冒険者の街アイオリスに、再び熱狂と興奮が帰ってきた。  世界樹の迷宮、その頂へと至る道が切り開かれたのだ。今は第四階層『虹霓ノ晶洞』を、冒険者は先へ先へと進んでいる。調査が進む程に、世界樹が生み出す奇跡の壮大さは人々を驚かせていった。  全てが元通りの日常へと戻った。  たった一つ、ノァンが目覚めないということを除いで。  連日フォリスが彼女の治療に専念し、あらゆる屍術士の技をこらした。だが、肉体が死体人形として完全に回復しても、ノァンの意識が覚醒することはなかった。 「なるほど、そうでしたか……お辛いですね、フォリス様」  今日もヨスガは、夢見の夜魔亭でバーカウンターに立っていた。一夜の夢を求める客達で、酒場は大賑わい。だが、目の前でミルクの入ったグラスを手に、フォリスは浮かぬ顔である。  もっとも、彼が朗らかに笑う顔など、ヨスガは見たことがなかったが。  どういう訳かフォリスは、女と遊ばずこの場所でいつもミルクを飲んでいる。  それでも、時々顔を見せては、こうしてヨスガと世間話に興じているのだ。  彼はまたミルクを一口飲んで、いつもの調子でボソボソと話す。 「技術的な問題、じゃない。あの時……確かにあの瞬間、ノァンからなにかが抜け出た」 「私は門外漢なのですが、やはり不死の人間を作るということは、そこになにか魂魄のようなものを込めるのですか?」 「ノァンの肉体を構成しているのは、俺のかつての友と……恋人と、だ。七人の死体からできているが、その人格と精神はノァンという個人にほかならない。と、思うんだが」  ヨスガも、第三階層『晦冥ノ墓所』での決戦は聞き及んでいる。  ノァンの肉体に宿っていた者達の、その無念な想いは昇華されてしまったのか。愛しい人を、親しい人を守ったことで消えてしまったのか。  それが原因かどうかはわからないが、他に思い当たる節もない。  事実、あれからずっとノァンは眠り続けている。 「でも、ルナリアの屍術士というのは凄いものですね。死霊を操り、死者の想いを力に変える……また、弔いと鎮魂の儀式で生者にも安らぎを与える」 「そう大それたことはできない。葬儀屋の手伝いみたいなものだ」 「それでも、フォリス様は多くの仲間の皆様に頼られていると思いますよ」  グラスを拭きつつ、ヨスガはフォリスに微笑みかける。  フォリスは「そうか」とだけ零して、ミルクを飲み干した。  彼は酒を飲まない。以前から酒に弱く、それが原因で仲間を死から救えなかったのだという。浴びるほど飲んでもいい、祝いの夜にその悲劇は起こった。オカルティズムを盲信する秘密結社によって、恋人と友人を一度に七人も失ったのだ。  ヨスガ自身、それを想像すれば身震いが込み上げる。  目の前の気弱そうな青年を、禁忌の屍術士へと堕落させるには十分な絶望だったろう。  そんなことを思っていると、フォリスの隣に一人のルナリアが腰掛けた。 「ヨスガ、僕にもなにか適当に頼むよ」 「わかりました、ニカノール様」  フォリスが眠たげな目を向けるのは、友人のニカノールだ。  ヨスガが普段から目にする、二人の仲の良さは誰にとっても救いに思える。全てを亡くしたフォリスは、自身の生み出した殺戮人形と共にアイオリスにやってきた。復讐のために生み出した命に、本当の生き方を与えてやるために。  そこで彼には新しい友人ができて、大事な仲間ができた。  そのことをいつもボソボソ話してくれるので、ヨスガはとても嬉しく思っていたのだ。 「ニカ、今日は早いな。……あ、いや、そういう意味じゃない。すんません」 「それがね、フォス。君とはまた別の意味で、なんていうか……いつもの飢えがね、なんだか酷く空虚で乾いてしまってるんだ」 「と、いうと……ああ、今夜も満月か」 「そう。ノァンもだけど、なんだか妙だ。あの狂おしい渇望が、込み上げる欲望が、上手く発散できない。今日は結局、相手を選ぶことができなかったしね」  既にナフムがフリーデルが女達と二階にあがって小一時間が経つ。二人にとっての兄貴分のような、悪友のような二人は言うのだ。息抜きも大事で、発散は誰にも等しく必要なメンテナンスだと。  そういえば、とヨスガは思い出す。  あのノァンという少女は、ニカノールと一緒によく店に訪れていた。娼婦達の誰からも好かれ、不思議と可愛がられて甘やかされる。でも、軍資金が心もとない時は、二階に上がらず酒場で鍋をつついたりしていたのだ。  無邪気な笑顔は、ヨスガもそうだが多くの店の女を世話焼きにしたものだ。  ヨスガは追憶と言うにはまだまだ鮮やかな回想をやめ、蒸留酒の瓶を手に取る。 「なあ、ニカ。その……ワーシャとは、最近、どうだ?」 「えっ? あ、ああ、うん。仲良くやってるよ。ワーシャは、最近凄く頑張ってる。冒険にも積極的だし、家事も随分と上達したって嬉しそうだった。けど、僕は」 「確かに、迷うよな……あの一途さは、本当に彼女の中から生まれてきたものなのか、と」 「そう、そうなんだ。コシチェイ家の御曹司に捧げる生贄として、幼少期からそうあれかしと育てられた……選択の余地がなかったとしたら、それは不幸なことだ」  なんと、男子同士の恋バナである。  それは、男として扱われなくなって久しいヨスガには、なんだか少し懐かしい。同時に、純粋な好奇心を二人に向けてしまうのは、やはり心のどこかが女だからだろうか。  グラスに氷を入れて、琥珀色の酒を注ぐ。  それをそっとニカノールの前に差し出し、ヨスガは仕事に戻った。  客同士の話には、過剰に割り込まないのがバーテンダーのマナーである。だから、二人の声が聴こえてきていても、約得だと思いこそすれ、口を挟むことはない。 「ニカ、その、なんだ。始まりは……確かに最初は、ワーシャはそういうふうに育てられた女の子だったかもしれない」 「今は、違うのかな。もしそうなら、僕はどうやって受け入れてあげたら」 「案ずるより産むが易し、なんて言葉もある。そのままそのことを、ワーシャに聞いてみたらどうだ?」 「えっ? それは」 「最近の彼女は、少なくとも……決められた生き方を背負った人間の顔をしていない。ああいう笑顔で笑える娘が、ただただ運命を受け入れるだけの存在とは思えない、かも、しれない」  ニカノールは黙ってグラスを傾け、豊穣な酒精の味と香りとで唇を濡らす。  そうして、青白い顔を少しだけ紅潮させながら照れたように笑った。 「凄いな、フォスは。まさに、経験者は語る、だね」 「そうかもしれないな。ニカに少しはデカい面ができるかと思うと……なかなかこれが、悪くない」 「……今までね、少しワーシャを避けてた。僕みたいな闇の眷属には、彼女の笑顔は眩し過ぎる。そして最近は、以前にもまして温かいんだ」 「なら、あとはもう決まってるんだろう?」 「だね」  こういう時、素直にヨスガは二人が羨ましいと思う。  ルナリアは男も女も美形が多いが、ことさら二人はそれぞれタイプの違うイケメンで、そして友人同士だ。メルファが見たらまた、いらぬ妄想を勝手に先走らせてしまうだろう。  娼館に来て女も抱かずに、ただただチビチビと飲んで恋バナをしている。  気付けばニカノールとフォリスの背を、酒場の女達が優しげな視線で見守っていた。やはり、この店の女達は二人が好きなのだ。決して客にならないフォリスすら、どこか親しげに目を細めて見詰めている。  それに気付かず、ニカノールはまた一口酒を飲んでから口を開いた。 「ああそうだ。ねえ、ヨスガ。ちょっと相談だけどさ」 「はい。なんでしょう、ニカノール様」 「もしよかったら、暇な時にでもジェネッタの宿に遊びに来てくれないかな。その……ノァンも、喜ぶと思うんだ。彼女はこの店が、メルファ達やヨスガが大好きだったからね」 「承知しました。是非、お見舞いに伺わせていただきます。勿論、個人的に」  ヨスガにとってもノァンは、大事なお客様である以上に、とても大切な少女だった。少し武術の手ほどきをしたし、力を持て余す彼女に制御のやり方や効率的なぶつけかたを教えたのだ。  素直で明るく純真、いつも楽しそうに笑ってるノァンが脳裏を過る。  フォリスが「ありがとう、ヨスガ」とようやく笑ってくれたので、なんだかとても嬉しい。そして、誰もが待ち望むノァンの目覚めを、ヨスガもまた強く祈って夜を過ごすのだった。