冒険者達がついに、世界樹の第一階層である鎮守ノ樹海を突破した。  そのニュースは、アルカディア全土を駆け巡った。シドニアの塔都市ではルナリア達が古文書を紐解き、セリアンの山都では腕試しにと多くの若者が旅立つ。草原を行き交うブラニー達は、叙事詩が歌う風に商売の匂いを感じていただろう。  多くの者達が今、アイオリスへと集まり始めていた。  闇狩人のバノウニ少年もまた、そんな冒険者志望の若者だった。  だが、彼が冒険者ギルドを経て紹介されたのは……とんでもないところだった。 「えっと……え、何これ。え? 何これ怖い」  面通しした上で加入してほしいと言われたギルドは、ネヴァモア……そう、あの第一階層を突破したギルドだった。  喜び勇んでジェネッタの宿に来たバノウニだが、混乱してた。  彼も混乱していたし、彼をギルドマスターと合せようとする者達も混乱していた。  バタバタと周囲が落ち着かない中で、バノウニはぽつねんと食堂にいる。  周囲では、ギルドメンバーや同業者などが慌ただしかった。 「フレッド、俺がもう一度探して来るしかねえ! ったく、あいつはもぉ!」 「待ちなよ、ナフム。突っ走り過ぎても駄目さ。それより」 「左様。コッペペ殿を通して街を探しており申す。ノァン殿もいないので、恐らく二人は一緒かと」 「しかし、困りましたね。周囲で感じ取れる範囲に、ニカノールさんの匂いはありませんし」  盲目の香草師が言うように、ギルドマスターのニカノールが不在らしい。これでは面接してもらえないと、バノウニは溜息を一つ。  時刻は既に日も暮れて、夜の帳に宿屋も静かだ。  夕食時を終えた食堂も人影はまばらである。  そんな中、バノウニの前に座る女性が微笑み語りかけてきた。 「バノウニ様、お茶のおかわりはいかがですか?」 「あ、すんません……じゃあ、もう一杯だけ」  とても綺麗なルナリアの少女だ。  吟遊詩人を志しているバノウニから見れば、神話や伝説の物語から飛び出してきたかのような女の子である。年の頃は同じくらいか、ちょっと上か。細身で柔らかなシルエットは、まるで硝子細工のように儚げでもある。 「あの、ワシリーサさん」 「ふふ、ワーシャって呼んでくださいな。それにしても、ニカ様は遅いですわね」 「え、ええ……」  喋る一言が、その一字一句が歌のようだ。  そんなワシリーサの声を聴いていると、どうしようもなくバノウニは気が重くなる。ワシリーサは悪気が無いどころか、善意と良心に満ちてる上に気遣いができる娘だ。多少浮世離れしてる雰囲気はあるが、そのことすら彼女を飾るレースの一枚に感じる。  だが、バノウニはその美しい声が自分を呼ぶ度に、思い知らされた。  空気を震わす喉の働き一つで、こうも人を落ち着かせることができるのかと。  妙な老人がやってきたのは、そんな時だった。 「へへ、確か……ワシリーサちゃん、だったなあ。ワーシャちゃんでいいか?」  白髪交じりの男が、締まらない顔で二人のテーブルに腰掛けた。椅子を少し引いて足を組むと、その上にリュートを乗せてニヤリと笑う。  腰には大型の拳銃がぶら下がっていて、彼が竜騎兵だとすぐに知れた。  老人はコッペペと名乗り、暇しちゃ悪いと笑って歌い出した。  そして、バノウニは驚きに目を見張る。  パッとしない風体の老人が語るだけで、羊皮紙に封じられた物語が詩篇となって蘇った。まるでその場にいるかのような臨場感で、コッペペは朗々と叙事詩を語り出す。  驚き瞳を輝かせるワシリーサに笑って、男はちらりとバノウニを見た。 「何やってんのよ、お前さん。いいから手伝いなさいって。こんな美しい御婦人をだなあ、退屈させたらいけねぇぜ? それともなにか……お前さんの相棒は飾りかい?」  老人が髭面で顎をしゃくる先に、バノウニのギターがあった。  手荷物は武器の大鎌と、相棒のギター、それだけだ。  おずおずと言われるままに抱えると、再びコッペペの独演が始まる。遠い国の世界樹の物語だ。辺境の田舎に、北方の雪国に、そして南洋の孤島に閉ざされし大地……まるで見てきたかのように彼は歌い、その場に居合わせているかのような体験をもたらしてくれる。  気付けばバノウニは弦を爪弾き、主旋律へと自分の音を重ねてゆく。  深みを増してゆく旋律の中、完全にバノウニのギターは調和を奏でていた。  そして、コッペペの歌が終わるとワシリーサが手を叩く。 「凄い……素晴らしかったですわ、おじ様。バノウニさんも、とても素敵」 「へへ、光栄だね。さ、オイラの番は終わりだ……次はお前さんが歌いな」  コッペペがニヤリと笑う。  だが、言葉に詰まってそっとバノウニはギターを手放した。  吟遊詩人を目指して夢見た自分だからわかる……この老人は、本当に経験を重ねた本物の歌い手だ。では、自分は? 技術も教養もない上に、呪われた声で歌はウシガエルのようだと言われたこともある。  自信を育めるだけの体験を、今まで一度も体験したことがなかった。 「俺は、その、駄目ですよ……声が、呪われてて。あの! 本当なんです! うちの家系が呪い師の古いやつで、俺は小さい頃は知らずに色んな練習を、特訓をさせられてて」  だが、ワシリーサとコッペペは顔を見合わせて笑った。 「でも、バノウニ様が歌うのは、歌いたいからですわ。そして、ワーシャはその歌を聴きたいです」 「呪いなんざ、願いと表裏一体さ。なら、ひっくり返してみな? それはお前さんがやらにゃ、喉も歌も泣いちまう。かわいそうだろ、そりゃ」  わざわざ泣き真似をしてコッペペがおどけていた、その時だった。不意に周囲が慌ただしくなって、玄関の方から人影がやってくる。多くの冒険者達に囲まれて、どうやらギルドマスターがお帰りらしい。  すぐに立ち上がったのはワシリーサだ。  彼女は確か、婚約者に会いに来たと言っていた。  そして、あとを追ったバノウニは目撃した。  美貌の麗人に肩を化されて歩く、酔っ払って千鳥足の青年を。  彼は間違いなく、冒険者ギルドで紹介されたネヴァモアのギルドマスター、ニカノール・コシチェイその人だった。  最悪だと思った。  修羅場になると感じた。  長い旅路の果にワシリーサが見たのは、泥酔して女に肩を貸された許嫁。  酷い話だ。  だが、面白い。  歌になるなとつい思ってしまった。 「あの、ニカ様……まあ! どなたかは存じませんが、ニカ様をありがとうございます。この御礼は必ず」 「いえ、お気になさらずに。ニカ様は私のお店によく通ってくださる大切なお客様、それだけです。それに……私は男ですので」  は? と思わずバノウニは声に出てしまった。  バーテン風の女は、否……女にしか見えない男は、ワシリーサへとニカノールを差し出す。そして、逆の手で小脇に抱えていた女の子をも下ろした。  そう、女の子だ。  それも、やたら発育のいい肌が真っ白な、ちょっと不気味な美しさの少女である。  一難去ってまた一難、修羅場TO修羅場!  正直バノウニは喉を鳴らして状況を見守った。 「ムニャニャ……ふあ? あれ、宿です? ニカ、帰ってきたですか! あれれ?」 「あの、あなたはニカ様の」 「んあ、アタシはノァンです! ニカと毎晩夜遊びしてるです。今日はブイヤベースというのがあって、それを一緒に食べてお酒飲んだです! ブイヤって魚をベースにした、とーっても美味しい鍋だったのです!」 「まあ……ノァン様、いつもありがとうございます。ふふ、ニカ様のこの寝顔……本当に楽しんでらしたんですね。まるで子供のよう」 「アタシも凄く楽しかったです! えと、おねーさんも今度ブイヤベースを食べるです!」  バノウニは面食らった。  隣でコッぺぺがニヤニヤしていても気付かない。  何この超展開、何なの? 何それ怖い。時々古い神話や伝承を紐解き、神代の昔に残った逸話を「まじかよー」「うそくせー」「ありえねー」なんて思うことが沢山あった。それもまた面白さだと思うから、凄く好きだった。  だが……事実は小説より奇なり。  それは、バノウニがアイオリスの街で初めて学んだ貴重な経験だった。  彼が呪いを脱するという願いを祈り始めた、祈りを力に変えて進み始めた瞬間だった。