スーリャの意識は、闇の中を真上へと落下していた。  なにもない虚無の空間は、ひたすらに寒くて冷たい。  そして、混濁する記憶が悪夢となって浮かび上がる。捨ててきた過去の数々はいつも、ひどく粗野で傲慢な声で語られた。 『よぉ……今度こそくたばったか? ええ?』  男の声だ。  いつも、彼の声がスーリャに現実を突きつけてくる。  自分がどういう存在なのか、心の底に刻みつけてくるのだ。  そして、乱舞する言葉が鏃となって彼女を串刺しにする。 『あの女は異形の子を孕んで、気が触れちまったんだ!』 『村を出てゆけ! 消えろ! お前も母親みたいに磔にされたいか!』 『まいったなあ……そんな躰じゃ客は取れねえ。だが、いい買い手がある』  子供の頃からスーリャは孤独だった。  彼女に声をかけてくる者は、僅かな金と引き換えにスーリャの明日を勝手に選ぶ。そうして故郷を追われ、夜の街を彷徨い、最後には犯罪組織の殺し屋に身をやつしていた。  幼い少年少女だけを集め、一流の始末屋に仕立て上げる組織がある。  そこでは皆、最初に自分の心を殺すのだ。  だが、スーリャが殺した自分の心の、その奥からいつも男の声がする。 『そろそろ楽になるか? おい。母親んとこに行ったらどうだ』  スーリャはただ、黙ってその声に首を横に振る。  そのまま彼女は、裸の意識を丸めて膝を抱えた。  どこまでも、落ちてゆく。  上下左右のない深層心理の中を、奈落へ向かうかのように堕ちてゆく。  自分の人生が終わるのかと思えば、最後に奇妙なことをしたものだと思った。まさか、冒険者と共闘することになるとは、夢にも思わなかった。  依頼は結局、果たせなかった。  背教者フォリスと死体人形、そしてコシチェイ家の御曹司……暗殺を仕損じたのは初めてだ。たとえ生きていたとしても、もうスーリャには生き続ける術がない。組織は失敗を許さないし、スーリャは暗殺という舞台劇の一番安い端役なのだ。  男の声は続く。 『ま、いいさ。お前とはもう、これっきりかと思うと……ハハッ、別にどうでもいい』 「そう……私も、もう……どうでもいい」 『お? やっと口をききやがったな。どうでもいい……なら、意外とどうにかなるもんだぜ。そして、どうなってもいいなら……もう少し生きてみろや』  それだけ言って下品に笑うと、男の声は遠ざかる。  それが永遠に消えてゆくのだと、漠然とスーリャは思った。  何故か、お父さんという言葉が脳裏に浮かんで、そして……光。  目を覚ましたスーリャが見たのは、見知らぬ天井。そして、自分は清潔なベッドの上に寝かされていた。驚きつつ警戒心を励起させながら、上体を起こす。  全裸に包帯姿で、全身を痛みが包んで生還を伝えてくれた。 「目が覚めた、ようだな」  ぼんやりとした声が響いて、スーリャはすぐさま臨戦態勢をとった。  ……とろうとした。  だが、身体が思うように動かない。  それでも殺気を漲らせて見やれば、壁に寄り掛かる一人の男が立っていた。華奢で小さく、屍術士の装束を着ている。それは暗殺対象の一人、フォリスだった。 「……背教者、フォリス・ヴィーニッヒ」 「その名も、もう慣れた。それより……傷の具合はどうだ?」 「傷……何故、手当を? 私は、どうして……どうやって、生きてる?」 「そこのノァンが輸血して助けたんだ。彼女の血は、どんな人間にもマッチする」  言われて初めて、スーリャは気付いた。  自分が寝かされていたベッドに、突っ伏すようにして一人の少女がいびきをかいている。フガースピーと、爆睡している。それは、スーリャが死体人形と呼んでいたフォリスの作品……彼が背教者と呼ばれる所以だ。  屍術士は死霊を操り、死体を使役することも厭わない。  だが、屍術士にとっても挟持があり、超えてはいけない一線がある。  死を司るからこそ、死者を弄んではいけないのだ。 「スーリャ、だったな。お前は、その……出血多量で、死にそうだった」 「知っている。それを、何故……助けた?」 「すんません、それは……ノァンに、許すことを教えたかった。許しというものを知ってほしかったんだ」  フォリスはぼそぼそと喋り出した。  かつて、住んでいた街でカルト教団に恋人と友人一同を殺された。惨殺されたのだ。それはスーリャも、資料で見て知っている。そして……街でも評判の屍術士、冠婚葬祭を細々と商う青年は豹変した。  禁忌を犯したのだ。  怨嗟と憎悪に駆り立てられるまま、複数の死体から復讐装置を生み出した。  七人の男女を継ぎ接ぎして造られた、死体人形のできあがりである。  そして彼は、仇を討って追われる身になったのだった。 「俺は、許せなかった……そして、許さなかった」 「狂信者達を皆殺しにしたと聞いている」 「そうだ。そして……ノァンはまだ、許しというものを知らない。生まれたばかりで、彼女にはまだまだ知らないことが沢山あるんだ」 「それで、試しに私を許させてみようというのか。……許されるものか」  スーリャは人ならざるものを父親に持った、両性具有の己を恥じていた。まともな人間ではないし、まともな仕事もしたことがない。今日を生きるためだけに、他人の明日を奪い続けてきた。  スーリャは自分自身が許せないのだ。  そんな彼女を、無知で無垢な死体人形が許せる筈がない、そう思った。  だが、ムニャムニャと目を擦りながら、スーリャの声にノァンが起き上がる。 「ほえ……んあ、寝てたです。なんだかちょっと、手足が重いのです」 「ノァン、血を分け過ぎたからだよ。ほら……スーリャが目覚めた。お前が助けたんだよ。血を分け与えて、介抱して……ニカやギルドの仲間達も手を貸してくれた」 「あ、マスター! そです、アタシも頑張ったです! ……起きた、ですか……むーっ!」  ノァンはすぐ、難しい顔になって腕組み唸った。  だが、次の瞬間にはグイと身を乗り出してくる。スーリャのすぐ目の前、鼻先に左右別々の瞳が色を並べていた。赤と緑の双眸に、無表情な自分の顔が映っていた。 「アタシ、許すの頑張るです! だから、とりあえず怪我を治すのです!」 「……わかった。どのみち私に選択権は、ない」 「それと! なんかお礼くださいです! アタシ、いい子だからお礼のシナジナーだけでいいです!」  フォリスが苦笑して「ノァン」とやんわり咎めた。  だが、鼻息も荒くフンスフンスとノァンは詰め寄ってくる。 「謝礼、か……私には、なにもない。私は、殺すことしかできない。……ノァン、殺してほしい人間は、いるだろうか」 「ほむ! 殺してほしー人間……んー、んん? アタシは冒険者をやってるので、そういう人はいないのです。でも、マスターをいじめる人とは戦うです」 「……わかった。恩の返し方を考える間、お前をお前の主ごと、守る。それで……いい?」 「はいです! あ、わかったです……ムフフ、アタシやっぱり賢いのです。これがいわゆる、許すというやつなのです! マスター、許すは結構イイモノなのです!」  白い歯を見せて、ニッカリとノァンが笑った。  この時初めて、スーリャは知った。  ノァンほど眩しくもなく、輝きなどないのに……それなのに、スーリャも気付けば笑っていた。自然と頬が緩んだ、僅かに口元が柔らかな笑みを浮かべていたのだった。  こうしてスーリャは、怪我が治るまでジェネッタの宿に世話になることになった。  もう、誰の明日も刈り取らなくていい……そういう明日が未来に繋がっている気がした。