少し遅い朝を迎えて、ニカノールはベッドを這い出した。  部屋にもう、ワシリーサの姿はない。  昨夜、初々しく泣き笑う彼女と恋人になった。どこかで恐れていた少女の柔肌は、ぬくもりと柔らかさでニカノールの全てを許してくれたのだった。 「なんか……こんなの初めてだ。夢見の夜魔亭のみんなとは、全然違う」  ワシリーサとの夜は、少し気恥ずかしくて、ぎこちなくて、そのもどかしさすら愛おしかった。まだ、気持ちが通い合った一夜を肌が覚えている。  でも、朝起きたなら起こしてほしかったな。  そう思えば、自然と笑みが浮かんだ。  手早く着替えて、食堂へと向かう。既に昼近くだから、随分とぐっすり寝ていたらしい。死んでから不死者になって、眠れぬ夜もあった。身を灼くような劣情に気が狂いそうな時もあった。  だが、今はこんなに清々しい。 「さて、なにか残ってればいいんだけど……ふふ、死んでもお腹は空くんだよねえ」  食堂に顔を出すと、すぐにワシリーサが目に入った。  視線を感じてくれたのか、ニカノールに気付いた彼女は立ち上がる。見れば、周囲にはあづさやまきり、シバやあさひ、スーリャといった面々が集っている。  どうやら、みんなで縫い物のお勉強のようだ。 「ニカ様、おはようございます。なにか召し上がりますか?」 「おはよう、ワーシャ。んー、そうだね……もうお昼近いし」 「台所を借りて、わたしが腕を振るいます。あづさ様のおかげで、随分手料理も覚えました。お裁縫だって、ほら!」  ワシリーサは、眩い笑顔と共に手にした布地を広げる。  どうやらセリアンたちの民族衣装でもある、着物……確か、浴衣とかいうのを縫っているようだ。白い生地に、色とりどりの魚が描かれている。  とても綺麗だと、素直に口にして頬が熱くなる。  浴衣もだが、ワシリーサの輝く笑顔が綺麗だと感じたのだ。  ワシリーサもそれに気付いたのか、頬を赤らめた。 「あ、あの、ニカ様」 「いや、えっと」  言葉が上手く出てこない。  そんな二人を、皆がニマニマと生温かい笑顔で見守ってくれた。  だが、シバが自分用の甚平とかいう着物を広げて笑う。 「二人ともどうしただか? んだ、ワーシャさは綺麗に縫えるようになっただよ。もう、オラより上手かもしんねえな!」 「え? あ、ああ……シバ、その」 「なした? おお、そうだ! ばば様、そろそろ休憩さすんべ。オラもなんだか腹が減っただよ」  優しげな笑みを浮かべて、あづさもうんうんと頷く。  結局、ニカノールはワシリーサを連れ出して、外で軽く食べることにした。なんだか、仲間たちの笑顔が妙な優しさで、少し居心地が悪かった。  なんとなくだが、まきりは察してくれたらしい。  勿論、あづさもわかってくれて、その上で口を出さなかった。  もうニカノールは、ワシリーサと恋人同士、そしてその先を共に考える道を選択したのだ。だから、まきりの赤飯がどうとか、肉がどうとかいう話は謹んで辞退する。  一方で、シバやあさひはまるでわかっていないようだった。  とりあえずニカノールは、ワシリーサの手を握って食堂を出る。 「ふう、なんか……ちょっと気恥ずかしいね」 「はい。でも、ワーシャは嬉しいです」 「僕もだよ。さ、なにを食べに行こうか……ん?」  ジェネッタの宿を出ようとしたが、なにやら庭のほうが騒がしい。  ちょっと顔を出すと、仲間たちが思い思いの時間を過ごしていた。ベンチではナフムとフリーデルがチェス盤を挟んでいる。チコリはチェスニーやキリールと薬草を煎じていた。  そして、元気のいい声が中央で弾んで響く。  新顔の格闘士、ジズベルトがノァンと拳舞に踊っていた。  逞しい巨体を裏切るスピードで、無数の拳が放たれる。  ノァンも、小さい全身をフルに使って打ち返していた。 「うりゃりゃりゃりゃりゃー! ねりゃああああっ! ここは押せ押せなのです!」 「ハッハッハ、振り回すだけでは当たりませんぞ」 「んぎぎぎぎぎ……パンチがパンチで弾かれるです! なんか凄いです!」 「さあ、もっと打ち込んできてください。筋肉に自分の動きを記憶させるように!」  どうやらジズベルトが、ノァンに稽古をつけてくれているようだ。  その体捌きや身のこなしは、流石は本職の格闘士である。ノァンは常人を遥かに凌駕する身体能力と馬鹿力を持つが、まだまだ技は練れていない。  対してジズベルトは、最小限の拳でノァンの攻撃を全て遮っている。  見事としか言葉が浮かんでこない。  隣のワシリーサも、呆気にとられて目を奪われていた。  背後で声がしたのは、そんな時だった。 「見事なものですね。ノァン様も身体のキレが以前とは段違いです。よかった……私では、蹴り技しか教えてあげられませんから」  振り向くと、珍しくスカート姿のヨスガが立っていた。普段はジャケットにズボンで、夢見の夜魔亭でバーテンダーをしている青年である。どこか柔和なその表情は、格好も手伝って女性にしか見えない。  だが、彼はノァンを見てうんうんと何度も頷く。 「珍しいね、ヨスガ」 「フォス様を訪ねてきたのですが、お弟子さんでしょうか? なにやら、逞しい体躯の少年と屍術師のお勉強みたいでした」 「アーケンかなあ……そういや彼、結構術の使い方が滅茶苦茶だからね」  女装の麗人であるバーテンダーと、下戸な上にダウナーな屍術師。一見して奇妙な取り合わせだが、ヨスガは「ああ、ちょっと違うんですよ」と笑うだけだった。  とりあえず、彼と少し雑談して、丁度オススメの店があると聞き出す。  ニカノールはワシリーサを伴い、ジェネッタの宿をあとにした。 「思えばうちもトライマーチも、大所帯になったなあ」 「それだけ、迷宮での冒険が困難なものになってますもの。皆様のお力添えがなければ、わたしは一人ではなにも」 「みんなそうだよ。一人じゃ世界樹の頂を目指すのは無理さ。でも、みんなが……ワーシャがいてくれる」  気付けばまだ、ニカノールはワシリーサの手を握っていた。  ワシリーサもそのことにハッとなって、離すと同時に腕を組んできた。  そうして二人は、連れ立って街へと向かう。  空は雲ひとつない快晴だ。 「午後は少し働かないとな……みんなが書いてくれた地図を集めて、そろそろ統合しようかなって」 「では、わたしもお手伝いします。同じ場所を歩いていても、皆様色々なことをそれぞれの地図に書き記してますわ」 「そうだね。同じ場所を目指していても、みんな一人一人が自分の地図を持ってるから」  地図は、世界樹の迷宮を調査する冒険者にとっては命綱だ。冒険の成果そのものであり、抜け道やトラップなどに記載漏れがあれば、パーティそのものが全滅しかねない。  同時に、ニカノールは思った。  今は、ネヴァモアとトライマーチ、二つのギルドは互いに支え合って進んでいる。  恐らく、もうすぐ世界樹の迷宮を踏破するだろう。  その時、今度は誰もが仲間とは別の地図を持つことになるかもしれないのだ。 「そういえば……世界樹の頂に辿り着いた者は、どんな願いも叶うんだったな。ワーシャ、なにか願いはあるかい?」  その問に、静かにワシリーサは首を横に振る。 「ワーシャの願いは、叶いました。こうして今も、叶い続けてるんです」  寄り添う体温に、溺れそうになる。幸せそうにはにかむワシリーサを見下ろし、ニカノールも自然と頬が綻んだ。  まずは、卵の中の針……自分の心臓を取り戻す。  それを今後どうするかも、世界樹の覇者としての願望も、今はこれからゆっくり考えればいい。その時はまだ、ニカノールはのんきにそう思っていたのだった。