ニカノールは転がるようにしてアイオリスに戻った。  そのまま大急ぎで、ジェネッタの宿へと駆け込む。  いつもの階段を登って、毎日通う部屋に飛び込むと……そこには既に、多くの仲間達が集まっていた。すぐ隣で、握り合っていた手をワシリーサが振り解く。 「ノァン様っ!」  ベッドに身を起こした少女へと、ワシリーサは抱き着いた。  そこには、以前と変わらぬノァンの姿があった。  どうやら食事中だったらしく、上体を起こして座る膝の上に沢山の食べ物が並んでいる。山盛りのサラダと腸詰め、パンは一斤まるごと……トレイの上は、まるで小さな食料庫みたいになっていた。  泣いて抱き着くワシリーサに、ノァンは驚きながらもへらりと笑った。 「おはようございました! ワーシャもおはようなのです」 「ノァン様……あれからずっと、目が覚めなくて。それで、わたしは……ワーシャは」  周囲のナフムやフリーデルも、うんうんと嬉しそうに頷いている。涙もろいのか、まきりははばからず立ち尽くして、うおーん! と大声で泣いていた。そんな彼女に、あとから部屋に入ってきたキリールがハンカチを渡してやる。  ずびーん! と鼻をかむまきりを見上げつつ、キリールはめしいた目で周囲を見渡した。 「一応、ノァンさんの体調を確かめた方がいいと思います。それで、同じ香草師の知り合いに来てもらいました。チェスニー先生、お願いします」  眼鏡をかけた小さなブラニーの青年が、ぺこりと頭を下げて入室してきた。そう、子供に見えるが、ブラニーだから成人男性かもしれない。青年とニカノールが感じたのは、落ち着き払った態度と余裕、そしてどこか瞳の奥に老成した光を感じたから。  一同に挨拶をして、チェスニーはノァンに質問しながら鞄を開ける。  寝ていてノァンがわからないことは、傍らでワシリーサが詳しく返答する。彼女はスーリャと共に、ずっと昏睡状態のノァンを看病していたのだ。  目覚めたノァン思わず見詰めて、安堵にニカノールは頬が緩む。  そんな彼を振り返って、ノァンはいつもの無邪気な笑みをニッカと浮かべていた。 「ふう、よかった。ずっと眠りっぱなしだったからね。……あれ? スゥ? ほら、ノァンが……スゥ、えっと」  ワシリーサとは正反対に、スーリャは立ち尽くしていた。  その頬を、一筋の光が伝う。  彼女は、自分が泣いているのにも気付かず呆然としていた。  ハキハキとチェスニーの質問に答えていたノァンは、その姿に気付くやベッドを飛び出す。彼女がとてとてと眼の前に来て初めて、スーリャは我に返ったようだった。 「あっ、ノァン……その、えと、私」 「おはようなのです、スゥ! ……泣いてるですか?」 「えっ? あ……本当、だ。これは、涙……どうして、私」  ノァンはそっと手を伸べて、スーリャの頬の涙を拭う。そして、その指を舐めてニッコリと笑った。 「スゥの声、聴こえてた気がしました! アタシはそういう夢を見てたけど、夢じゃなかったです」 「ノァン、私は」 「ワーシャはニカ、みんなの声も聴こえてたです。だから、スゥもみんなと同じボウケンシャーの仲間なのです! だから、これからアタシはスゥを泣かせないように側にいるです」  あのスーリャが泣くなんて、これは意外を通り越して予想外だった。  だが、この場に満ちる笑顔は温かくて、スーリャもただの年頃の少女のようにボロボロと涙を零した。ノァンは背伸びして、その痩せ過ぎた身体を抱き締める。  ニカノールも心のそこからホッとしたが、気付けばこの場にいるはずの人間がいない。  ノァンのマスターにして製作者、フォリスの姿がどこにもなかった。  それでニカノールは、部屋を出て宿屋の中を当たってみる。談話室や食堂にもいなかったし、一緒に寝起きしてる部屋にもいない。  フォリスの背中を見つけたのは、洗濯物が風に揺れる庭だった。 「フォス! ノァンが起きたね。お疲れ様、本当によかったよ」 「ん、ああ。……色々とすまなかったな、ニカ」 「そういう時は、ありがとう、らしいよ?」 「そう、だな……ありがとう、ニカ。ようやく謎が解けたんだ」  フォリスの前に、即席の小さな祭壇があった。そこには果物が供物として少し並んでいる。そして、お香の匂いが煙となって青空へと昇っていた。燻る香りが自然と、教えてくれる……屍術師の仕事はなにも、死霊を使役しての戦闘だけではない。  フォリスのように街に住んでた者の大半は、冠婚葬祭が主な生業だ。  時に死者を弔い、時には生者が新たな家族を迎える手伝いをする。  コシチェイ家の御曹司であるニカノールも、最近フォリスに習って色々と学んでいるところである。 「謎は解けた、って……まさか、ノァンが眠り続けていた訳がわかったのかい?」 「ああ。お前と二人で古文書をひっくり返したり、統治院で調べた甲斐があったということだ。……実に単純なことだった」  フォリスはぼそぼそと呟くように、小さな声で語ってくれた。  もともとノァンは、フォリスの恋人と六人の友人、合計七人の死体をツギハギして生まれた死体人形である。その膂力と胆力は、常人の七倍を超える。頭は弱いが、要領を覚えれば人間の七倍のスピードで物事を処理できるのだ。  そして、そんなノァンの制作時に……ベースになった死体があった。  婚約者サリアの妹、タリアである。  秘密結社の狂信者達は、自分達のグロテスクな儀式のためだけに、七人を殺害した。全身をバラバラに切り刻んで、フォリスの結婚祝いの場を血の海にしたのである。そんな中で、辛うじて原型を留めている死体が、タリアのものだった。 「あの時、アンデッドキングとの戦いで……ノァンに封じ込められていた七つの霊魂が解き放たれた。ニカ、お前があの七人をようやく解放してくれたんだ」 「フォスが地獄の門を開けたからね。一時的に現世とあちら側が繋がって、アンデッドキングの力が吸い込まれた。その反作用で、僕達は普段より強い力の逆流を受け入れたんだと思う」  そして、フォリスは過去の親しき者達に本当の別れを告げた。  非業の死を遂げた恋人と友人達は、ようやく救われたのである。  だが、その直後からノァンは文字通り眠れる死体になってしまった。その原因を、ようやく突き止めたのだとフォリスは言う。 「ノァンは七人の死体からできている。そして、タリアをベースにしてるから……抜け出たタリアの霊魂に、まだ肉体の一部が紐付けられたままだったんだ」 「あっ! そ、そうか、それで……じゃあ、ノァンの人格や感情は」 「ノァンは、七人の誰でもない。だが、その肉体をようやくノァンは自分のものとして使えるようになったんだ。……それを、タリアは最後に許してくれたと、思いたい」  小さな祭壇は、弔いの火が灯っている。  どうやら、あの時にニカノールへ託された魂魄の一つ、フォリスの義理の妹になる筈だった少女のものが未練を残していたらしい。それを今、フォリスは送ってやってるのだ。  ニカノールも黙ってフォリスの隣に立ち、祈りを捧げる。  ノァンは彼にとっても大切な友人で、ある意味では男女や友情愛情では語れない絆を感じている。生まれながらに死を統べる者として存在し、うっかり死んだままで生きている。そんな彼の境遇はノァンにとても似ていたのだ。  言葉もなく、ニカノールはフォリスと黙って立ち尽くす。  背後に気配が立ったのは、そんな時だった。 「あの、フォス様……ニカ様。お邪魔、だったでしょうか」  振り向くと、そこにはワシリーサが立っていた。  風に揺れるたおやかな金髪が、抜けるような好天の下で静かに輝いている。それは、フォリスとニカノールの心の闇を、優しく照らす月影のような暖かさだった。 「お花を……わたしもまた、フォス様の御友人に助けられました。フォス様を愛した方にも」 「ありがとう、ワーシャ」  花を供えて、改めて三人で祈る。  こうしてフォリスは、ようやく己の過去を精算したように思えた。ニカノールの友は、復讐の過去に区切りをつけて、その原動力たる憎しみと哀しみをしまい込むことができたようだ。  こうして、二つのギルドを賑やかに騒がす、アンデッドのノァンが帰ってきたのだった。