その日、ジェネッタの宿を重苦しい空気が包んでいた。  夜になっても、陽気に食堂で騒ぐ冒険者達はいない。昼間の騒ぎを知るからこそ、誰もがネヴァモアとトライマーチ、二つのギルドを気遣った。  毎日がお祭り騒ぎだった、その賑やかさとは縁遠い静かな夜。  ラチェルタはずっと、ノァンがフォリスと使っている部屋の前で待った。  中からノァンの鳴き声だけが途切れ途切れに聴こえてくる。  ドアの向かいの壁に寄りかかって、ラチェルタはただ待つしかなかった。そんな彼女へ、心配そうな声がかけられる。 「なあ、チェル。どうだ? ノァンの奴」 「チェル、軽いものだけど食事を持ってきたわ。貴女も食べなきゃ駄目よ」  顔をあげると、マキシアとレヴィールが並んでいた。その向こうには、大人達の顔もちらほらと見える。誰もが皆、ノァンのことを心配しているのだ。  特にニカノールは、フォリスが一命こそとりとめたものの重傷で、一人で責任を感じている。それでもこの場に顔を出して、仲間達と一緒にノァンを待っていた。彼の正直な気持ちが、静かな廊下に零れ出る。 「僕が、いけなかったんだ……まさか、こんなことになるなんて」  だが、すぐに左右でナフムとフリーデルが同時に背を叩く。  びっくりして一瞬飛び跳ねたニカノールへと、二人は言い聞かせるように言葉を並べた。  まるで、兄と兄とが交互に弟を慰め窘めるような、そんな声音だった。 「自惚れんなよ、ニカ。お前はそんなに万能じゃねえし、誰だってそうだ」 「むしろ、チェル達をちゃんと守った。君も、ノァンと一緒に仲間を守ったんだよ」 「で、でも……」  ニカノールは言葉に迷いながらも、ドアの前に立つ。  勿論、中のノァンからは言葉はない。  静まり返った中、ニカノールは自分の中に言葉を探していた。そして、言いかけては口を噤み、また何かを言おうとして戸惑い悩む。  この場の誰もが、ニカノールと同じく何かを探していた。  全身の縫い傷よりも大きく深く、無慈悲に斬られて傷付いた少女への慰めを。  そして、最初に口を開いたのは……以外にもまきりだった。 「……よし! これは、肉だな!」  振り向く全員が目を点にしたし、ラチェルタもマキシアやレヴィールと「お、おう」と怯んだ。だが、大股でドスドスと歩いて、まきりはニカノールの手を握る。そして、そのまま階段の方へと歩き出した。  察したのか、肩を竦めつつフリーデルとナフムも続く。 「あ、あの、まきり。ノァンが」 「ああ! つまり、肉が必要だ! ニカ、ちょっと大市まで付き合え。安心しろ、わたしがいい精肉店を知っている。財布も気にするな、わっはっは!」 「ま、フォリスの看病で付きっ切りの奴もいるしな」 「そういうことだね、ナフム。キリールやエランテにも夜食が必要だろう」  豪快な笑いを響かせ、ニカノールを強引に連れ出しまきりは行ってしまった。  ナフムとフリーデルが一緒だから、多分大丈夫だろう。  こういう時、大人の人って凄いなあとラチェルタは思った。多分、自分だって心配で落ち着かないだろうに……それでも、あの人達は自分より他者を気遣うことができるのだ。  そう思ってたが、そうでない大人もいた。  酒瓶を片手に、コッペペだけがいつもの調子で手酌酒だ。  この場所に顔こそ出したものの、なにも言わずに酒を飲んでいる。  ラチェルタの視線に気づいたのか、彼はこちらを向くとぼんやりと笑った。 「チェル、どした? 辛気臭い顔をしてるぜ。オイラまで暗くなっちまわあ」 「コッペペ、ノァンが心配じゃないの?」 「んんー? まあ、見ての通りだ。それなりに心配だわなあ」 「なにかないかな、ノァンにしてあげられること。ボク、こんなの初めてだよ」  だが、赤ら顔でコッペペは笑うだけだ。  そして、誰にともなく呟く。 「まあ……こういう時は気持ちに浸かり過ぎちゃ駄目なのよ。悲しくて切なくて、そういう気持ちで暗くなっちゃあオシマイさ」 「……そう、なの?」 「ああ。だからチェル、いつも通りでいいのさ。ノァンがまたいつも通りになったら、こっちもいつも通りでいてやらないと悪いだろう? 悲劇と悲観は程々に、ってなあ」  レヴィールがゴホン! と咳払いをすると、コッペペはいそいそと退散した。  見送るマキシアもやれやれと首を横に振る。  だが、なんとなくラチェルタにはコッペペの言葉が気になった。  いつも通りでいてやること……それが今、悲しみに暮れるノァンのためになるというのなら。もしそうなら、いつものラチェルタというのはどんな女の子なのだろう? 「ねえ、マキちゃん! レヴィも! ボク、いつも通りだとどんな感じ? 考えてみても、よくわかんないんだ……ボクってどういう娘なんだろ」  戸惑うままに躊躇なく、素朴な疑問を友人達へとぶつけてみた。  すると、マキシアとレヴィールは顔を見合わせ小さく笑う。 「考えてみたって、よぉ……チェル。そりゃお前、駄目だろ」 「そうね。いつものチェルなら考える前に……とっくに飛び出してるもの」  その言葉に、不思議と胸の奥が熱い。  こみ上げる不思議な感情に、ラチェルタは自分を思い出した。というよりは、悲しい気持ちを引っ込めることができた。ノァンが心配だけども、一緒に泣いてやることはできない。こうして落ち込んでいても、どうにもならないのだ。  そう思ったら、手が勝手に目の前のドアノブを掴んでいた。 「そだね、マキちゃん! レヴィも。ありがと! ……ノァン、入るね!」  驚く友人二人を他所に、ラチェルタは部屋の中に入った。  真っ暗な中で、二つ並んだベッドの片方がもぞもぞと動いている。  そっと駆け寄って、ラチェルタは小さな声で語りかけた。 「ノァン? ねえ、ノァン。さっきはありがとね。ボク達を、守ってくれたんだよね?」  返事はない。  すすり泣く声と一緒に、毛布の中から双眸が光って揺れる。  涙に濡れた赤と緑の瞳が、瞬きもせずにラチェルタを見詰めてきた。  まるで、奈落の深淵を覗き込んでいるようで、少し怖い。  だが、悲しみにくれているのは間違いなく、ラチェルタ達が大好きなノァンなのだ。  そしてラチェルタは、背後でマキシアやレヴィールが息を呑む気配を置き去りにする。 「ね、見ててねノァン! ちょっと凄いんだよ、ボク」  言うが早いか、ジタバタとラチェルタはシャツを脱ぎ、部屋着のハーフパンツも蹴り飛ばす。下着姿になった彼女は、薄闇の中で自分を見渡した。  起伏のささやかな胸に、細い腰、そして一生懸命鍛えた手足。  ちょっと痩せ気味の、少年みたいな自分をラチェルタはベッドの前に押し出した。  慌てて部屋に入ってきたのはレヴィールで、それを止めたのはマキシアだった。 「チェル、待って! よく、考えて。マキ、チェルを止めてあげて」 「レヴィ、そいつぁ無理だな。……自分でも無理だって思うだろ?」 「無理だから貴女に頼んでるの。お願い、それだけは駄目だわ」 「レヴィはいつも、チェルのこと守ってくれるもんな。だったら、オレはいつも通りチェルの背中を押すだけさ。そうして今までつるんできたんだ、チェルはうまくやるぜ!」  説得力ゼロの言葉を強気に紡いで、マキシアがレヴィールを一歩下がらせた。  そして、深呼吸と同時にラチェルタは静かに己の姿を解き放つ。  母親に似た美貌に、父親から受け継いだ異形の姿を浮かび上がらせる。 「ねね、ノァン。ボクを見て……みんな一緒、誰でも秘密ってあるんだよ?」  その時、窓から月明かりが差し込んだ。  そして、涙に濡れたノァンの目にも見えた筈だ。  光り輝く鱗に、鉤爪の光る足。そして長く伸びてゆるゆると揺れる尻尾。まるで月の光を纏ったかのような、黄金の鱗と甲殻。それは、ラチェルタの少女としての姿を損なわぬまでも、完全に人ならざるシルエットとして浮かび上がらせた。 「あのね、ノァン。ボク、パパが人間じゃないんだ。難しい話なんだけど、錬金術? そゆので造られた人造生命なんだって。姿も形も人間になるけど、そうじゃない時も多いよ?」 「……あれ? あれれ、チェル? チェル! どしたですか! 足! 尻尾も!」 「うん。どう? 結構綺麗だよね。パパ譲りなの。ノァンに一番最初に見せたげるね」  もそもそと毛布を脱ぎ捨て、ベッドの上にノァンは身を起こした。  素っ裸の彼女が、月の光を小さく反射するチェルに照らされる。白過ぎる肌には今、縦横無尽に縫い傷が乱舞していた。  そんな自分の姿も忘れて、ノァンはチェルに駆け寄り、抱き締める。 「チェル、わかったです! アタシもう見たです! 隠さないと駄目です……チェルはせっかく可愛いのに、ばれたら大変が危ないです!」 「ううん、平気だよ? ボクもノァンも、誰も嫌いになんかならないから。ね、ノァン……泣き止んで? フォスがね、喜怒哀楽が高まり過ぎると傷がうっ血しちゃうんだって」 「マスター……マスターは! マスターは無事ですか!?」 「今、薬で寝てる。大丈夫、キリールとエランテがついてる」  あわあわと慌てながらも、自分の傷よりラチェルタの鱗を隠そうとノァンは必死だった。そんな彼女の頬に触れて、ラチェルタはいつもの無邪気な顔で微笑む。 「悲しい気持ちをね、一杯一杯、いーっぱい! 沢山溜め込むとね……浸り過ぎて抜け出せなくなっちゃうんだ。だからね、ノァン。見て、知って。ボクも一緒、みんなも一緒だよ」 「チェル……で、でも、アタシはチェルみたいにピカピカの綺麗なのじゃないです」 「フォスが縫ってくれたんだね、この傷……沢山、沢山あるね。でも、全部フォスがノァンのために縫ってくれた傷だよ? 沢山悲しかったけど、フォスはノァンを必要として生み出し、今は悪い人と戦うだけじゃないノァンでいて欲しいって、そう思ってるんだよ」  察したように、後ろでレヴィールが「そ、そうよノァン」と歩み出た。  だが、薄明かりの中で全裸のノァンを見て、レヴィールは絶叫した。  勿論、傷だらけの死体人形に驚いた訳ではない。 「ちょ、や、やあああああっ! なにもう、ノァン! ちょっと、その、あ、あれを……ちが、それ! それを隠して!」 「あ、そだね。ごめんね、ノァン。レヴィ、全然耐性ないから。ノァンの傷なんかより、裸の方が気になるかも。だってノァンも、ふふ」  ノァンは七人の死体を継ぎ接ぎして造られた。  そのため、男女が入り混じっており、男でありながら女で、女のまま男なのだった。  レヴィールは温室育ちのお嬢様故に、しきりに目を隠して震えている。  だが、彼女はそっと指と指の隙間からノァンを見て、その場でジタバタと飛び跳ねた。 「ノッ、ノァン! 貴女ね、傷なんて騎士には勲章だし、誇らしいものだわ! ノァンはきっと、フォスに望まれ生まれたんだから、その傷だってそういうものでしょう!」 「そうだぜ、ノアンッ! それにっ、見ろ!」  マキシアまでババーン! と下を全部脱いだ。  意外にも、彼女もノァンと同じ躰をしていた。 「オレだってそれくらいのもの、ぶらさがってらあ! それに、古傷ならナフムの兄貴だって負けてねえぜ! まきりの姐御もすげえしな! みんな一緒、一緒だぜ!」 「マキッ、ちょ、もぉ! やあね! 二人共隠して、その、ええと、とにかく!」 「なんだよレヴィ、今更上品ぶるなって。昔はチェルと一緒に三人で風呂に入ったろ?」 「う、うう……見てしまった……連続で。私、お嫁にいけないわ……」  よろよろとレヴィールはよろめきつつも、おぼつかない足取りで去っていった。  その背を見送り、ラチェルタはノァンと笑顔になる。  そしてやっぱり、マキシアと一緒にドヤ顔になってしまう。  人ならざる父を持ち、異形の半身を持つラチェルタ。  人ならざる母を持ち、両性を併せ持つマキシア。  二人はようやく肌の傷が薄れて消えるノァンを挟んで、安堵の表情で笑うのだった。