世界樹の頂は既に、間近に迫っていた。  そして、その栄光に手が届くのは、今の所二つのギルドだけ。ネヴァモアとトライマーチ、二つのギルドは実力と名声を高めながら、遂に全ての地図を書き終えようとしていた。  イオン・クドラクは今、第五階層『円環ノ原生林』の最後の空白地へと脚を踏み入れる。  冒険者は評議会への報告義務があるため、なるべく正確な地図を作る必要があった。  地図に集中していると、周囲を警戒してくれているメイドのミサキが平坦な声を投げてくる。 「馬鹿様、じゃなかった、若様。この扉の先から異様な気配が」 「わーってる! この部屋で最後だが、よく見ろ……ニカたちが通った道、最奥に向かってた道と繋がったデカいフロアだ」 「それが、こちら側がまだ探索されてないということは」 「例の硝子張りみたいな川があったか、それとも……なにか障害があったか、だな」  仲間同士での連携、情報交換はこまめにしているつもりだ。  だが、両ギルドを合わせて三十人前後の冒険者が活動しているのだ。どうしても、些細なことやちょっとしたことを取り零してしまう。特に、デフィールやクラックスといった熟練者がそうだ。  二人にとっては、迷宮での驚異というのはそうそうあるものではない。  普通に通過するその一歩が、他の仲間には困難な道だと気付かないこともあるのだ。  そうこうしていると、報告義務違反の常習犯が声をかけてくる。 「イオン、いいかしら? あの二人が、先に進もうとしてるのだけど……フフ、面白そうね」  真っ赤な瞳を細めて、妙齢の美女は冷たい笑みを浮かべた。  吸血鬼、それも真祖……シャナリアだ。あの太古の大戦の時代から生き、かの暴王の師であったとさえうそぶく女性である。  この場所で一番危険な魔物とも言える彼女は、意外にもフランクだ。  ピクニックくらいにしか感じていないだろうし、彼女より強い驚異など数えるほどしか見つからないだろう。 「あらあら、まあまあ……若様。ナルシャーダ様とジズベルト様が」 「やれやれ、ジズベルトはともかくナルを止めないとな。でないと」 「でないと?」 「帰れなくなる。奴が持ってるんだよ、アリアドネの糸」 「……馬鹿様、何故そんなドラゴン級の危険な采配を」  シャナリアは呑気に、クスクスと笑っている。  そして前を向けば、無駄にキラキラした青年が扉の奥へと消える所だった。厳つい巨体を揺らして、ジズベルトもその背に続く。  慌ててあとを追えば、だだっ広いフロアがイオンたちを待ち受けていた。  地図を確認すれば、やはり以前に調査済みの場所と繋がっているらしい。  そして、この場所が敢えて避けられた理由をイオンは目にするのだった。 「こりゃまた……よくもこんなに集めたもんだな。ミサキ、背中を頼む。シャナリアさんは……あんまし派手にやらんでくれよ? 俺は二人を連れ戻す」  だが、遅かった。  ちょうど横にそれた道の影から、ナルシャーダが飛び出してきた。  そう、文字通り飛んでいた。  ふわふわと浮かぶ彼は、奇妙なポージングで五光を背負っている。 「フッ、なんて罪深い……私の美しさときたら」 「あー、すまん。えっと、ジズベルトは?」 「この奥に浮遊装置がある。彼もまた、私と共に美に舞うだろうさ」 「いや、そんな軽率なことはしないと思うが。それより、このフロアは危険だ」 「そう……危険過ぎる。こんなにも普通に美を極めた私は、それ自体が危険なのだ。主にご婦人にとって。フッ!」  なんだか頭が痛くなってきた。  だが、ジズベルトが歩いて戻ってきて、行き止まりの袋小路に浮遊装置があったことを教えてくれる。この装置を使うことで、冒険者は硝子の川を渡ったりできるのだ。ただ、浮遊中は真っ直ぐにしか進めず、壁にタッチするまで止まれない。  そのことを忘れているのか、ふわふわとナルシャーダが壁を蹴ろうとした。 「おい馬鹿っ、ナル! 見ろ、このフロアには魔物だらけだ。それも、洒落にならないレベルの強敵ぞろいだぞ」 「フッ、心配するな。既に読めている……奴らの間を縫うように舞い飛び、踊り馳せる! これはそう、私にのみ許された美の方程式! いざ、美クトリーロード!」  浮いてる最中は小回りが効かないが、確かに魔物たちをある程度避けることができる。ちょっと壁を使って自分を押し出すだけで、意外なスピードが出るからだ。  急いで地図を確認しようとしたイオンだが、遅かった。  ナルシャーダは「とうっ!」と、ポーズを決めたまま飛んでいった。  ジズベルトは逆に、歩いたまま魔物の住処へと踏み出してゆく。 「おーい、ジズベルト!」 「なに、心配無用。ナル殿になにかあったらと思いましてな」 「なにか、って……もう半ばやらかしてるんだが」 「ハッハッハ、左様。しかし、これで地図がまた少し埋まりましょうなあ」 「奴が生きて帰ってきたらな」  その時、悲鳴が響いた。  ややあって、必死の声が届いてくる。 「グッ! 痛い! この私に激痛美を……ええい、トゲトゲの鳥! 何故そこに、グッ!」  どうやら、真っ直ぐ進んだ先で魔物にぶつかったようである。空中移動の最中は、あまりにも無防備だ。続いて、どんどん声は普段の余裕と優雅さを失ってゆく。 「今度はなんだ、何故……とっ、とと、止まれ! 停止美! ってオイ待て、なんだそれはグアアアアッ!」  フロアを打撃音が突き抜けた。  そしてイオクは、思い出す……極稀に、触れる全てを殴り返す厄介な魔物がいたはずだ。これらはFOEと呼ばれ、存在感が強いため察知も容易だ。可能な限り避けることが最善だし、戦って勝利するは難しいが、極めて希少な素材を手に入れることもできる。  どっちにしろ、一人で勝手に飛んで行ったナルシャーダは、進む先々でEOFに引っかかってるらしい。 「やれやれ……お? 戻ってきたな。おーい、ナル! 生きてるか?」 「……美しく、ない……見るも無残な、敗北美……美しみが、なくなって、しまった」 「とりあえず、どの辺飛んで回ったか教えてくれ。地図を書く」 「私が織りなす美の軌跡、ふむ……ああ、ジズベルト、ありがとう。感謝する私も美しい……」  見ててかわいそうになるくらい、ナルシャーダは弱っていた。勝手に飛び出すからだと思ったが、彼はジズベルトに手を惹かれて浮遊装置の方へ向かう。まるで、子供が百貨店でもらう風船のようだ。  その背を見送っていると、不意にミサキが気配を強張らせた。  優秀なメイドが、接近する敵を察知した……そう思って振り向くと、シャナリアの笑みが静かに響く。 「あら、これはかわいいお客さんね。イオン、彼女は貴方になにか言いたいみたい。そう……私も長らく生きてて、初めて見るわ。この子が、世界樹の」  そこには、ローブを被った一人の少女が立っていた。  確か、名はアルコン。  冒険者たちの行く先々へ現れ、助言や手助けをしてくれる謎の乙女である。  彼女は真っ直ぐイオンを見詰め、静かに口を開いた。 「冒険者よ、ついに汝らは世界樹の迷宮を踏破しつつある」 「そりゃどーも。そっちから接触してくるなんて珍しいな……なにかようがあるんだろう?」 「察してもらえるのはありがたい。単刀直入に言う……コシチェイ家の嫡子にして、不死者の眷属、死の後先を歩くもの。ニカノール・コシチェイに伝えてもらえないだろうか」  ――信頼できる仲間を四人選りすぐって、会いに来てほしい。  確かにアルコンはそう言った。  その意味はまだ、イオンにはわからない。だが、一見して無表情なアルコンの瞳には、切実ななにかが燃えていた。  シャナリアさえも知らぬ神秘が今、少女の口から語られようとしていたのだった。