ニカノール・コシチェイは死んでいる。  彼は代々ずっと屍術師の名門に生まれ、コシチェイ家の御曹司として将来を約束されていた。全てに恵まれ、将来の伴侶までも決められていた彼の、人生で初めて、そして唯一のイレギュラー……それが、今回の死亡と、死んだまま生きている状態である。  酒場の騒ぎが収まりつつあるなか、お月さまのような少女に抱かれてニカノールは思った。  どうやら少女たちも、吟遊詩人の老人も助かったようだ。  そして、闇の中で脳裏に一族の者たちが言葉となって浮かび上がる。 『おやおやニカ、ニカや。もう死んでしまったのかい?』 『せっかちな子だねえ、まだ死者体になるには早かったんじゃないかね』 『しかし、いい塩梅に死んだねえ。死せる者の力に満ちて、活き活きとしんでるよ』 『本当、曾祖父さんにも見せたかったねえ……ニカ坊の立派な死に姿を』  麓の村や街の者たちは、コシチェイ家の屋敷を化物小屋のように言う。だが、時折一族が集まるその家を、ニカノールはずっと好きだった。彼が不慮の事故で死に、その原因もわからぬなか……皆、心配して集まってくれたのだ。  白光りする骸骨が笑い、吸血鬼となった眷属たちも頷きを交わす。  腐れど臭わぬ死体の親族たちに、包帯まみれのミイラを選んだ従兄弟たち。  皆が話し合う中で、現当主である父はニカノールにこう言った。 『ニカ、お前は賢い子だが……考えがなさすぎる。まあ、若気の至りだが……それならこじらせる前にいっそ、至り尽くすのもいいだろう。よき経験となって、お前の中に糧となり明日を育むからね』  こうして、ニカノールの生まれて初めての旅が始まった。  それは、このアルカディアの中央に位置するアイオリスの街で、世界樹の迷宮に挑むこと。長らく閉ざされた神秘の秘境として、世界樹は大陸中を静かに見守っていた。  その静寂の中に、コシチェイ家のニカノールが不死である秘密が隠されている。  ニカノールが生まれた際に、祝祭に沸き立ち歓喜し過ぎた先代が、いや、先々代だったかそれとも……とにかく、定かではないが長老の一人が悪ノリしてしまったのだ。嬉しさのあまりその人は、ニカノールの命を世界樹のどこかに隠した。  コシチェイ家の者たちは皆、身体の外へと命を隠す。  肉体は常に不死のまま、叡智と知性を保ち続ける秘術だ。  そんなことを思い出していると、不意に現実が騒がしくなる。  もう死んだフリもいいだろうかと思った、その時だった。  不意に、ハキハキと歯切れのいい女の声がした。 「なんと、悪漢から少女を守って死んだとな! 天晴な男子だ。だが、そうと知れば見過ごせぬし、諦める訳にもゆくまい!」  不意に、お月さまのような少女が「あっ」と声を発した。確か、ラチェルタと名乗った女の子だ。そのラチェルタのぬくもりから引き剥がされ、突然ニカノールは抱き上げられる。  事情を説明しようと目を明けた、その先には。  引き締まった肉体の長身が姫君のようにニカノールを酒場の隅へ運んでくれている。  それは、精悍な顔つきに豪放な笑みを浮かべた、セリアンの女だった。  そう、女……両腰に太刀を穿いた、大柄だが細身の武芸者だ。  彼女は有無を言わさず、奥の長椅子にニカノールを寝かせる。  慌ててニカノールは、事情を説明しようと慌てた気持ちを声にする。 「あ、あの! どうもご親切に。でも、僕は……ええと、どこから説明しようかな」 「わっはっは、面妖な! これも死した無念のなせる技か? ともあれ、安心せよ。私は蘇生術にも自信がある。黙って息を吹き返すまで寝ておれ。なに、任せよ!」 「任せよ、と言われても、って……ちょ、ちょっと!」 「まずは気道を確保し、人工呼吸だな! その後、肋骨が折れるくらい強く心臓に刺激を与える。これの繰り返しだ、抜かりはない! では、いざっ!」  その女は、惚れ惚れするほど男らしい笑顔をしていた。慌てず騒がず、最善を尽くすと決めた潔さがそのまま表情で感じられる。  次の瞬間にはニカノールは、細いおとがいをガシリと片手で掴まれた。  同時に、もう片方の手で整った鼻梁をつままれる。  大きく息を吸い込んだセリアンの女が、唇を重ねようとしたその時だった。  間一髪で助けが入り、先程の二人組が声をかけてくれた。 「ちょいと待った、姐さん。それ、必要かい?」 「見たとこ、訳ありながら……生きてるみたいだけど。極めて不自然な状況だが、間違いない。恐らく屍術師の類じゃないかな? そうだよね、君」  それは、先程自分を一度止めてくれた二人組だ。どちらも冒険者の青年で、竜騎兵と魔術師のようである。名は確か、ナフムとフリーデルだ。  二人は、目を丸くして何度も瞬きするセリアンの女を、すんでのところで止めてくれた。 「なあ、姐さんよう。あんたの肺活量でそんなことしたら……ことだぜ?」 「ナフムの言う通りだね。息を吹き返すどころか、破裂してしまうよ」 「それに、ちょいと訳ありと見たが……おい、あんちゃん。もう起きちまえよ」 「しかし、いい機転だったね。おいそれと真似はできないけど。少し興味が湧いてきたところだよ。君にも、君がそうである理由にも」  それでようやく、ニカノールは女の膝枕から起き上がった。  次の瞬間には、突然豊満な胸の谷間に抱き締められる。武芸者の女は「おお!」と感激に笑顔をことさら眩しくして、ニカノールを両腕で圧殺せんとばかりに抱き竦めたのだ。 「よしよし、生き返ったか! わっはっは、それはよかった! 命拾いしたな!」 「あ、いや……拾えてはないし、もともと死んでるだけだから。でも、ありがとう」 「なに! 気にするな、セリアンの女は義理人情に厚いからな。しかし、こうしてみると生っちょろい奴だな、ちゃんと食べてるのか? 肉だ、肉を食べんといかんぞ!」 「はあ……考えときます」  ようやくニカノールを解放して、女はまきりと名乗った。聞けばセリアンの山都を出てきたばかりで、冒険者として参加するギルドを探しているという。見事に高密度な胸の双丘を揺らして、彼女は豪快に笑っていた。  そして、背後で声が響く。 「お前さんたち、悪かったな……オイラ、助かっちまったぜ」  振り返ると、先程の少女二人組に両脇を支えられながら、吟遊詩人の老人が立ち上がっていた。どうにもぼんやりと覇気のない雰囲気だが、不思議と眼光は鋭い。  そして、ニカノールと目が合うなり、老人はニッカリと頬を崩した。 「オイラは、そうだなあ……確かコッペペってんだ。改めて礼を言うぜ、ありがとうよ」 「確か、って。ええと、コッペペさん? お怪我は」 「なに、どういう訳か身体だけは頑丈でな。んでまあ……へへ、お嬢ちゃんたちにもお礼をしなきゃなんねえ。今時ちょっと見ないいい娘じゃないか」  締まらない笑みを浮かべたコッペペは、ただならぬ気配をニカノールへと伝えてくる。この緊張感のないアースランの男が、不思議とニカノールには油断ならない人物に思えた。同時に、得体のしれぬ奇妙なコッペペの感触は、自分たちに敵意を向けてこない。  心からの感謝が浮かぶ笑みは、次の瞬間にはだらしないニヤケ面になった。 「で……ラチェルタちゃんだったかなあ? うんうん、ありがとよぉ……ほう! これは……うーむ、まあ、将来有望とだけ言っておこうかのう」 「ひあっ! お、おじさん、触った! む、胸っ!」 「こっちの威勢がいいのは、マキシアちゃん。ふむふむ……健康優良児だねえ、発達著しい。最近の若い娘はけしからん、けしからんぞウンウン」 「てっ、手前ぇ! どこ触ってやがる!」  肩を貸してくれる二人の胸を、さりげなくコッペペは触って揉んだ。  そして次の瞬間には、まきりが握った拳を彼の顔面にめり込ませていた。 「二人共、大丈夫か? いけない御老体だなあ、今度やったらぶつぞ?」 「イチチ……ナイスパンチ。もう、ブン殴ってるけどな」 「それは御老体が不埒な振る舞いをするからだろう。なあ?」  同意を求められて、ニカノールは困ったが……とりあえずナフムやフリーデルと一緒に頷く。だろ? と、さらなる同意を求めたまきりだったが、次の瞬間顔を赤らめ飛び退いた。  コッペペは懲りずに、まきりの見事な胸の膨らみにも触れたのだ。 「御老体! ぶつと言ったぞ、ぶつからな! まったく、なにを考えているんだ?」 「いやあ、オイラの国じゃ美人は胸揉め、揉めば美人はさらなる美に恵まれる……そう言われてるのさ」 「なるほど、そうだったか! そうか、私は美人なのか、わはは! やはりか!」 「ああ、だからもう少しいいかね?」 「そういうことならば致し方ないな。御老体、存分に揉まれよ! ……ん? どうしたニカノール。お前も揉むか?」  首を横に振りつつ、ニカノールはまきりを止めた。どうやらまきりは、竹を割ったような性格の快活な若者だが……少し、いやかなり、ちょろい。口先三寸で言いくるめられた彼女を、なんとかニカノールは窘める。  残念そうに手をワキワキさせるコッペペに、改めてニカノールは向き直った。 「で、コッペペさん。そういえば、お国はどちらなんですか? もしや、海を超えてアルカディアへいらしたのでは。少し、この大陸のアースランたちとは雰囲気が違います」 「おお、それな! それが……オイラにも思い出せねえのよ。オイラにわかんのは、千の詩篇と千の恋、合わせて二千の想いが導くままに……気ままな詩人生活ってとこだな」  コッペペは自分が記憶喪失だと語り、やる気は出ないが過去を探しているとも語った。そして、以外にもギルドの設立や運営に詳しい彼のお陰で、ニカノールの冒険者としての暮らしが本格的に始まるのだった。