華やいだ夜を、突然の悲鳴が引き裂いた。  煮えた鍋の載るテーブルから、誰もが背後を振り返る。  そこでフォリスが見たのは、逃げ惑う娼婦達だった。  そして、大柄な男の二人組が店に入ってきた。片方は既に、腰から剣を抜いている。どちらも泥酔しているようで、赤ら顔に目が据わっていた。  招かれざる客であることは明らかだった。 「また来てやったぜ、女共ぉ! ヒャヒャヒャ、よりどりみどりだぜ! ヒック!」 「おいおい兄弟、そのダンビラをしまいな。みんな怖がってるだろうが、へへへ!」  すかさずメルファが女達を下がらせ、強面の前に躍り出た。  なりは小さくとも、彼女はこの夢見の夜魔亭ではちょっとした顔のようだ。誰もが「姐さん!」「メルファさん!」と心配そうに声をあげる。  だが、華奢な矮躯のブラニーは、安心させるような笑顔で一度だけ振り向いた。  そして、毅然と悪漢達を見上げて声を張り上げる。 「なんじゃ、お主等! 女を抱きたいなら行儀ようせい。見たところ、冒険者じゃな? 夜の花街で無粋を働けば、勇敢な冒険者の名が泣くぞ? のう?」  腰に手を当て、睨むようにメルファが上目遣いで両者を見やる。  だが、男達は互いに顔を見合わせて下卑た笑みを浮かべた。 「へへっ、オチビちゃんよぉ……毛も生え揃わねえうちからなに言ってやがる」 「まあ待て、兄弟。生えてるかどうかはホレ、確かめてやろうじゃ、ない、かっと!」  不意に男は、自分の半分しか身長のないメルファの手を取った。そのまま吊り上げて、今度は両足を持って逆さまにする。必死でメルファは股間を手で守ったが、薄いドレスがまくれて下着が顕になった。  周囲が慌ただしくなる中で、すぐに動いたのはナフムとフリーデルだ。  冒険は勿論、こうした遊郭や酒場でも彼等は賢明で、その上判断力を活かす機知に富む。そのことをフォリスは信用していたし、まだ鍋を食べていたニカノールとノァンも一緒だ。  ナフムとフリーデルは、そそくさと周囲のテーブルを腋へと寄せる。  自分では行かず、まるで誰かのために場所を作っているようだ。  そして、二人がこの場ではでしゃばらない理由が声を上げる。 「お客様、失礼ですが……お戯れも程々にお願いできないでしょうか」  静かに染み渡るような、どこかハスキーなのにしっとりとした声だ。  誰もが振り向く先に、一人の麗人が立っている。  先程までカウンターでシェイカーを振っていたバーテンダーだ。黒いズボンに白いシャツ、そしてサスペンダーをしている。くびれた腰が目立つ程にスレンダーで、すらりとした長身もあってとても美しい。  彼女は静かに歩み寄る。  なんの武器も持たずに、物憂げな微笑を湛えたまま。  その姿を見て、宙吊りのメルファが声を上げた。 「ヨスガ、やりすぎてはいかんぞ! こやつら、ワシに酷いことする気じゃが……薄い絵草紙がアツくなるようなことする気じゃが、やりすぎてはいかん!」  メルファの妄想癖はともなく、美貌のバーテンダーはヨスガというらしい。フォリスはその痩身を見やって、常人では気付かぬ骨格レベルでの違和感に気付いた。屍術師は日頃から、老若男女を問わず死体に関わる職業である。だから、ニカノールもフォリスと同じ結論に達したようだ。  そんな周囲をよそに、ヨスガは暴漢へと歩み寄る。  片手でメルファを吊るす男は、もう一方の手で握る剣を突き付けてきた。 「ようよう、ねーちゃん! 下んな。今日はちょいと気分が荒れてんだよ! クソッ!」 「そうでしたか、お客様。それでしたら是非、このままうちの売れっ子を下ろしてお帰りください。少々悪酔いしてるようですし」 「ケッ、涼しい面しやがって! それともなにか? ねーちゃんが俺の相手してくれんのか? ああ?」 「それは困りますね。私、こう見えても面食いですので」  静かに微笑むヨスガへと、向けられた剣が振り上げられた。  だが、次の瞬間……店内の空気が風となる。  そして、フォリスは目を疑った。  高く高く蹴り上げたヨスガの脚線美が、男の剣を天井へと突き刺していた。そのまま片足で、全く微動だにせず彼女はニコリと笑う。 「さ、お帰りください。さもなくば……次は貴方自身が天井に突き刺さりますが、それでもよろしいですか?」 「てっ、手前ぇ……この女ァ!」 「……申し訳ありませんが、お客様。私は男です。それでは……ごきげんよう」  フォリスも皆も、耳を疑った。彼女ではなく、彼だった。そして、続いて目を疑う。両手を振り上げヨスガに掴みかかろうとした男は……そのまま鞭のようにしなる蹴りで側頭部を薙ぎ払われた。  ようやくフォリスは、ナフムとフリーデルが周囲を片付けた訳がわかった。  彼等二人が出しゃばらずとも、この娼館には用心棒がいたのだった。  だが、安心を許さぬ撃鉄の音が響く。  もう一人の男は、銃を握ってヨスガへと突き付けた。 「男かよ……クソッ、やってくれたなあ! ええ!」 「……おやめください、お客様。ご友人と帰ってはいただけないでしょうか?」 「るせぇ! へへ……手前ぇの蹴りと俺の銃、どっちが速いか試してみるかい? その長い脚に風穴あけて、立ってられねえようにしてやる」  男は酔いも手伝って、気が立っている。  だが、その時フォリスの中でなにかが熱く弾けた。  酒の酔いと、命を軽んじる輩……それは彼の中で、忘れられぬ惨劇の夜を思い出させた。その時にはもう、ゆらりとフォリスは二人の間に割って入る。 「……命を、軽々しく……俺の、前で! 人の命をなんだと思ってやがるっ!」  誰もが驚いただろう。フォリスが激して大声を張り上げるなど、ノァンだって見たことがないのだから。だが、普段から無気力でぼんやりしていた青年は、肩を震わせ拳を握っていた。  そして、悪漢の背後で静かに声が響く。 「双方、それまで。そこの御仁、銃をしまわれよ。……はて、ここは宿と聞いて来たが面妖な。酒場の給仕達が、いささか煽情的に過ぎる。なんと恐ろしい誘惑か」  そこには、旅装の三度笠を脱ぐセリアンの青年が立っていた。周囲を見渡し驚きに目を丸くしながら、彼は再び男を見据える。まるで貫くような視線は鋭く、それでいて澄んで透き通っていた。 「なんだぁ? 手前ぇもくだらねえこと言ってんじゃねえぞ! なんのつもりだ!」 「拙者、河上虎狼介直房にて候。一晩の宿をと思い……なれど、変わった宿ですなあ。あ、いや、とにかく銃を収めていただけませぬかな?」 「……おうこら、舐めてンのかあ! ここがどこだかわかってねえようだな」 「旅籠でござろう。今夜はこちらに逗留し、明日にもアルカディア評議会へと――!?」  銃声が走った。  そして、フォリスは絶句した。  その場の誰もが言葉を忘れ、呼吸をも失った。  ただ、脳天気にノァンだけが手を叩いて、それがニカノールの拍手を呼ぶ。あまりに突然の早業に、気付けば娼婦達もあんぐり口をあけたまま喝采を浴びせていた。 「てっ、手前ぇ……」 「ふむ、絵巻物や寝物語のようにはいき申さん……やはりあれは、架空の創作ということでござるか。本来ならばこう、弾丸は真っ二つとなりて拙者に当たらぬ筈だが」  突然現れたセリアンは、腰の太刀を抜き放っていた。  それはフォリスには見えず、ヨスガやナフム、フリーデル達も同じようだ。  そして……発砲と同時に彼が切り払った銃弾は、後ろの柱で煙をあげていた。かなりの腕の武芸者、剣の達人だ。彼は銃弾が掠めて血の滲んだ頬を指で拭うと、何故か丁寧に悪漢に説明を始めた。 「お主が撃つ、そして拙者がこう……そう、銃弾に対して刃を立てて斬る。さすれば、弾丸は見事真っ二つ! ……というのを書物で読んだが、いやはや難しい!」 「……な、なにもんだ……ッ! こ、今夜はこの辺にしておいてやらあ! 覚えてろよ!」  男は仲間を抱え上げるや、一目散に逃げていった。  それを見送り、武芸者の青年はニコリと清々しい笑みを浮かべる。そして、先程のヨスガの蹴りで放り出され、床に転がっていたメルファへ歩み寄って膝をつく。 「こちらがこの宿の女将か? 部屋を頼む。賑やかだがいい旅籠のようだ、活気が心地よいな。やはり、大きな街の宿ともなれば凄いものだ。部屋は空いてるかな? 女将」 「え、あ、お、おう……空いておるぞ、ガラ空きじゃが……ここがどういう宿かしっておるか? 雄武家様」 「旅の疲れを癒やす旅籠でござろう。一宿一飯、世話になるぞ、女将!」  それが、馬鹿真面目過ぎて馬鹿な武芸者、河上虎狼介直房……通称コロスケとの出会いだった。そしてフォリスは、背後で目を輝かせるノァンへと振り返る。  ノァンは、先程見事な体術を見せたヨスガをじっと見詰めているのだった。