世界樹の迷宮、第二階層……『奇岩ノ山道』は険しくも厳しい。  先へ先へと進みながらも、冒険者達は酒場『魔女の黄昏亭』の女将メリーナに寄せられたクエストの依頼をこなす。冒険者は基本的に、世界樹の探求と同時にアイオリスの何でも屋……請われれば何でもこなしたし、需要があれば剣を箒にも火鉢にも持ち替える。  それは今、ラチェルタも同じだった。 「チェル! そっとな、そっと!」 「そうよ、チェル。落ち着いてやれば大丈夫」  今、ラチェルタはマキシアとレヴィールの声援の中、巨大な魔物へと近付く。この階層でも危険なモンスターの一種、巨大な毒蠍だ。紫色に鈍く光る甲羅は、刀剣や拳、術に対しても強固な防御力を誇る。その上、強力な攻撃力を持つ両爪と尾で襲ってくるのだ。  だが、ラチェルタは知っている。  既に学び終えて、その情報を仲間と共有している。  この魔物、見据える捕食者には特定の行動パターンがあるのだ。 「今なら、あっちを向いてる……大丈夫、行けるよ。行けちゃう……!」  ラチェルタは、緊張で乾く唇をペロリと舌で舐める。  蠍型の巨大モンスター、見据える捕食者には他に例を見ない特殊な習性があった。それは、一定時間ごとに東西南北を、時計回りに見張るというものだ。つまり、その時間のサイクルを把握すれば、向いている方向に従って背後が取れる。  見据える捕食者はまるで時計の針のように、正確な時間で四方を見張っているのだ。  逆を返せば、向いてる方向以外から近付けばいいのである。 「いいぜ、いけてるぜチェル! そこだ、やれ! ブスッといけ! オレがついてんぜ!」 「マキ、ちょっとうるさいわ。でも……チェルはやるわ。やればできる子よ」  仲良しな親友の言葉に背を押され、チェルはポーチから注射器を出す。それを、背後を向けた見据える捕食者の関節部、甲羅が覆っていない柔らかい部分へと差す。  今日のクエストの依頼は、この見据える捕食者の毒を採取すること。  解毒のための薬を作るには、どうしても見据える捕食者の血が必要なのだ。 「いいこだね、うん……チクッとしたよね? ごめんね……ちょっぴり血、もらうね」  ラチェルタの額に汗が滲む。  極限の緊張感の中、敢えて一人で近付いた。  いつも守ってくれるレヴィールや、先を争い互いに戦うマキシアは今、側にいない。危険な仕事だからこそ、あえてラチェルタは一人で二人から離れたのだ。  正直、心細い。  毎日のように一緒だった、幼い頃からの友達。  マキシアとは食事からお風呂、ベッドまで一緒だった幼馴染だ。  時々やってくるレヴィールは、お姉さんみたいに勉強や剣術を教えてくれた。  だから、二人のためにもこのクエストは達成したかった。 「おっし、採れた! 献血ありがとーございまーす、っと……どもねっ」  全く気付かれなかった。  酒場での情報収集、ギルドマスターのニカノールに付き合ってもらっての予行演習も役立った。無事、難なく見据える捕食者の血液を採取することができた。  ようやくラチェルタも、安堵の笑みが浮かぶ。  そして、仲間達の待つ岩陰へと走り出した。 「マキちゃーん、レヴィー! 採れたよー!」  気が緩んだ。  かもしれない。  でも、採血が完了した段階で、大きな達成感があった。  だからつい忘れいていた。  自分がマキシアとレヴィールの元へ駆け寄る距離。二人が迎えに出てくれる時間。その経過の間に……恐るべき見据える捕食者が、こちらへと振り向くことを忘れていた。  そうと知らずに、ラチェルタは出迎える親友二人の中へ抱き着く。 「できたよー、バッチシ! あとはこれを持ち帰れば大成功!」 「やるじゃねえか、チェル! 流石だぜ、相棒!」 「もう、ハラハラさせて! さ、帰るわよ。この距離なら糸は必要ないわ。歩いてすぐ樹海磁軸がある、か、ら……あ、あれ? え……ちょ、ちょっと! チェル! マキも!」  レヴィールが悲鳴を上げた。  日頃から気品と風格を重んずる彼女が、剣を抜いた。  それはすなわち、危機的状況だということだ。  振り返るラチェルタは、皆を守るように躍り出るマキシアの向こう側に見た。  激昂に敵意を漲らせる、見据える捕食者の激昂の眼光を。 「わわっ、怒ってる! ど、どしよ……何で気付かれたの!?」 「問答はあとだ、チェル! いつものコンビネーションでいくぜっ!」 「二人でオフェンスを! 私が攻撃を引きつけるわ! お願いっ!」  予行演習は完璧だった。  そして、パーティの中でも前衛の三人のコンビネーションは完璧だった。マキシアがオフェンスとして、攻撃に集中する。レヴィールがディフェンスとして攻撃を引き付ける。そして、ラチェルタがスィーパーとして攻撃に参加しつつ、敵の攻撃を受け流しながら攻防の要として戦う。誰もが頼れる遊撃手の自負はあったのだ。  だが、それは脆くも崩れ去った。 「っべーぜ、こいつ強ええ!」 「こんなことなら、ニカノールさんやナフムさん、フリーデルさんに同行をお願いすればよかったわ! ああもうっ! 私が前に出るわ、二人は下がって……私が全てさばいていなす! 二人は攻撃に専念して!」  レヴィールが無謀とも思える突出で矢面に立つ。  見据える捕食者は即座に、無防備にすら見えるレヴィールへと尾の針を繰り出した。しなる突剣の弾力で弾きながら、見てて寿命が縮むような戦闘をレヴィールは続ける。彼女の剣技は軽業の回避力が持ち味だが、裏を返せば避けれぬ攻撃への防備がない。  ラチェルタはただ、マキシアが攻撃の機会を伺う中で呼吸を合わせるしかない。  マキシアはオフェンスでの連撃と神速、爆発力には特筆すべきものがある。  ラチェルタも、マキシアの押しの強さと勢い、流れを掴んで躍動する不思議な勢いには信頼を感じていた。マキシアはいつも、一緒に暴れてくれる親友だった。 「マキ! チェルモ! 逃げる身構えを……ちょっと、捌ききれない、かも!」  流麗な剣技で見据える捕食者と立ち回るレヴィールが、珍しく弱音を零した。  彼女は攻撃の全てを剣で弾いて、その間隙に反撃を捻じ込んでいるが……類まれなる技量も、圧倒的なパワーに押し負けている。  こうしているこの瞬間、三人の戦列は崩壊する……そう思われた、その時だった。 「少女達、下がりなさいな! あまりに未熟、稚拙でしてよ! 己の力量を知って、今日のところは退く、そんなとこじゃなくて?」  凛冽たる声は、妙齢の女性のものだった。  そして、三人の前に鎧の麗人が躍り出る。突然現れた美女は、鋼鉄の鎧に身を固めた眼帯の尾錠だ。そして、ラチェルタにはどこかで会ったような、見覚えのある面影を想起させる端正な横顔だった。  突如現れた美女は、盾で見据える捕食者の攻撃を捌きつつ、右手のライフルに光る銃剣を振り払う。あの見据える捕食者が、突如の乱入者に身を強張らせた。 「マキシア、ラチェルタ! そして……レヴィール。すぐに退け」 「あ、あれ? マキちゃん!? あの人、どっかで――」  美しき戦士は、女の竜騎兵だ。そのまま銃剣を翻して、恐るべき毒蠍の尾を軽々と切断する。千切れて舞った尾の先が地上に堕ちる前に、彼女は神速のスピードで零距離に銃口を押し当てる。あの恐るべき魔物が、漲る覇気に萎縮していた。  女騎士は肩越しにラチェルタ達三人を振り返った。  その片目を隠す眼帯に、無数の瞳が見開く。  ラチェルタにはどこか、その異形の眼差しが優しく感じた。 「ここは片付けとくわよん? ……私の、私達の名はエクレール。さ、街にお帰りなさい」 「ただ、気をつけてね……チェル。そしてマキちゃん、レヴィちゃん。僕達のフォローにも限界はある。けど……何より、君達の成長を奪いたくないから。だから、気をつけて」  刹那、銃声。強力な弾丸が一発で蠍のバケモノを木っ端微塵にした。その土煙の中に、ラチェルタは見失う。エクレール……瞬雷の名の騎士の姿を。  ただただ三人は、毒蠍の素材さえ得られぬ中で逃げ帰るしかできなかった。