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 第三階層『晦冥ノ墓所(カイメイノボショ)』……死者の霊魂に満ちた迷宮は今、普段にも増しておどろおどろしい空気に満ちていた。
 視界を覆う濃密な瘴気(しょうき)に、思わずニカノールも絶句する。
 屍術師(ネクロマンサー)としての経験が浅くとも、不死者の一族に生まれたニカノールにとって、死は日常のそこかしこにあった。だが、死が残す怨嗟(えんさ)憎悪(ぞうお)が、これほどまでに色濃く顕現するなど初めて見る光景である。

「なるほど、これがソロルの心配していた異変か」

 先日、死神と呼ばれるベテラン冒険者のソロルが話を持ちかけてきた。それは仕事の依頼で、しかもニカノールたちでなければ無理だと彼女は断言した。それほどまでに危険で、ギルドを通したクエストでは犠牲者が出るというのだ。
 だが、彼女は相棒のリリのために頼みたいと頭を下げた。
 ソロルとリリのため、なによりリリを想うソロルのために、ニカノールは二つ返事でこの仕事を引き受けたのだった。

「地図があるから迷いはしないけど、これは……ワーシャ、僕から離れないで。……ワーシャ?」

 ふと振り返れば、先程まで一緒だった恋人の姿がない。
 それどころか、気心知れた仲間たちも気配が感じ取れなかった。
 一歩先はもう、魔素(まそ)の充満した闇である。
 少し大きな声で呼べば、ようやく返事が戻ってきた。

「ニカ様、わたしはこっちです! ヨスガ様と一緒です」
「ああ、よかった。えっと、ノァンとジズベルトは――」

 その時だった。
 突然、目の前の空間に魔物が現れた。
 朽ちた死体から一繋(ひとつな)ぎに引き抜いたかのような、骸骨(がいこつ)の剣士だ。カタカタと歯を鳴らす音が、腐臭と共に周囲の空気を一層濁らせてゆく。
 やはり今日は、普段以上にこの場所に死者の怨念が充満している。
 ソロルが言っていた通り、危険な徴候だとニカノールは瞬時に理解した。
 同時に、担いでいた棺桶(かんおけ)を盾のように突き出す。
 鈍い音がして、錆びた刃が弾かれる。

「死霊、は、間に合わない。けど、これくらいならっ」

 ニカノールはそのまま、手にした鎖で棺と踊る。かつては未熟な冒険者だったが、今は違った。屍術師として死霊を使役せずとも、ある程度の直接戦闘もこなせるようになっているのだ。
 そして、屍術師にとって棺桶は商売道具であると同時に武器でもある。
 淑女とワルツを踊るように、ニカノールは難なく魔物の頭蓋を砕いた。

「と、っとっと……やっぱり、アンデッドの動きが活性化してるな。面倒なことになりそうだ」

 骸骨の剣士はその場に崩れ落ちた。
 もう、二度と立ち上がってはこないだろう。
 だが、その奥から無数の死体が蘇る。
 数で押してくる亡者たちに対して、焦らずニカノールは(ひつぎ)を背負い直した。同時に、目の前に死霊を召喚する。あっという間に、三つの霊魂がぼんやり光って浮かび上がった。
 死霊は屍術師にとって、最大の攻撃であると同時に、絶対の防御でもある。
 すかさずニカノールは、一体に守備を念じてもう一体を引き寄せる。
 攻撃の術を構築しつつ、最後の一体を仲間たちのために飛ばした。

「みんなも別個にエンカウントしてるとしたら、危険だ。強さはそうでもないけど、こんなに数が……あの時以来だな、こんなのは」

 かつて、死者の国には王が君臨していた。
 暴王(ぼうおう)の時代より数百年もの間、偉大な伝説の影でその男は王を気取っていた。無辜(むこ)の魂を無限に取り込み、その無念を増幅させて世界樹に死者の国を築いたのだ。
 だが、その妄念をニカノールたちは打ち砕いた。
 アンデッドキングは滅び去り、彼が盗んだ秘宝はリリの元へ戻ったのである。
 それ以来、この迷宮は平穏を取り戻し、今では中堅冒険者の鍛錬の場となっている。
 ――なっていた、とニカノールは脳裏に訂正を挟んだ。

「とにかく、先に進むにしても少しは掃除しておかないとね。頼むよ、()ぜて()く疾く、馳せ抜けろっ!」

 ニカノールが魔力を込めると、死霊が術式に反応して燃え上がる。
 紅蓮(ぐれん)の業火と化した死霊は、そのまま炎と熱とをばらまきながら魔物たちもろとも爆散した。その時にはもう、ニカノールは次の死霊を呼び出している。
 体力をも削る危険な術だが、長き冒険の旅でニカノールも成長していた。
 今では、ある程度なら仲間たちにも気を配れるし、援護もできる。
 勿論(もちろん)、自分で自分の身を守ることも忘れない。
 そうこうしていると、暗い(きり)の向こうから声が響いた。

「オシショー! ニカの気配はあっちです! 危険がピンチで危ないのです!」
「しかしこの数……ふむ、いいでしょう。ノァン、あれをやりますぞ?」
「はいなのです!」
「ではでは、見せてやりましょうぞ……これぞ、武の極意。一意専心(いちいせんしん)一投入魂(いっとうにゅうこん)!」

 突然迷宮の奥から、(ごう)! と風鳴りが飛んできた。
 周囲の瘴気を風圧で薙ぎ払う、それは砲弾のように飛翔するノァンだった。


 あっという間に彼女は、そのまま真っ直ぐ頭から敵へと突っ込む。一番大きな魔物を、頭突きで木っ端微塵にして、その反動で着地するや身構えた。

「ニカ、助けに来たです! 飛んできたです!」
「う、うん。本当に飛んでたね」
「オシショーから習った力と技、そして力業(ちからわざ)なのです! フゥゥゥゥ、アチョー!」

 ノァンはそのまま、見事な体捌きで魔物たちを蹴散らしてゆく。
 以前のノァンは、死体人形(ゆえ)の暴力的な筋力を振り回していた。圧倒的な力は、どんな敵をも捻じ伏せ、打ち倒してきたのだ。だが、今は違う……ジズベルトとの鍛錬によって、力を制御する技を身に着けたのだ。
 力と技とで洗練された体術はそれでも、確かに力業とでも言うべき奔放な格闘術を爆発させていたのだった。

「助かったよ、ノァン。ジズベルトは?」
「オシショーは向こうで大暴れしてるのです。流石(さすが)オシショーなのです!」
「うんうん。じゃあ、こっちも片付けちゃおうか」

 すぐにノァンは、眩しい笑顔で大きく頷いた。
 その双眸が、(あか)(みどり)の輝きで尾を引きゆらぐ。残像を闇に刻んで、高速でノァンが敵陣へと躍り出た。すかさずニカノールは、その背を死霊に追わせる。
 ノァンが舞うように踊れば、両手と両足は風切る凶器へ変貌する。
 激しい乱打の嵐となって、無数の痛撃が狂い咲き。
 ニカノールは的確なコントロールで、ノァンの隙をカバーして死霊を盾に援護に徹した。うごめく死の軍勢は徐々に、死を超越した少女の拳を恐れて引いていった。

「逃げる者は追わないのです! これはオシショーとの約束、ですですっ!」
「ノァン……強くなったね。凄いや、八面六臂(はちめんろっぴ)の大活躍だ」
「ニシシ、ニカのお陰です。いつもアタシは、みんなに守ってもらってるのです」

 こんな奈落の深淵にも似た迷宮の中で、ノァンの笑顔だけが眩しい。
 その頭をよしよしと撫でていると、ようやく仲間たちと合流することができた。巨漢のジズベルトは無傷だったし、ヨスガもワシリーサを守ってくれていたようだ。
 手練の格闘士(セスタス)が三人、この上なく頼もしい。
 反面、豹変してしまった第三階層はその奥に、恐るべき異形のバケモノを秘めているようだ。ヨスガは軽く膝の汚れを手で払いながら、通路の奥の闇を見据える。

「ニカ様、あちらの壁に通り抜けられそうな隙間が……どうやらその奥に、まだ地図にしていない迷宮があるようです」
「わたしも、ワーシャも見ました! それで、ヨスガ様とその壁を調べていたら……大量に魔物が現れて」
「どうやら、私たちは招かれざる客のようですね」

 やはり、ソロルの恐れていた事態が現実となっている。
 今、第三階層『晦冥ノ墓所』の最奥に……最凶最悪の驚異が生まれ落ちようとしているのだった。

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