スーリャが世界樹の
今まで、傷付いた人間に心を動かされたことなどなかった。
死体にだって、特別な感情を感じなかった。
だが、今は同じ世界樹を旅する冒険者たちに心が痛む。巨大な扉の周囲では、多くの怪我人が手当を受けている。皆、あの恐るべき敵にやられたのだ。
それを知って
扉へ向かおうとすると、
「これ、スゥ! お
「メルファ。私は」
「あっ! わ、わかったぞよ……お主、ノァンを一人で助けるつもりじゃろ! そうしてあの、アルコンとやらの願いも救って、最後にはノァンと……ひっ、ひああ……ッッッ!?」
またメルファが、いつもの
だが、思わずスーリャは
その通りだからだ。
例え一人でも、ノァンを助けたい。最後にはと言わず、これからも……今までのように愛し合いたいのだ。ノァンの、無垢で純真な言葉に触れたい。
それは、闇から闇へと影の中を生きてきたスーリャが
そして、眩しく輝かしいのは、それだけではなかった。
「メルファ、止めるな。私は行く……それに、ニカやワーシャ、みんながいる」
「ま、待て待て、危険じゃ!
「……なら、私は冒険者をやめる。昔の私に戻ってでも、ノァンを助ける」
それだけ言って、歩き出したその時だった。
不意に、バン! と扉が開かれた。
そして、濃密な
その中から、見事な
ネヴァモアに所属する
あっという間に、救護に備えていた者たちが駆け寄った。
「チコリさん、薬草を……この音と匂い、命に別状はありませんね。でも、急いでください」
「はいっ、キリールさん! 今こそブラニー魂を燃やす時ですね!」
いやいやチコリはアースランだぞ……思わずスーリャは心の中で突っ込んだ。
そして、ハッと気付いて冷静になる。
今、目の前を死が通り過ぎた。
ジズベルトやキリール、チコリといった者たちが助けねば、あの冒険者は死んでいた。そう、この億に鎮座する原初の恐怖、あらゆる負の力の根源によって。
そんなスーリャを見透かす声が、静かに響いた。
「君は確か、トライマーチのスーリャ……ふむ、私もスゥと呼んでいいかな?」
小さなブラニーの少年が、スーリャを見上げていた。
子供に見えて、本物のブラニーというのは年齢が分かり難い。物腰穏やかで落ち着いた青年は、チェスニーと名乗った。
彼はスーリャに、
キリールの手当を受ける重傷者の前で、チェスニーは
「ああ、君。悪いが麻酔が効いてくる前に教えてくれ
「あ、ああ……強烈な、刺突、グッ! ハァ、ハァ……後列ごと、やられて……皆、パニックに……混乱の、中で、俺たちは」
「ふむふむ。なるほど、新しい発見だ。他には?」
そっとキリールが、チェスニーを手で遮ろうとする。
だが、血塗れの男はその手を振り払って、繰り返し何度も恐怖と脅威を訴え続けた。それをチェスニーは、
それは、果てしない戦いに思えた。
以前のスーリャならば、効率が悪くリスクばかりの戦いだと切り捨てていただろう。だが、今は違う。そして、変われた理由をチェスニーが口にした。
「小さな女の子がいなかったかな? そう、全身に縫い目の浮き出た、肉付きのいい女の子だ」
「最後、に……見た、時、は……俺たち、を、逃がす、ために……あ、あれは、でも……人の、人間の、戦いじゃ、ない」
「うんうん、そうだね。でも、誰かのための戦いだ。ありがとう、もう眠るといい」
男は薬草の香りに誘われ、ゆっくりと眠りに落ちていった。
そして、チコリが戻ってきて、薬と包帯とが傷口を覆ってゆく。
もう、スーリャは冷静ではいられなかった。
早くノァンを助けにいかねば……その気持だけが今、彼女の心に燃えている。冷たく凍っていた胸の奥に、あの日の仲間たちが点火したぬくもり、それが今は燃え盛っていた。
愛用の大鎌を手に、扉へ向かう。
最後に振り返ると、誰もが絶望の中で戦っていた。
怪我と戦い、怪我人を救う戦いを行い、助ける戦いの中で傷付いている。
その
「待たれよ、スゥ殿! 一人では――」
ジズベルトがなにか言いかけた、その言葉に籠もる気持ちだけを受け取る。
そうして、スーリャは扉を開いて中へと飛び込んだ。
暗黒をも見通す
「っ、酷い空気だ。ノァン! どこだ、ノァン。私が助けに来た、どこにいるんだ! ……お願いだ、返事をしてくれ」
だが、スーリャの悲痛な声に応えたのは、闇。
闇そのものとしか思えぬ巨大な異形が目の前に降りてきた。古代の伝承にある竜とて、これほどまでにおぞましい
無数の魔物を始末してきたスーリャにも、その恐るべきプレッシャーが降り注ぐ。
「これが……ニカたちの言っていた、
直視するだけで、気持ちが折れそうになる。ともすれば、正気を失い泣き叫んでしまいそうだった。だが、スーリャは鍛え抜かれた
そそり立つ
そして……長い一本の角に今、力尽きたかのような少女が串刺しになっている。
それを見た瞬間、スーリャの全身から
「あれは……ノァン! あ、ああ……返せ、返せっ! ノァンは、私の……うわああああっ!」
全身の血が沸騰して、周囲に
暗闇を
跳躍は、頭上から雷の雨が注ぐのと同時だった。
瞬時に部屋の広さを掌握し、高い天井を蹴り上げ壁へと
「くっ、どうすれば……せめて、ノァンだけは! ……いざとなれば、この呪わしき血を使って」
自分がこの世ならざるモノとの混血児であることは気付いていた。そして、その
だが、流星の
雄叫びも、唸り声もなく、ただ淡々と生ある全てを塗り潰すように。
「
衝撃がスーリャを襲った。
あっという間に、身を守る瘴気の対流がかき消える。闇を操る秘伝の技が、闇そのものによって
その時にはもう、スーリャは全身から血を吹き出して落下していた。
瞬時に自分が即死級のダメージを負ったと知る。
死んでないのは、ただの幸運だった。
巨像の如き悪意の
「ぐっ、あ、ああ……ああっ! ノァン! 私は……こんな、ことではっ!」
鮮血を吹き出し落下する先で、巨大な爪が持ち上がる。
トドメへと吸い込まれる自分をもう、スーリャはどうすることもできなかった。
だが、二つの閃光が走る。
互いに
そしてスーリャは、ありえない声を聞く。
「みっ、みみみ、見た? ボッ、ボボ、ボッ、クッ……ボクたちの剣でも、当てればいけるよ!」
「お、おうよ! そっ、そそ、そうだなチェル! なら、オレとお前とで」
「うんっ! やっつけちゃおう! そうしようよ!」
互いに震えて竦みながらも、巨悪の前に二人の少女が立っていた。あまりにも頼りないその背中を見ながら、スーリャは誰かに抱き留められて意識を失うのだった。