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 徐々にだが、謎と神秘が解き明かされつつある。
 世界樹の迷宮は、確実に、そして堅実に調査されていった。
 同時に、ニカノールの日常も少しだけ変わった。以前から好意を寄せてくれた、親の決めた許嫁(いいなずけ)……ワシリーサ。彼女の気持ちと想いに向き合うようになったのだ。
 だが、それが新たな悩みをニカノールにもたらしているのだった。
 それが今、午後のアイオリスに彼を潜ませる。

「僕はなんてことを……いや、でも! おかしいな、やっぱり変だよ。今日の僕は妙だ」

 影から影へと、壁あらば張り付き、物あらば身を隠す。
 そうして気配を殺しながら、ニカノールは一人の人物を追っていた。見詰める先で歩く背中は、誰であろうワシリーサその人だ。
 ニカノールは今、恋人に隠れて尾行しているのだった。
 ただただ背景に溶け込み、じっと婚約者(フィアンセ)を見守るように追いかける。
 何故(なぜ)自分でもそんなことをしてしまうのか、疑問に思いつつやめられない。

「それにしても……きょ、今日のワーシャは、こう……」

 (ほお)火照(ほて)るのは、午後の日差しが暑いからではない。
 普段は見せない艶姿(あですがた)で、ワシリーサは街を歩く。擦れ違う者たちが皆、振り向いては時間を数秒奪われていた。
 そう、彼女にしては珍しく派手ないでたちだ。
 大きく背中の開いた大陸風のドレスに、少し(かかと)の高いサンダル、そして日傘。(つや)めく長髪を左右で二房に結っている。いわゆるツインテールというやつだ。それが揺れる度に、甘やかな香りが漂ってきそうである。
 今日のワシリーサはとびきりのオシャレで、美しい上にとてもかわいかった。
 それがまた、一層ニカノールを不安にさせるのだ。
 そんな彼を、呼び止める声があった。

「ん? おいニカ、お前……なにしてんだ?」
「待って、ナフム。様子がおかしい」

 思わずニカノールは、ビクリ! と身を震わせた。
 ゆっくりと振り返ると、そこにはナフムとフリーデルの姿がある。二人共、今日は休日で街をぶらぶらしているのだろう。

「や、やあ! 二人共。……げ、元気?」
「は? ニカ……頭でも打ったか? 死なないからって、馬鹿も程々にしとけよ」
「これは、その……ハハハ。ナフムこそ、休みの日だけど、なにを?」
「これから兄弟と芝居小屋(しばいごや)でも冷やかして、あとは早めに夕飯を食って夜を待つつもりだ」

 恐らく、花街へと繰り出すのだろう。
 そういえば、ニカノールは随分と御無沙汰(ごぶさた)だ。この間も、夢見の夜魔亭のメルファに小言を言われてしまったくらいである。相変わらず彼女は、想像力と妄想力を暴走させ『さては別の店を贔屓(ひいき)しておるな!?』などとあたふたしていた。
 当たらずとも遠からず、である。
 生ける死体として不死を得てから、ニカノールの肉体は普通ではなくなってしまった。特に、月齢の影響を強く受ける傾向がある。満月の夜は、血が騒いで理性が蒸発しそうになる。そういう夜は、女の柔肌(やわはだ)が慰めとなったものだ。
 だがもう、そうする訳にもいかないと思っている。
 誰かを抱いてても、宿で待つ一人の少女を思い出してしまうのだ。

「ん? おいニカ、ありゃ……ははーん、読めたぜ? お前さん、ワーシャを追ってるのか」
「必然性は全くわからないけどね。でも、今日のワーシャは随分とめかしこんでいるようだけど」
「つまり、だ。あれだけ距離を取っておっかなびっくりだった癖に、いざワーシャに向き合ったら……こいつ、首ったけなんじゃないか。それで、彼女の一人の外出が気になると」
「……ナフム、少し芝居の見過ぎじゃないかな、それは」

 慌ててニカノールは、何度も何度も首を横に振った。
 ワーシャを疑ってなどいない。けど、今朝はいつにもまして綺羅びやかで、呼び止めれば微笑(ほほえ)みはお月様みたいだった。夜空の月より魅了してくる、それくらい綺麗だった。
 そんな彼女が、笑顔で「ちょっと、お出かけです」と言えば、それ以上は聞けなかった。
 だが、気になる……気になってしかたがないのだ。

「っと、じゃあ二人共、またね! 僕は、うん……やっぱり、気になるから行くね。ワーシャに悪い虫がついたら、一族にも向こうの家にも申し訳ないし」
「へーへー、わーってるよ。さっさと行きな。ま、やりすぎんようになー」

 二人と挨拶を交わして、再びニカノールは追跡者となる。
 だが、角を曲がったワシリーサを追えば、奇妙なことに気付いた。自分以外に、ワシリーサを見ている視線がある。それも、複数だ。
 道行く者たちの、鼻の下を伸ばした眼差しではない。
 はっきりと、隠れて監視するかのような気配が存在していた。

「いったい、誰だ? え、まさか……ワーシャ、そんな。って、いやいや、それはない。なにか事情があるんだろうし、目を奪われる者だって一人や二人は」

 だが、不思議と心臓が早鐘(はやがね)のように脈打ち始めた。心なしか呼吸も浅く、妙な汗が吹き出る。
 ワシリーサが不貞など、働く(はず)がない。
 彼女は(すで)に、生贄の花嫁として覚悟を終えて、嫁ぐ日を待ちわびているのだ。
 それがまた、ニカノールには心苦しかったのも事実である。
 まして、予定外のトラブルで早々と不死の眷属(けんぞく)になってしまったのだ。
 ワシリーサが、隠れて不義密通などするような少女ならば、どれほど楽だったか。だが、彼女は一途で気丈で、なにより優しい乙女だった。だから躊躇(ちゅうちょ)もしたし、(かたく)なにもなった。そんなニカノールさえ、彼女は愛してくれたと今は信じられる。
 そう、愛を知った……そしてもうすぐ、感じ合えるかもしれない。
 そんなことを考えながらも、ニカノールは周囲に気を配る。
 だが、彼の目が(とら)えたのは意外な人物だった。

「ノァンさ! いただよー、あっちさ行くだ」
「わかったです! ムムム……あっちは確か、お金持ちさんが住んでる方です!」

 咄嗟(とっさ)に隠れつつ、そっとニカノールは通りの様子を盗み見る。
 まだ、先程の視線は消えてはいない。そして、それとは別に見知った顔がトテトテとワシリーサを追いかけてゆく。どう見ても凸凹(デコボコ)コンビはそれは、ノァンとシバだった。
 何故(なぜ)か、シバは半ズボンにシャツ、そして(ちょう)ネクタイだ。
 ノァンにいたっては、エプロンドレスに金髪巻き毛のカツラまで被ってる。
 すぐに二人と知れたのは、その言動が全く変わってないからだ。
 変装してるつもりのようだが、別の意味でニカノールは溜息(ためいき)が出た。


「えっと……二人はなにを、って、行っちゃう。やっぱりワーシャを追いかけてる、のかな?」

 ワシリーサを追いかける二人を、自然とニカノールが追いかける形になる。
 人のことを言えた義理ではないが、猟獣士(ハウンド)なのにシバの尾行はあまりに酷い。野生と本能、そして鋭敏な感覚がウリのセリアンが、まるで嘘のように(つたな)かった。ノァンに関してはもう、問題外である。
 そんな二人がウロチョロしていては、ワシリーサに気付かれてしまう。
 意を決して、ニカノールは歩み出た。

「おーい……ノァン? と、シバ、だよね。君たちは――」

 丁度、二人が通りの奥で立ち止まっていたので、声をかけた。
 そうしなければ、ノァンとシバのどちらか、あるいは両方がヘマをやらかすと思ったからだ。
 だが、その考えはあっという間に霧散した。
 思考を奪う、ありえない光景を目にしたから。

「あ、あれ? ニカです……ニカ、ニカニカ、ニーカー! なにしてるですか?」
「あんれま、ニカさでねーか。じゃ、あれはやっぱりワーシャさだな」

 そう、確かに目撃した。
 着飾ったワシリーサを、一人の男が待っていた。細身で背が高く、日光を避けるための黒眼鏡(サングラス)をかけていてもはっきりわかる美形だ。すらりと見心地のいい彼は、ワシリーサとなにかを話している。
 そして二人は……互いに手を取り合って、また歩き出したのだった。

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