世界樹の迷宮、第五階層……『円環ノ原生林』。  話には聞いていたが、カズハルが見渡す光景は圧巻の一言だった。酷く澄んだ空気はほのかに甘く、見上げる空には星々の海が広がっている。  どこかで小鳥がさえずっている。  獣の遠吠えも聴こえるが、まだ遠い。  おおよそ、神秘と未知に満ちた危険な迷宮という雰囲気は、ない。 「およ? カズハル様、どうしたんですか?」 「あっ、いや……ポン子、なんか妙じゃない? この階層」 「わたし的には、シリアスに決めてるカズハル様が妙ですね!」 「……ごめん、ポン子に聞いた俺が馬鹿だった」 「馬鹿なのは知ってますので、大丈夫です。さあ、進みましょう!」  ガシャガシャと鎧を鳴らして、ポン子はパーティの先頭に立つ。  はっきり言われると、少し傷付く……それも、周囲から同類に見られているポン子にである。正直、凹む。まあしかし、ここは気を取り直して調査を始めよう。  そう思っていると、いつもの頼れる仲間が左右に立った。  闇狩人のバノウニと、屍術士のアーケンだ。 「カズハル、先に進もう。実は、まだ全然探索が進んでなくて……今日はとりあえず、危なくなったらすぐに引き返す方向で」 「おう、だな! でも、クエストでは採集や発掘の依頼も来てる。手ぶらでは帰りたくねえもんだ。……ん、どした? カズハル、どうかしたか?」  バシバシとアーケンが背を叩いてくるので、先ほどと同じ言葉を投げかけてみる。  そう、妙なのだ……こんなにも静かで、静謐を讃えた空気が澄んでいる。平和な森そのものにも感じるが、カズハルの中のなにかが叫んでいる。不自然な大自然に、警鐘を鳴らしてくれてるのだ。  だが、アーケンはバノウニと顔を見合わせ、ハッ! と笑う。 「おいおい、臆病風に吹かれてんじゃねえぞ?」 「いや、ここは慎重に」 「そういうのはお前に任せっからよ。ちゃんと付いてこいや」 「あ、ちょっと! アーケンッ!」  ドスドスと大股で、アーケンは行ってしまった。  ポン子と二人、その背中が遠ざかってゆく。  肩を竦めたバノウニも、それに続こうとして脚を止めた。ふと、彼の視線を追う先で……カズハルも一瞬だけ呼吸を忘れた。ひょっとしたら、鼓動も止まったかも知れない。  二人が見詰める先で今、真っ赤な髪の麗人が野の花へと手を伸ばしていた。 「へえ、なんか意外……シャナリアさんも女の子、ってとこかな」 「だな」  吸血鬼の真祖、シャナリア。齢400歳を超える歴史の生き証人だ。ひょんなことから仲間になったこの女性は、ミステリアスで掴みどころがない。  だが、誰もが目を奪われる整い過ぎた美貌は眩しい。  あまりにも綺麗過ぎて、かえって不気味な底知れなさを感じてしまう程だ。  カズハルは周囲を警戒しつつ、シャナリアへと歩み寄る。 「シャナリアさん、先に進むみたいですけど……シャナリアさん」  カズハルの声に振り向き、シャナリアは立ち上がった。  その手に、青い花が握られている。  彼女はそれを、カズハルの鼻先へと突き出した。 「この花の名を知っているか? カズハル」 「えっ、いや……ちょっと植物は門外漢かな。でも、綺麗ですね」 「ああ、とても綺麗だ」  深いブルーは海の色、とても澄んでいる。見詰め続ければ、吸い込まれそうに思う程だ。その花を手にいらいで、シャナリアは僅かに目を細めた。 「名は、オーシャンビスカス。花を集めて搾れば、とてもいい染料になる」 「へぇ……って、やだなもう。シャナリアさん、知ってて俺に聞いたんですか?」 「ふふ、そうだな。知らないと思ったが、それも当たり前だ」  そう言って、シャナリアは花を顔へと近付ける。  香気を楽しむようにして、彼女は薄い笑みを浮かべた。  だが、放たれた言葉は意外なものだった。 「このオーシャンビスカスは、百年以上も前に絶滅した植物だ。お前たち人間が、あらかた採り尽くしてしまったのだ」 「え、それって」 「この花だけではない……木も鳥も、既に滅んだ種がちらほらと見受けられる」  シャナリアの言葉に、カズハルは絶句した。地上では既に、この青い花は絶滅しているという。恐らく、先程言っていた染料になるからだろう。  人間は時として、際限なくエゴと欲を暴走させてしまうことがある。  ふと立ち止まって冷静になった時、全ては手遅れというのも珍しくない。 「俺達、人間が……でも、どうしてこの場所に?」 「わからん。全く、わからんのだ……無知が恐ろしい。この階層には、今までとは違う空気が満ちている。この私さえ知らぬ、太古の大地を閉じ込めた世界なのかもしれん」  シャナリアは、手にした花を髪へと差した。  鮮血のように真っ赤な長髪に、青い花びらがとてもよく映える。  そうして彼女は、カズハルについて来いとばかりに歩き出す。 「この場所が、わざわざ太古の地表を模して作られた空間だとするなら……意図的に動植物が集められ、保管されているのだとするならば、だ」 「するならば?」 「それは、人間か、それに類する知性体の意思が介在しているということになる。世界樹の頂を望むこの場所に、果たしてどんな人間がこのようなものを作れるというのだ?」 「……神様、とかだったりして」  シャナリアは笑わなかった。  カズハルも、思えば馬鹿なことを言ってしまったと赤面してしまう。世界中には様々な宗教があり、多くの人たちが信仰を持っている。カズハルだって、遺都シンジュクで生まれて育ったので、地元のお祭りや年末年始の行事で、そうした概念を理解していた。  ここはまるで、世界を洗う洪水に浮かんだ方舟だ。  もしかしたら、人間の手から種を守るために作られた場所かもしれない。  そのことを正直に口に出したら、シャナリアは一瞬意外そうに目を丸めて……それから、笑った。 「なるほど。そういえば、カズハルはエトリアの地下深く、遺都シンジュクの出身だったか」 「あ、はい……なんか、国にいたころはなにもかもが当たり前に見えてたんですけどね。でも、外に出ると……結構、妙なとこだったな、と。それでも、俺のふるさとですけど」 「郷里、か」  ふと足を止めて、シャナリアがじっと見詰めてきた。  真っ赤な瞳に、自分の顔が映っている。  少し困惑したような、照れた表情だ。 「なんにせよ、お前たち冒険者はこの場所に到達したのだ。ここの動植物も順次、地上へともたらされるだろう」 「その時は……前より上手くやりたいっすね。ここのものを絶滅させたら、本当の意味で種が絶えてしまう。なんか、そういのって……寂しいじゃないですか」 「そうだな。期待しているぞ、人間」 「了解っす」  シャナリアはなにかを確認するように頷き、歩き始めた。その華奢な背を追いかけながら、ふとカズハルの脳裏をとある疑問が過る。  吸血鬼として永遠を生きる女、シャナリア。  あの暴王に師事したとも言われているから、半分神話の登場人物だ。そんな彼女は、ずっと一人だったのだろうか? 吸血鬼というのは、同胞のいない生き物なのだろうか? だが、それを聞くのは無遠慮過ぎると思い、カズハルは今は黙って歩くのだった。