迷宮内を
疾駆する、黄金の風。
鎧の重さを感じさせぬその速度は、とても
齢60を超えた老婆のものとは思えなかった。
勿論、本人にそう思わせない
気概があったし、年齢を口に出す者は夫以外容赦をしたことがない。
彼女はこのアルカディア大陸では、エクレールと名乗っていた。
その名の
如く、
稲妻のように迷宮内を進んでゆく。
開通した抜け道を駆使する様は、ベテランの冒険者そのものだった。だが、エクレールの共犯者は彼女を金色の光で覆ったまま不安を口にする。
「デフィール、チェル達は大丈夫だろうか……僕は、不安だ。いてもたってもいられないよ」
弱気な声が、デフィールと呼ばれた女性の鎧を泡立てる。
まるで
黄昏色の海のように、金属にも似た光沢が揺らめいた。
そう、
眼帯で素顔を隠したつもりのこの女騎士は、デフィール・オンディーヌ……遠く異国の地では、エトリアの
聖騎士と
謳われた英雄である。彼女が世界樹の神秘を解き明かしたのは、今から50年近く昔の話だ。
だが、その後の冒険と戦いの中で、肉体は老いを忘れてしまった。
以前、とある内陸の世界樹へと挑む中、記憶も身体もいじくりまわされたことがあるのだ。エクレールという名も、その時のものである。
「情けない声を出さないの、クラックス! ……大丈夫よ、あの子達を……
貴方の子を信じなさいな」
「信じてる、けどさ……でも、ああ! 落ち着かないよ」
全力疾走するエクレールの纏う鎧に、無数の瞳が浮かび上がる。
鎧となって同行している、
錬金生命体のクラックスである。彼はあのラチェルタの父親だ。彼女の
半人半魔の肉体は、クラックスの因子を強く引き継いだ血族の
証でもある。
クラックス・ファルシネリ……その名を知るものは、闇から闇へと影の中、裏社会を生きる者に違いない。兄と並んで、この世で最強の力を持ち、あらゆる困難を
踏破する冒険者……時には暗殺者であり、諜報員。その正体は、
た
だ
の
親
バ
カ
な
の
だ
。
一心同体の二人は、一気に『
奇岩ノ山道』の10階へと
躍り出る。
「デフィール、戦いが始まってる! 呼吸と鼓動のテンポ、これは戦闘中だ。しかも、激しい!」
「信じなさいって言った割には……私も少し大人げないわね。何かしら、とても嫌な予感がするの」
「とにかく、急ごう。過保護はよくないけど、本当のピンチには割って入らなきゃ」
「ええ。……っと、あれは?」
ズシャリとエクレールは立ち止まった。
ふと見れば、山頂のように開けたフロアの向こうに、冒険者達の一団が見える。その中心に立っている青年を、二人はよく知っていた。
彼の名は、ニカノール。
ラチェルタが所属するギルド、ネヴァモアのギルドマスターだ。
歩み寄れば、向こうも気付いたようでパッと顔を明るくさせる。
「失礼だけど、貴方がネヴァモアのギルドマスター、ニカノールね?」
「ええ、そうですけど。ええと、
御婦人、
貴女は」
「私の名は……エクレール。
故あって、この世界樹を旅する者の一人よ」
本当は二人なんだが、話がややこしくなるからクラックスは黙ってくれている。
エクレールの名を聞いて、ニカノールは表情を明るくさせた。
「ああ、貴女がエクレールさん! 以前、チェル達を助けてくれたっていう」
「ま、まあ、それはよくてよ。それで? 貴方、何をしてるのかしら?」
ニカノールは、その腕に一匹の鳥を抱えている。
見たところ、
鵜飼が漁に使う鳥のようだ。
そうこうしてると、彼の背後で仲間達が集まり出す。
「おーい、ニカ。釣れたぞ! って、ありゃ? このベッピンさんは」
「ナフム、失礼だよ。まったく……兄弟がすみません、レディ」
現れたのは、
竜騎兵と
魔導師の二人組だ。
どちらも若い男で、溢れんばかりの覇気に満ちている。
彼らが釣りたての
樹海魚を手に、ニカノールを囲んだ。
どうやら、例の鳥に
餌をやろうとしているらしい。
自然とエクレールはその姿に目を細めた。ナフムと呼ばれた男は威勢が良さそうで、根拠のない自信に満ち溢れている。彼を兄弟と呼んだ魔導師の男も、冷静沈着な態度の奥に同じ情熱を秘めていた。
まるで、遠い昔の自分と夫を見るような気持ちだ。
そして、小声でクラックスが
囁く。
「ねえ、デフィール……あの二人、何だか君達に似てるね」
「……私も今、そう思ったわ」
「いいなあ、エトリアの世界樹。昔、父さんが……僕達の創造主が少しいたことがあるって。凄く大きな、立派な世界樹らしいね」
「ええ、この世界樹と同じくらいにね」
ひどやかなやり取りの中で、注意深くエクレールはニカノールとその仲間達を見やる。片目で
見据えて、もう片方を覆う眼帯からクラックスも視線の矢を射る。
突然眼帯に複数の瞳が浮かんだが、ニカノールはあまり驚かなかった。
彼は抱いた鳥に樹海魚を食べさせ、そして地面へと放す。
「また会えたら、魚をあげるけど……そろそろどうかな」
呑気なことを言って、ニカノールは笑った。ほがらかな笑みで、人の良さが知れる。ぼんくらな坊っちゃんにも見えるが、エクレールの直感はそれを否定していた。何も言ってこないということは、クラックスも同じことを感じているだろう。
目の前の鳥は、じっとニカノールを見上げて……その脚に擦り寄った。
「見た? ナフム、フレッドも! この子、何となく
懐いてないかな?」
「の、ようだな。
噂じゃ、世界樹から持ち帰った鳥で魚を
獲らせてる連中もいるらしい」
「宿に戻ってジェネッタに聞いてみよう。で、だ……ニカ。こちらの麗人が何か言いたげだけど」
フレッドと呼ばれた青年が、フリーデルと名乗って挨拶してくれる。彼に
促されて、ニカノールがエクレールの前に歩み出てきた。
咳払いを一つして、エクレールは言葉を選ぶ。
「今日、貴方のギルドはトライマーチと一緒に……魔獣ヒポグリフの討伐をしている筈じゃなくて? ギルドマスターの貴方は、戦ってるようには見えないのだけど」
半端な答えが返ってくるようなら、エクレールは勿論、クラックスも容赦しないだろう。ヒポグリフの討伐のために、自分達の親しい子や孫が立ち向かっているのだから。
だが、ニカノールは静かな
微笑を
湛えて
頷く。
「ええ、
仰る通りです。だから、僕は僕でできることを……仲間から、何だか
妙な鳥がいるって聞いて、それで」
「貴方は戦わないのかしらん? レヴィやチェル、それにマキはまだまだ未熟だわ」
「あれ? あの三人とは知り合いだったんですか?」
「ん、んんっ! ん! ま、まあ……ほんの少し」
藪蛇だったかもしれないと、エクレールは視線を
逸らす。
だが、自分とクラックスが満足できる以上の言葉がニカノールから返ってきた。
「あの三人には、今日はコロスケとナルがついてます。コロスケの剣は勿論、時と場合によってはナルの魔法も頼りになる筈。彼は自分の危機には真面目になりますから」
ニカノールは語った。確かにあの三人娘は、未熟でお調子者で、その上に好奇心ばかり
旺盛で怖いもの知らずだ。だが、最悪逃げ帰るだけの力を同行させたし、申し出てくれた大人達も了承済みだという。
絶対に勝てる戦い、完璧に制御された結果……
そ
れ
は
冒
険
と
は
言
わ
な
い
。
冒険者として力をつけるためには、冒険をこなし、生き残る必要があるのだ。
「なるほど……仲間を使うだけでなく、育てる。ふふ、あいつと、コッペペと同じことを言うのね」
「あれ? コッペペさんともお知り合いなんですか? エクレールさん、貴女は……」
「邪魔したわね。私は一応、見届けるつもりだけど……今回は手を貸さない、そう決めましてよ? それと……ニカ、って呼んでいいかしら? ニカ、いいギルドマスターになるのね」
それだけ言うと、エクレールは
踵を返した。耳元で
囁くクラックスも、大きく頷く気配がある。
先程のナフムとフリーデルにも挨拶をして、再びエクレールは10階の奥へと走り出すのだった。