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 戦いは終わった。
 暴王(ぼうおう)と呼ばれた少年の大戦争の、その終結の中……歴史の影で(うごめ)いていた、冒涜的な死者の国が滅んだのだ。
 歴史は正されず、それを確かめる必要はない。
 ただ、全てを見守る世界樹の中で、今日また冒険者は試練を克服したのだった。

「おい、聞いたか? ネヴァモアの連中がやったらしいぞ!」
「トライマーチも一緒だったってな……これで第三階層も突破か」
「そう思うだろ? けど、な……上に向かう階段が見つからないらしい」
「なんだって? その、例のアンデッドキングとかいうのの後ろに――」
「なかったそうだ……階段がない以上、あの薄気味悪い場所が世界樹の(いただき)……なのか?」

 ジェネッタの宿では、冒険者達が口々に(ささや)き合ってる。
 その中をワシリーサは、走った。
 どこへ向かっているのかも、わからない。ただ、部屋で休んでるニカノールの側にはいられない……いたくても、いる資格がないと思った。
 自分はあの戦いで、夫と定められた人のお荷物でしかなかったのだ。
 ニカノールやフォリス、そして仲間達が守ってくれなければ、自分は恐らく生きてはいなかっただろう。未熟な魔法では、援護すらままならない激戦だった。
 思い出すだけでも、恐怖で身が震える。
 でも、本当に怖いのは……あまりに無力で無知な自分自身だった。

「ああ、ニカ様……ごめんなさい。ワーシャはお役に立てませんでした」

 本当は、怪我の様子を見に部屋へ行ったのだ。
 助け出された五人の中で、ワーシャだけが無傷だった。全身から出血したノァンは意識が戻らず、まるで魂の抜けた人形みたいになってしまった。それを今度は、スーリャが寝ずの番で介抱している。
 あの時、精魂尽き果てたニカノールとフォリスの前に……死霊に代わって死者の霊魂が浮かび上がった。ノァンの身体から、その面影は浮かび上がった。
 そして、禁呪の力でそれは美しい女性を(かたど)り、ニカノールの最後の一撃で光になった。

「あれが……あの方が、きっとフォス様の」

 その全てをワシリーサは、見ているしかできなかったのだ。
 目を背けぬこと、ただそれだけが彼女の精一杯だった。
 宿の中庭に出ると、零れそうな涙を手で拭う。
 そうして歩けば、いつもの場所に敷物を敷いてあづさが座っていた。今も縫い物をしていて、側にはまきりも一緒である。
 二人のセリアンがいつも通り、にこやかに出迎えてくれた。

「おお、ワーシャ! 大手柄だったそうだな……うむ、私も馳せ参じたかったぞ!」

 大股で歩み寄ってきたまきりが、豪快な笑みでバシバシ肩を叩く。
 しかし、ワシリーサは微笑みを返すことができない。
 言葉が、出てこない。
 まきりはセリアンの武家の女、武芸者(マスラオ)だ。常在戦場、戦いと見れば自ら飛び込んでゆく武人である。そんな彼女を前にして、ワシリーサは自己嫌悪と恥ずかしさで立ち尽くすばかりだ。
 ワシリーサをとりなしてくれたのは、いつもと変わらぬあづさだった。

「ワーシャ、大変だったねえ。さ、こっちにお座り。お茶を淹れるとしようじゃないか」
「は、はい……あのっ、あづさ婆様(ばあさま)! まきり様も」
「いいからおいで、ワーシャ。落ち着いてゆっくり、この(ばば)に聞かせておくれ」

 とても優しい声音だった。
 そして、優しい言葉だったのだ。
 それが温かくて、すっとワシリーサの心へ浸透してくる。
 その時にはもう、(まぶた)が決壊して涙が止まらなかった。
 ボロボロと大粒の涙を零しながら、気付けば幼子のようにワシリーサは泣いていた。

「ど、どうしたワーシャ! あわわ、おおう……ど、どこか痛むか、傷が酷いのか!? おばば様、どうしたことかワーシャが、これは、うむ、そうだな、ならば肉を……ビフテキとか」

 オロオロしながらも、まきりが慰めてくれようとする。だが、止まらぬ涙を手で拭っても、ワシリーサの世界は滲んで歪んだまま水没していった。
 どうしていいかわからず混乱した様子で、まきりは戸惑いながらも抱きしめてくれる。
 彼女の胸の中で、ワシリーサは声をあげて泣きじゃくった。
 あづさもただ大きく頷いて、静かに縫い物を脇に置く。

「ワーシャや、お前さんは知ったね……自分の非力さ、弱さを」
「はい……わたしなんかの魔法じゃ、なにもできなかった……ワーシャはニカ様達に守られるだけで」
「そうだねえ、お前さんは確かに冒険者としてまだまださね。でもねえ、ワーシャ……それでもお前さんは、自分の生命(いのち)を生きたまま持ち帰った。違うかい?」
「それは、でも」
「真実、現実だよ……ワーシャ、お前さんは仲間と一緒に生き残った。なら、明日も生き抜いてやりな? いいね? 人は誰しも、弱さを知ってこそ強くなれるものさ」

 まるで炭火のように、あづさの言葉が心に染み渡ってゆく。
 自分で否定した自分を、その弱さをあづさは肯定してくれた。


 そこが強さへのスタート地点だと、優しくも力強い言葉で言ってくれたのである。
 まきりもうんうん頷きながら、強く抱き締め髪を撫でてくれる。
 そして、笑顔で目を細めるあづさが、さらに顔をしわくちゃにした。

「それとねえ、ワーシャ……男ってのは、守りたいものがあるから戦える。そして、守れなかったもののために戦い続けることもある。そんな時、お前さんはその男になにをしてやれるかね? それを一緒に考えようじゃないか」
「……はい。ワーシャは強くなりたいです。ニカ様のため、皆様のために……なにより、自分のために」

 こんな気持ちは初めてだ。常に周囲から、こうあれ、かくあれと道を示されてきた。そのことに不満も感じず、将来の伴侶(はんりょ)すら定められたままに、憧れ夢見ることしかしてこなかった。嫁ぐと決まった相手の青年は、そんなワシリーサを大事にしてくれて、大切にするからこそ踏み込んでこない。
 でも、あの薄暗く瘴気に満ちた迷宮の中で、ワシリーサを守るために戦ってくれたのだ。
 今、ワシリーサは初めて自分の意志で自分の全てを選んだ。
 あのニカノールという青年が、本当に好きになった……支えて寄り添い、共に歩きたいと思ったのだ。

「それとねえ、ワーシャや。振り向いて御覧? お前さんは確かに、冒険者の一員として勝ち取ったんだよ。それは、皆で分かち合うからこそ、お前さんのものでもあるんだ」

 そっとまきりが、ワシリーサを振り向かせた。
 見れば、そこにはリリとソロルが立っている。
 気恥ずかしそうに目を背けるソロルとは対象的に、リリはワシリーサに駆け寄ってきた。そして、手に手を取って、さらにもう片方の手を重ねる。
 普段から無邪気で明るいリリが、今日は一層あどけない少女に見えた。

「ワーシャ! 今回はありがとう。一族の悲願、死者の指輪を取り返すことができた……これって、みんなのおかげだよぉ!」
「そ、それは、ニカ様やフォス様が」
「そうっ、あの二人は凄かったなあ。……あの最後の一撃は多分、二人だから……きっと、ニカとフォスだからできたんだ。それってさ、やっぱ凄いよ!」

 興奮気味にリリは、握った手を上下させる。
 そして、意外な言葉をワシリーサに向けてきた。

「ワーシャ、いい仲間に恵まれたね! 彼氏? 婚約者? なんだっけか。でも、凄いよ! 私にはソロルがいてくれるけど、ワーシャにもニカ達がいるもん。ニカだって、ワーシャがいなかったら、あんな力は出せなかったよ?」

 赤面してソロルは背を向けてしまった。
 だが、リリの言葉がワシリーサの劣等感を、明日への希望へ塗り替えてゆく。

「ありがとう、ワーシャ。助けてくれて、ありがとう。そして、ニカ達と一緒に来てくれて、ありがとう。最初から強い人なんかいないけど……ワーシャはきっと、その最初の一歩を踏み出せたんだよ」
「そう、でしょうか……いいえ、そう……そうですっ! ワーシャは、こんなことで落ち込んでては……」

 そう、弱さを知った。
 だからこそ、強さを求めて望む。
 自分を守ってくれた背中に追いつき、その隣を歩きたいから。
 ワシリーサの覚悟は今、与えられる前に湧き上がり、自分で表現すべき決意へと刷新されてゆくのだった。

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