世界樹の迷宮、第二階層……奇岩ノ山道。  世界樹の内部にあって、青空が広がる岩場が続く。傾斜も急で整地もされておらず、訪れる者の少なさを無言で物語っている。屋外のような開放感があるが、間違いなくここは魔物が行き交う世界樹の迷宮なのだ。  少し重い頭に手を当てながら、改めてニカノールは感嘆の溜息を零す。  彼が少し憂鬱なのは、これから始まる冒険の困難さだけが原因ではない。 「ワーシャ、こっちです! 何だか崖の上に革袋があるです」 「まあ……どなたかの忘れ物でしょうか」 「アタシ、登って取ってくるです!」  今日も今日とて、ノァンは元気爆発だ。  昨日、一緒にブイヤベースを食べながら痛飲したのに、しこたま元気だ。  そして、そんな彼女の傍らに可憐な少女が微笑んでいる。  ニカノールの婚約者で、ワシリーサというらしい。  断言できないのは、そもそも出会った記憶がどうにも曖昧だ。  そして、はっきり彼女の存在を知ったのは……ベッドで目覚めた時だった。  それでニカノールは、ちょっと凹んでいるのだ。  左右からナフムとフリーデルが、呆れた様子で小突いてくる。 「なあ、ニカ……お前さんの許嫁だろ?」 「かわいいじゃないか。顔もいいが、器量良しってやつだな。おひさまみたいな娘だ」  完全な他人事なので、二人共言いたい放題だ。  そして、間違ったことは言ってないしニカノールも同意である。  ワシリーサは自分にもったいないくらいの素晴らしい女の子なのだ。  そのワシリーサが、あれよあれよという間に冒険者としてギルドに登録を済ませ、ニカノールを手伝うと言い出したのだった。  それで今、崖をよじ登るノァンを見守りながら笑っている。  慈母のような笑みは、まさしくおひさまみたいだ。 「あのさ、ナフム……フレッドも。今朝、起きたら」 「その話は今日、四度目だぞ?」 「ナフム、言わせてやろうよ。ちょっと面白いしね」  そう、朝からニカノールのペースは狂いっぱなしだ。  目覚めた瞬間から、今日という日は生涯忘れられない日になった。  昨夜は酔っ払って前後不覚だった、記憶も少し曖昧だ。どうやらヨスガに肩を貸されて帰ってきたらしい。因みにノァンは小脇に抱えられて運ばれたらしい。  それはいい。  だが、朝目が覚めたら……同じベッドでワシリーサが眠っていた。  ニカノールの胸に顔を埋めて、天使のような寝顔でまどろんでいたのだ。 「僕は寝間着に着替えて足し、彼女も……で、その、何もなかった。みたいだ。多分」  責任逃れをするつもりはないし、男女で同衾していた事実は変わらない。  だが、目覚めたワシリーサは優しくおはようの挨拶と一緒に、ニカノールの額にキスしてくれた。愛しい人を慈しむ少女の気持ちが、なんだか酷くいたたまれなかった。  だって、昨夜初めて会ったから。  親同士が決めた将来の伴侶の、その馴れ初めをニカノールは覚えていないから。 「彼女とはなにもなかった、筈だ。そうでなきゃいけない……だって僕はもう」 「ストップ、そこまでだ。ほら、かわいい恋人がこっちに来るぞ」 「続きは彼女と直接話した方がいいね」  それだけ言うと、ナフムとフリーデルは冒険に戻っていった。  すぐ近くに樹海磁軸というのがあって、瞬時にアイオリスの街まで戻れる優れたものらしい。それを地図に書き込むことが、今日の冒険の第一歩だった。  二人組と入れ替わりに、ワシリーサがニコニコの笑顔でやってくる。 「ニカ様、これが世界樹の迷宮なのですね……なんて壮大な景色でしょう」 「あ、ああ。ただ、その……危険な場所でもあるし」 「大丈夫ですっ! ニカ様はワーシャがお守りします。少しですが魔術の心得もありますし、フリーデル様にも色々教えていただきました」 「フレッドめ……あ、それで今後のことなんだけど」  やはりワシリーサは太陽のような娘だ。  直視できぬ程に眩しく、近付くだけで身を焼かれてしまいそうである。  なにより、ニカノールは申し訳なく思えてくる。  そのことを言おう言おうと思っていたので、ようやく言葉にすることができた。 「ワシリーサ、あのね」 「ワーシャと……どうかワーシャと呼んでくださいな、ニカ様」 「あ、うん……ワーシャ」 「はい、ニカ様」  ダメだ。  出会ってからずっと、ペースを握られっぱなしだ。  だが、話さねばならない。  自分のこと、そして自分に起こった不思議な出来事のことを。 「ワーシャ、君と僕とは親同士が決めた許嫁、婚約者だ」 「はい。ワーシャの全てはニカ様のものですわ。わたしもそれを望んでますの」 「それでね、その……僕、死んでるんだ。もう不死者なの」  ニカノールが生まれたコシチェイ家は、高名な屍術師の一族である。名門といっても、古い権威であるという以外は普通の家だ。  ただ、屍術師としては良くも悪くも道を極めた家だった。  多くの親族が、探求の末に不死者となる。  塔や洞窟に迷宮を構えて、寿命から解放された人生を研究に捧げるのだ。  だから、死んだまま生きていること自体は何も不思議ではないし、悪くもない。  ただ、ニカノールがその境地に達するのが早過ぎた。 「僕はね、事故というか……うっかり死んじゃったらしいんだ。しかも、そのまま生きてる。本来なら、もっと準備もしなきゃいけなかったのに」  ニカノールはちらちらとワシリーサを盗み見ながら、しどろもどろに話す。  そう、早過ぎた。  そして、唐突だった。  そのことを話しても、ワシリーサはニコニコと笑っている。 「ニカ様なら大丈夫ですわ。わたし、全然気になりません。ニカ様の妻として、全力でお支えしますの!」 「はぁ……あの、ワーシャ」 「ニカ様は由緒正しきコシチェイ家の出、ワーシャにできることがあったらなんでも仰ってくださいな。ニカ様に尽くすのがわたしの幸せ……今も幸せです!」  無条件の信頼と尊敬が、大量に直接ニカノールへ注がれる。  ますますいたたまれない。  ワシリーサの純真な敬意を受けるような人間じゃないと、ニカノールは自覚しているから。そもそも、死んだまま生きてる時点で人間ですらないのだ。 「……あのね、ワーシャ」 「はい」 「僕の言うことを、何でも聞いてくれる……そうなんだよね?」 「ええ。ニカ様の望みはわたしの望みです」 「じゃあ……その、とりあえず一度家に帰ってくれるかな? 後日、家同士で落ち着いて話そう。君のことを嫌いになれないから、僕みたいなのが約束された将来だなんて……情けない話だけど、とても申し訳ないんだ」  ワシリーサは目を丸くした。  大きな瞳が見開かれ、何度も星屑が煌めくように瞬きを繰り返す。 「ニカ様……ニカ様が本当にそうお思いなら、ワーシャは帰ります。でも」 「で、でも?」 「今のニカ様には誰かの支えが必要だと思うのです。何もかも背負われては、疲れてしまいますわ。それに……わたしがそうであるように、ニカ様にはワーシャが必要です!」  断言された。  そして、そのことが素直に嬉しかった。  だが、甘えそうになる自分を必死で否定する。  古い家同士だから、親の決めた結婚を否定するつもりはない。むしろ、こんな素晴らしい人が将来の花嫁なのだ。だからこそ、申し訳なくなる。  ニカノールが言葉を探していると、不意に元気な声が響いた。 「ニカ! 見てください、崖の上の革袋からお金が! これ、お金ですか? 見たいことないお金です! 高く売れそうです……お金を売るとお金がもらえるです!」  ノァンは突然、二人の間に入ってニッコニコの笑顔を向けてきた。そして、ニカノールに古びた貨幣を握らせ、その手をノァン自身が握ってくる。  同時に、逆の手でワシリーサと手を繋ぐと、彼女は元気よく歩き出した。 「ちょ、ちょっと待ってノァン! 今、大事な話を」 「難しい話は、アタシわかんないです! でも、アタシはニカの一番の友達なのです。そして、ワーシャとも友達になったのです。だから、一緒に進むです!」  有無を言わさずノァンはぐいぐい進み出した。  驚きながらもニカノールは、柔らかな苦笑を零す。ワシリーサも今日一番の笑顔を見せてくれた。結局、二人の話はここまでになった。後日改めてと保留しつつ……ニカノールはこの時はまだ、深く考えずに楽観していた。  だから、約束された初恋が一目惚れで始まったことに、まるで自覚が持てずにいるのだった。