえ」
「なに、ちょいと頼んでるだけだろう? 女将のメリーナがいいつってもな、ここで歌うにゃ相応のもんを払ってもらわねえと。なにせ、俺たち冒険者の神聖な酒場だからな!」
どうやら揉め事のようだ。
そして、ニカノールは目撃する……年老いた一人の詩人を、
「いけない、揉め事だよ。あんなにいい演奏なのに、無粋だなあ。やれやれ……あの、ちょっと! すみませーん、そこの方。僕、歌を聴いてたんで――!?」
立ち上がったニカノールに、深い考えはなかった。彼の生きてきた世界にも揉め事はあった。人間との
そういう時、ニカノールが仲裁に入って話を聞けば、するりと全てが片付いた。
昔から無自覚に、ニカノールは接する者たちの言葉と気持ちを擦り合わせる名人だった。
だが、彼は知らない。
ここは教養と知性に満ち溢れた者たちだけの、自分が育った御屋敷とは違うのだ。
その証拠に、椅子を蹴った彼は不意に、背後から肩を叩かれた。
振り向くとそこには、二人の冒険者が立っている。
「おっと、お前さん……どう見てもおのぼりさんだな? やめときな、無駄な血が流れる」
「ああいうケチな手合は、刺激してはいけないね。俺たちがすぐメリーナを呼んでこよう」
振り返ると、二人の青年が立っていた。不敵な面構えで笑うアースランと、知的な瞳を細めるルナリアだ。二人共冒険者のようで、鎧を着込んだ
目を
「正義感もいいけどな。ただ、騒ぎを大きくしてもいいことはないぜ? 暴れるのが冒険者なら止めるのも冒険者、そうなっちまうと酒場もただじゃ済まない」
「ああ、なるほど! そうだね、うん。そこまでは考えてなかった」
「おいおい、能天気なあんちゃんだな。ま、見過ごせないのは俺たちも一緒だけどよ」
竜騎兵の青年は、ニカノールの背を叩いて再度笑った。日に焼けた肌に白い歯が零れて、精悍な顔つきが無邪気な
だが、同行していた魔導師の青年は、そんな彼を肘で小突いた。
「それよりナフム、そこの君も。……ちょっと、まずいことになったようだよ」
酷く落ち着いた声は、
瞬時にニカノールの前で、二人の冒険者は緊張感を滲ませた。
それは、ニカノールの直感に実力を訴えかけてくる。
そして、今度は凛とした声が響き渡った。
とても元気な女の子の声音だ。
「おじさん、駄目だよ! 楽器、返してあげなよ。おじいさんの歌、みんなが聴いてたんだよ? ボクも、すっごいいいなって思ってたもん」
二人組の視線の先へと、ニカノールも振り返る。
荒くれ者たちの前に、小さな一人の少女が立っていた。動きやすさを第一に考えた軽装は、どうやら
不思議な雰囲気を持つ少女の金髪は、まるでお月さまのように柔らかな光だ。
そして、唇を尖らせる彼女の視線が、無垢な無邪気さに輝いている。
「ああ? なんだこのチンチクリンは。おいおい、お嬢ちゃん」
「ボク、ラチェルタ! ね、楽器を返してあげて? 一緒に歌を聴こうよ。ボクも下手っぴだけど一緒に歌いたいな」
「ハッ、
凄む大人を前にしても、ラチェルタと名乗った少女は全く動じない。敵意を向けるでもなく、正義の怒りを燃やすでもない。ただ、彼女は「いい歌なのになあ」と笑った。
ニカノールが不思議な少女に
「よぉ、チェル……どいてな。おう、おっさん。オレぁチェルほど優しくないぜ?」
「あっ、マキちゃん!」
「久々にキレちまったぜ? 俺はぬるい
なんだか話がややこしくなってきた。
ラチェルタを守るように、一人の少年が前に出る。よく見れば、それは少女のようにも見えた。マキちゃんと呼ばれた彼だか彼女だかは、
二人の若き剣士たちを前にして、
互いを見合って肩を
「おう、
「ハッハッハ、おお怖い! 怖いなあ、おい聞いたか?」
「やめてくれよ、笑わすもんじゃねえ! 封じられし刃? 宿命の剣? こいつは傑作だ!」
「あっ、て、手前ぇら! 俺が船ん中で考えてた決め
だが、中性的な顔立ちの少女が抜刀しようとした、その時にはもう……彼女の鼻先にナイフが突き付けられている。どうやら腕は、巨漢二人組の方が上らしい。
そして、いよいよ騒然とする酒場の中で、誰もが騒ぎから距離を取った。
それは、ぽむ! と手を叩いたニカノールが歩み出るのと同時。
すかさず彼を呼び止める声に、へらりと笑って振り返る。
「おいおい、これ以上ややこしくすんなって。あー、どうする? フレッド。
「ペテンじゃない、策だ。名案はないけど……そうだな、君はどう思う?」
ナフムとフリーデル。それが青年たちの名前らしい。
二人に頷き、笑顔でニカノールは「ちょっと見てて」と歩み出た。周囲が騒がしくなり、
危険なざわめきに包まれた中で、ニカノールは迷わず両者の間に入った。
それは、リュートを取り上げられた
ニカノールは二人の少女を背に、大きく息を吸い込んだ。
そして、歌劇の幕が上がる。
喜劇の始まりだ。
「わあ、冒険者さん! ああ、やめて、やめてくださーい!」
「なんだこいつ? おい、ちょ、ちょっと待て! 危ないから俺のナイフ――」
「ばっ、馬鹿野郎! 死にてえのか! おい、手を放せ!」
周囲が白けるようなわざとらしい棒読みで、ニカノールは悪漢のナイフをわざと自分に向けさせる。そして、心の中で小さく呟いた。
死にてえのか?
それは無理だね。
「あっ、痛い! いたーい! さーさーれたー! バタンキュー!」
胸を抑えてニカノールは、その場に倒れて目を閉じる。勿論、演技だ。それも、酷く幼稚で無様な
一人だけ本気にしてしまった人物が、すかさずニカノールを抱き上げる。
少女剣士ラチェルタは、薄い胸の上でニカノールの頭を抱きしめた。
「わわっ、お兄さん! 大丈夫……? って、冷たい! 心臓も……止まってる!」
「お、おい嬢ちゃん、バカ言うなよ。刺してねえし血だって……なあ?」
「あ、ああ。だが、顔色が……ヒッ! ほ、本当に死んでやがるぞ!」
黙って床に身を投げ出し、心の中でニカノールは舌を出した。
そう、ニカノールは死んでいる。
彼は今、生きた死体として過ごしているのだ。それが世界樹の迷宮に挑む理由で、目的は自分の
人生のこれからを賭けた大冒険の、その手始めにニカノールは人助けを選んだ。
鼓動がないことを確認するや、ナイフを放り出し
その足音を聴きながら、ニカノールは今のところ唯一の特技である死んだフリ……もとい、死んだ自分の全てを披露して目を