その青年が見る世界は、彩りを失っていた。  全てがモノクロームに沈む中で、己を支配する諦観。彼は全てが決着したエンドロールの世界を生きていた。そして、それももうすぐ終わる。  世界樹の迷宮へと連れ込まれ、魔物の仕業に見せかけて殺されるのだ。  最愛の人と友とを奪った秘密結社に、復讐を果たした。憎悪の限りを尽くして全てを鏖殺したのだ。今はその代償として、追手に追い詰められて命を握られている。だが、不思議と怖くもないし、命も惜しくない。  復讐で失った者たちは戻ってこないし、なにも得られないと知ったからだ。 「派手にやってくれたなあ? ボウズ……支部が一つ消し飛んだんだ。覚悟できてんだろううなあ? ええ? フォリス・ヴィーニッヒ」  フォリス、それが青年の名だ。  まだ18だが、街で葬儀や慰霊の儀式を請け負う若き屍術師だ。だった、と形容する方が正しいだろう。今や禁忌を犯して外法の術を使い、復讐のために魂を売った抜け殻だから。  だが、そんなフォリスを容赦なく悪漢たちは吊るし上げる。  華奢で小さな身が、ぶらりと力なくぶら下がった。 「へへ、命乞いしてみな? 上手にできたらお情けで娼館にブチ込んでやる。死ぬまで組織のために稼いでもらうからな! だが、その前に……ヘヘヘ」 「おいおい、悪趣味なことはよせ」 「兄貴の言う通りだ。さっさと始末してずらかろう。地下一階とはいえ、ここは世界樹の迷宮……なにが起こるかわからないんだ」  フォリスは暗く濁ったジト目で周囲を見渡す。  男の数は五人、皆が武器を携えた組織の人間だ。アイゼンクロイツとかいう、アルカディアこそが世界の頂点と謳う狂信者たちである。  だが、もうフォリスには興味はない。  ただこのまま、愛する者たちの元へとゆくだけだ。  そう思っていたのだが、ふと気がかりがあった。  自分を囲む男たちの向こうに、細い影が立っている。長身で顔を頭巾とマフラーで覆っている。褐色の肌もあらわな痩身は、大きな鎌を手にしていた。どうやら雇われた用心棒のようで、武器から察するに闇狩人だ。  酷く冷たい紫陽花色の瞳が、じっとフォリスを見詰めている。  不意に物音がしたのは、そんな時だった。 「マスター! アタシです、ノァンです! 助けに来たですっ!」  誰もが振り向く視線の先に、小さな女の子が現れた。  頭からすっぽりボロ布を被った少女を、フォリスは知っている。ノァンと名乗った彼女は、フォリスと複雑怪奇な縁を結んだ者だ。自分をマスターと呼ぶ彼女こそが、嘗て愛した人であり、その愛を祝福してくれた友であり、その全てが過去形となった末の産物だった。  ノァンは悪漢たちに囲まれたフォリスを見て、あうあうと焦りも顕に駆け寄ってくる。 「ようやく見つけたです、マスター! アタシ、あの、酒場がギルドでお金が女の子だったです! えと、かわいい女の子がお金をくれて、それで、えと、んと」 「ああ? なんだこのチンチクリンは」 「おう、小僧。ありゃお前のなんだ?」  騒がしくなる男たちの中で、屈強なセリアンが弓を構えた。腰の矢筒から矢を抜き放ち、それをノァンへと向けて狙いを定める。  だが、フォリスは動じず無気力に吊るされたままだ。  無駄だと知ってるからだ。  ノァンを殺せる者など、この世に存在しない。  そのことを知らぬまま、男の弓が弦を歌わせる。 「貰ったお金で、酒場のボウケンシャーに助けてもらおうとしたです! そしたら、ちょうど女将さんの仕込んでた肉煮込みが仕上がってて、美味しくて、おかわりして、その」  ストン、と苦もなく矢がノァンの胸に突き立った。  だが、彼女はたどたどしい言葉を並べてそのまま歩み寄ってくる。  悪漢たちの空気が一変した。  セリアンの大男は、二度三度と続けて矢を射る。  全て命中するが、ノァンはゆらゆらと歩いてきた。  矢を射る者の数が増え、ついには少女の眉間を矢が貫く。 「あやや? んと、これは……マスター、大変です! アタシ、攻撃されてるです!」 「な、なんだこの餓鬼ぁ!」 「まて、様子が変だ……妙だぜ、何故死なない!」  全身に矢を生やしたまま、ノァンは男たちの目の前まで来た。  翠の右目だけが、不思議そうになんども瞬いている。 「マスター、この人たち! マスターと一緒にアタシもナキモノにするつもりです! ナキモノにするつもりがアルモノです! ……アタシ、やっぱり一人でも……マスターを助けるですっ!」  あの日、あの夜……復讐を成し遂げた瞬間にフォリスはノァンに言った。  もう、決して力を使ってはいけないと。  力を使わせた自分に恥じ入り、無垢で無邪気なノァンの純真さが眩しかったから。  だから、フォリスは己の誓った。  もう、二度とノァンを戦わせまいと。  だが、ずっと言いつけを守ってきたノァンは今、むー! と小さく唸っている。  男たちが気圧される中、子犬のように凄むノァンが一歩前へと踏み出した。  その瞬間、抑揚に欠く平坦な声が冷たく響いた。 「……人が来る。五人、恐らく冒険者だ」  先程の闇狩人が、喋った。  その声で初めて、彼女が女性だとフォリスは気付いた。  だが、少し自信がない。  少年のようにも聞こえたし、少女のようでもあった。そして、そのどちらとも思える身体は異様に細く、肉がほとんどついていない。  ゆらりと幽鬼のように、彼女は手にした鎌を持って歩み出る。  怖気づいて振るえる男たちを尻目に、全く動じず両手で武器を構えた。 「あっ、ああ! そ、そうだっ、お前が始末しろ!」 「高い金を払ってるんだ、掃除屋! さっさとしな!」  やはり、男たちに金で雇われた者らしい。  だが、その身から迸る冷たい殺気は尋常ではない。まるで、フォリスの目の前に凝結した闇そのもののよう。それは人の姿を象りながら、無防備にノァンに近付いてゆく。  ノァンは隻眼をぱちくりと瞬かせながら、小首を傾げて動かなかった。  そして、さらなる声が連なり……訪れる者もない迷宮の一角、行き止まりの小部屋が騒がしくなる。現れたのは五人組の冒険者だ。 「あれ? えっと、こんにちは? で、いいのかな……ねえ、ナフム。彼らは――」 「ッ! ちょっと下がってろ、ニカ! ……どう見ても堅気じゃないぜ。それに」 「あーっ! あの子、さっきボクがお財布あげた子だよ! ほらっ!」  やけに色白な優男の屍術師に、不敵な面構えの竜騎兵、そして金髪を揺らす少女剣士だ。背後には祈祷師と魔導師が既に臨戦態勢で身構えている。  どうやら彼らは、まっとうな冒険者らしい。  おおかた、アルカディア評議会から冒険者の試験を言い渡されたのだろう。  だが、それもどうでもいいことだった。  同時に、少しホッとしている。  こちらを見てしきりに瞬きしている同業者は、酷く頼りないが不思議と気が許せる雰囲気だ。ルナリアには珍しく、フォリスはアースランの街で育ち暮らした男だ。人となりは少し見ればわかるし、わかる以上に感じるものが目の前の屍術師にはあった。  彼なら、ノァンを助けてくれるかもしれない。  そう思えたら不思議と、安心した。  死ぬ覚悟ができたし、ずっと前から諦めていた自分にも踏ん切りがついた。  だが、フォリスのささやかな望みを、無慈悲な裁断者が千切って斬り裂く。 「冒険者よ、なにも言わずに去れ。……このようになりたくなくばな」  闇狩人の少女が大鎌を奮った。空気を断ち割る一閃が突き抜け、遅れて吹き荒れた風が吼える。  そして、フォリスの目の前で……ぱたりとノァンが倒れた。  その首が、ころりと地面に転がっているのを見て、初めてフォリスは絶叫を迸らせた。