第四階層『虹霓ノ晶洞』は、不気味な静けさに満ちていた。  淡い光を乱反射させる、水晶で編み込まれた巨大な迷宮……多くの冒険者達を飲み込み、その足跡も声も、吐息すらも伝えてこない。  警戒心を尖らせるレヴィールは、静寂の中で緊張感を維持する。  だが、相変わらずの能天気を発揮して、チェルマキコンビことラチェルタとマキシアは大股で先を歩く。  小さな溜息を零すと、隣を歩くチコリが気遣うように微笑んでくれた。 「大丈夫ですよー、レヴィさん。ああ見えて二人は、とっても強いですから!」 「半端に強いからああなるのよね……ま、私がフォローすれば問題ないのだけど」 「そこは、私達っ! ですよ! あたしも頑張るので!」  自称ブラニーの少女は、両手の拳を握ってムフー! と鼻息も荒く意気込む。彼女は香草師で、怪我や病魔、毒の類に対して力を発揮する。香草師がいるかいないかで、迷宮の探索難度はガラリと変わってくるのだ。  背後で呻くような声が響いたのは、そんな時だった。 「うっへぁ……ちょいと飲みすぎたぜえ? おーい、チコリちゃんよう。なんかいい薬草、ないかい?」  振り向けば、鎧も盾も重そうに歩く老人が一人。  コッペペは今日も、戦力に数えてはいけないのではと思うほどにやる気がなかった。本人曰く、二日酔いである。レヴィールは、彼が真面目に熟練冒険者として振る舞っているところを、あまり見たことがない。  だが、コッペペという名は祖母やその仲間達から聞かされている。  幼少期から、偉大な先達の冒険譚に胸を踊らせたものだ。  吟遊詩人のコッペペは、祖母にしてエトリアの聖騎士、デフィールの最初の仲間の一人だ。あらゆる世界樹を踏破してきた、伝説の語り手……だが、今のコッペペはただの酔っ払いである。 「コッペペさん、そういう時はこの薬草です!」 「おお、ありがとよぉ……チコリちゃんはいい子だな。オイラ、嬉しくて涙が出てくらあ」 「……出てるの、手ですよね? お尻撫でるの、やめてください! セクハラです!」 「ああっと! へへ、いけねえなあ……ゴメンよ、チコリちゃん」  チコリから薬草を受け取り、それをかじりながらコッペペは溜息を零した。どうやら少し楽になったようで、一段落といったところらしい。  この記憶喪失の老人が、本当にあのコッペペなのだろうか?  射撃の名手でパーティの知恵袋、頼れるギルドマスターといった雰囲気は全然感じられない。話通りなのは、飄々としてどこか憎めず、スケベなムードメーカーというとこだけだった。  そうこうしていると、前方のラチェルタとマキシアから声があがる。 「マキちゃん隊員っ、水晶岩はっけーん! ピッケルよーい!」 「ラジャーだぜっ! どいてな、チェル隊長ぉ!」  この虹霓ノ晶洞では、ところどころを巨大な水晶の固まりが塞いでいる。避けて通ることもあったが、多くの場合は重要な通路をせき止めているのだ。  進むためには、水晶岩を砕いて破壊するしかない。  そのための重いピッケルを、市でセリクが譲ってくれた。  勿論、彼は生粋のブラニー商人で、下心のある譲渡である。冒険者が先に進めなければ、セリクも新たな素材と商品を流通させることができないのだ。  カツーン、と甲高い音が響いて、迷宮の奥の奥まで反響してゆく。 「おお? 結構硬ぇな。しかも、奥まで通路にビッシリありやがる」 「マキちゃん隊員、交代しよっか?」 「まあ待て、チェル隊長。こういう力仕事は、オレの、出番、だあっ!」  行き止まりのその先へと、マキシアがピッケルを振るう。  既に見慣れたこの階層の冒険風景だが、レヴィールはなにかが気になった。そして、意外にもコッペペがピクリと片眉を跳ね上げる。  一瞬だけ、彼は真剣な表情で背後を振り返った。  その視線を追うレヴィールも、思わず息を呑む。 「あ、あの、コッペペさん? なにか」 「んー? いや? ただ、なーんかヤな予感がするのヨ」 「予感、ですか」 「冒険者ってなあ、自分で見聞きしたものをこそ信じる。そうして生きてきた自分の直感だから、いざというとき信じられるのさ」  なんだかそれっぽいことを言うので、レヴィールは驚いた。  だが、彼がポケットからウィスキーのスキットルを取り出したので、見直すことを改めて踏みとどまる。やはりコッペペは、だらしない冒険者だ。  しかし、不意にチコリがビクリと身を震わせた。 「ん? どしたの、チコリ」 「レヴィさん、あの……聴こえませんか? ほら、あたしはブラニーだから耳がいいんです」 「あー、うん、ブラニーだね……って、なにも聴こえないけど」 「あたし達の来た道から聴こえます。……なにかが、来る」  最前列のラチェルタとマキシアは、水晶岩を破壊するのに夢中だ。  そして、レヴィールの耳にも異音が近付いてきた。なにか、とても重いものを引きずるような声だ。どこか湿ってぬめるような音は、ついに曲がり角から姿を現した。  その瞬間、チコリがガシリ! とレヴィールに抱きついてくる。 「あっ、ああ、あれっ! 魔物です!」  そこには、通路の高さと幅を埋め尽くさん大きさの蟲がいた。とても巨大なミミズの化物、いわゆるワーム種である。目も耳もない頭部には、ぽっかり開いた口に鋭い牙が並んでいる。まるで、レヴィール達を吸い込まんとする奈落の深淵だ。  咄嗟に剣を抜いたレヴィールに向かって、ワームはどんどん近付いてくる。 「そういえば、確かニカさん達が見たって……これが、残響に集う蟲!」  この第四階層には、音に敏感な大型モンスターが出るという。まるで通路や部屋を守護するように鎮座し、音を立てれば近付いてくるのだ。逆に、無音で通り過ぎれば害はない。そして、音で誘導すればどかすこともできた。  だが、ここは目の前が水晶岩の袋小路。  驚いたラチェルタとマキシアは、すぐさま決断する。 「マキちゃん、掘って! ボクが時間を稼ぐよ!」 「任せた! っしゃあ、乙女の細腕が持つパワー、見せてやんぜ!」  阿吽の呼吸とはこのことだ。レヴィールの隣に駆け寄り、そこから更に飛び出そうとラチェルタが身構える。  だが、魔物の進む速度の方が、マキシアの掘る速度よりも速い。  あっという間に目の前に、異臭を放つおぞましい肉の壁が迫った。  絶叫を張り上げ、残響に集う蟲が襲い来る。  このままでは、圧殺される……思わずレヴィールは叫んだ。 「マキ、手を止めて! みんなも音を出さないで!」  間一髪だった。  そして、自分も危機一髪だったことを知る。  レヴィール達の前で、巨大な盾をかざしてコッペペが立っていた。  ずしりとのしかかってくる蟲が、彼に押しやられたまま停止する。  今、咄嗟にコッペペが割り込んでくれなければ……そう考えると、レヴィールの背筋を冷たい衝撃が通り過ぎる。  だが、コッペペは肩越しに振り返るとニッカリ笑った。 「いやあ、やっばいねえ……おじいちゃん、びっくり! おお、嫌だ嫌だ」 「あの、コッペペさん。あ、ありがとう、ござい、ます」 「ああ、いいのいいの! 記憶はないけど、ピンときたもんだからよお」  やはり、膨大な経験を積んだ冒険者なのだろうか? 誰よりも早く、一番必要な行動を選択したのはコッペペだったのだ。  だが、巨大な蟲によってレヴィール達は、閉じ込められてしまった。  掘り進めば、その先はデッドエンド……危機の訪れは突然で、決定的なものだった。