冒険者達の間に、奇妙な噂が広まっていた。  それは、不規則に地震が多発し始めるのと同時期だった。  第四階層『虹霓ノ晶洞』を揺さぶる、不気味な縦揺れ……頭上から揺さぶるような感覚は常に、震源地が探す上り階段の先にあることを示していた。  そして、怯えを勇気で覆った冒険者達を待ち受ける、謎の少女。  時に冒険者を助け、時に導く少女の存在が、まことしやかに囁かれていた。  ニカノールもその話は、耳に入れていた。 「さて、これで18階もようやく半分か」  地図に今来た道を書き込み、ニカノールは額の汗を手で拭った。  散発的だが、戦闘はどんどん激しさを増してゆく。蜥蜴の戦士達も、大きさや持つ武器の強さが格段に上がっていた。加えて、そこかしこで道を塞ぐ水晶岩と、巨大なワームの魔物。慎重に慎重を重ねれば、自然と冒険はスローペースになっていった。  だが、それでも着実にニカノール達は進んでいる。  それも、アイオリスのどのギルドよりも先、未知なる迷宮の最奥へと。 「ニカさんっ! あの、さっきの穴なんですけど」  話しかけてきたのは、香草師のチコリだ。  今日は他に、周囲を警戒する魔導師のナルシャーダと、竜騎兵のコッペペ、そして―― 「わたしもそこは、気になりましたの。ニカ様、ここですわ」 「はい、ここです! ここ! 小さな小さな横穴が」  チコリとは逆の隣から、ワシリーサが身を寄せてきた。彼女の白く細い指が、地図の一点へと触れる。  密着に近い距離で、彼女の髪からふわりといい香りが鼻孔をくすぐった。  洗髪料の匂いなのか、とても柔らかくて清々しい。  だが、その香気に包まれるニカノールは、慌ててブンブンと頭を振る。  もう片方の隣からグイグイと、チコリも迫ってきた。 「この穴、ニカさん達ルナリアの目ならば、奥を見通せるのではと」 「ああ、ナイトビジョン? えっと、それは」 「わたし、こう見えても夜目が利きますわ。ばあやにも昔、褒められましたもの」  魔法を得意とする種族、ルナリア。身体的には脆弱で、筋力も体力もアースランなどには劣る。だが、直感に結びついた視力は、それ自体が魔力を宿した眼差しを放つのだ。闇夜とて見渡す術があり、その眼力は冒険において大いなる一助となる。  ナイトビジョンはちょっとしたコツがいるが、ルナリアには一般的なスキルだった。  だが、ニカノールはこのスキルの習得を疎かにしていた。生きた死体になってから、見えなくていいものまで見えるし、ナイトビジョンより多くのものを感覚的に見分けるからだ。 「ん、じゃあ戻って調べてみよう。それで今日は終わり、街に戻ろうと思う」 「ニカ様、わたし達ならまだ……」 「そろそろ荷物もいっぱいだし、残った体力ではあと数回の戦闘が精一杯だからね」 「あ……た、確かに、そうです。ワーシャは大事なことを見落としていましたっ」  驚いたように目を丸くして、それからワシリーサは量の拳をグッと握った。そして、何度もウンウンと大きく頷く。  素直で健気で頑張り屋、優しくて気立てがよいけど、ちょっと視野が狭い。  そんなワシリーサに、とっくにニカノールは好意を抱いていた。  だが、彼女はそうなるように育てられた、一族から捧げられる生贄の花嫁……そのことを思うと、どうしてもニカノールは自分の気持ちを確かめられなかった。 「ああっと! 美しき俺様に従う、愉快な仲間達! どうやら乱痴気騒ぎが始まるようだ……招かざる客の登場さ!」  ナルシャーダが、芝居がかった台詞でキラキラと振り向く。  奥から巨大な蝙蝠の羽撃きが突っ込んできた。その数は多く、あっという間にニカノール達は戦闘を余儀なくされる。  すかさず臨戦態勢を取ったナルシャーダは、流石は腐っても一流魔導師だ。  そして、コッペペが盾をかざして最前線へと立つ。 「おっと、蝙蝠共……ここから先は行かせねえぜぇ? オイラも最近、真面目にやってるんでね!」 「フッ、流石は御老体……さては」 「あたぼうよ、ナル! 可愛い女の子の前でだけは、格好つけておかねえとな」 「もっともです、至極当然! しからば、俺様もまた解き放とう……封じられし禁忌の力を!」  やる気があるのは結構だが、二人の視線がワシリーサを見て緩む。  一方でチコリは「いやあ、そんなあ」としきりに照れている。  お馴染みの光景で、緊張感こそないものの誰一人として竦んではいない。未だに張り切り方が危なっかしいワシリーサでさえ、慣れ始めた冒険の中で懸命に戦っていた。  ならばとニカノールは、愛用の棺桶を解き放つ。  瞬時に古の儀式が簡易的に行使され、死霊達が棺から解き放たれた。 「さあ、死霊達。まずは仲間の盾に。そのうえで、鋭い爪を敵意へと突き立てろ!」  以前より格段に、死霊達は言うことを聞くようになった。  三体放たれた死霊は、コッペペ一人で支えきれぬ隙をカバーし、的確な反撃を蝙蝠へと放ってゆく。これも全て、長い冒険生活の中でニカノールが成長した証なのだ。  膨大な魔力を持ちながらも、使う術には疎かったのが以前のニカノールだ。  だが、フォリスという友も得たし、日々の研鑽も欠かさなかったのが幸いした。一般的な屍術士としての技術と知識は、彼の持て余し気味だった魔力を最大限に活かしてくれる。 「でも、数が多い……みんな、無理はしないで。数を減らして、その隙に逃げるのも手だね」 「大丈夫ですっ、ニカ様! わたし、範囲の広い魔法を試してみます」 「あっ、ワーシャ!」  咄嗟にニカノールは、棺桶を手放し走り出していた。  意識を集中し始めたワシリーサへと、数匹の蝙蝠が舞い降りる。だが、彼女は避ける安全より仲間のための魔法を選んだ。ならば、それを守るのがニカノールの使命だと思えた。  かざした手に導かれるように、死霊が蝙蝠達へと組み付く。  同時に、爆発。  だが、死霊を爆弾へと変えた攻撃をすり抜け、最後の一匹がワシリーサに牙を剥いた。  ――筈、だった。 「……怪我は、ないか? ワーシャ。少し、危なっかしい」  突然現れたのは、大鎌を振り抜いたスーリャだった。隠密の術を用いて、どうやら一人で追いかけてきたらしい。  驚きはしたが、すぐにニカノールは死霊を再召喚して守りを固める。  同時に、ワシリーサの詠唱が歌声のように高まり、周囲を落雷の嵐が取り巻いた。  あっという間に、蝙蝠の大群が空中で黒焦げになってゆく。 「ふぅ……ワーシャ、怪我はないかい? みんなも無事だね?」 「ありがとうございます、ニカ様。スゥ様も……スゥ様? あの、なにか」  スーリャはなにかを言いかけては、あうあうと焦るように困った顔を見せる。そして、自分でも整理できていない言葉をとりあえず口にした。 「ノァンが、目を覚ました。フォスが、やった、けど、私は……すぐ、ニカとワーシャに、みんなに教えたくて、気がついたら一人で」 「まあ……スゥ様! 急ぎましょう! スゥ様こそが今、ノァン様の新しい朝に必要なのですから」  スーリャは自分の感情に戸惑っているようだ。そんな彼女にもう、闇の暗殺者だった以前の緊張感はない。  よかったと思った時には、ニカノールはガシリ! と手をワシリーサに握られていた。  突然のことで、呼吸も鼓動も止まったかのように身が固くなる。  肉体的には死んでいるのに、そう錯覚する程に驚けば……自然と生きてる自分が思い出された。 「ニカ様も! ノァン様が待ってますの!」 「うおーい、ニカよぉ。オイラはナルと例の横穴を調べてから、糸で帰っからよ」 「フッ、そういうことだ。嗚呼! なんて粋なはからい is 俺様! グッドルッキングナイスガイとして、俺様がハイパーノーブルナイトビジョンSPを使うしかあるまい!」  残ると言った二人に深々と頭を下げて、ワシリーサは走り出した。その手に引かれて、自然とニカノールも駆け出す。  そして、知る……無垢で無邪気なワシリーサの手は、とても熱く火照っていた。  この手に手を添え握り合い、ずっと走ってゆけたなら……そう思うニカノールは、スーリャの案内で手近な樹海磁軸へと急いで走るのだった。  その背を、ローブ姿の謎の少女が見守っているとも知らずに。