深い闇の中に、ニカノールは浮いていた。  ぼんやりと定まらぬ意識が、時間も空間も曖昧にしてゆく。  どうにか思考を結んでみようと思うのだが、頭が上手く働かなかった。 『僕は……あれ? ここは……』  誰かの泣き声が聴こえた。  よく知ってる声だ。  なにもない静寂の中で、泣きじゃくる声だけが反響して響く。  そして不意に、世界が開けた。 『ニカ、こっちじゃ。ワシもびっくりじゃが、すまんのう』  気付けばニカノールは、よく見知った廊下を歩いていた。  前を歩くブラニーの矮躯は、仲間のメルファだ。ということは、間違いなくここは彼女が女将を務める娼館、夢見の夜魔亭だろう。  多くの男女が一夜の夢に酔いしれる、ここは花街で一番の売春宿だ。  客室へと歩くメルファを追いかけ、ニカノールは記憶を整理する。 『僕は確か……そうだ、あの巨大な闇! 人類が乗り越えるべき、試練を……そして?』 『なにをゴチャゴチャ言ってるんじゃ。……あ! ワシか、ワシなのか! 駄目じゃあ、ワシはこう、流石に親しいギルドの長を……で、でも、ニカの青い欲望がワシを求めるなら』 『あ、それはないです』 『……左様か。ま、こっちじゃ。ほれ、なんとかしてくれんかのう』  いつものメルファの、早とちりな妄想癖をスルーする。  なんとか頭が冷静さを取り戻してきた。  その頃には、ニカノールは開け放たれた扉の前に立っていた。覗き込めば、客室の中は真っ暗だ……そして、幼子のように泣く声が響く。  その名を思い出せたので、そっとニカノールは声をかける。 『ノァン? そこにいるのかい? えっと、どうしたんだろう……なにを泣いてるの?』  声の主は、友人のノァンだ。  同じ不死者仲間で、やたらと気が合う親友である。妹のような、弟のような、とても親しくて、気付けば懐いてくる彼女がかわいらしいと思っていた。  そんなノァンが、暗闇の中で泣いていた。  躊躇なくニカノールは、自分も闇の中へと歩み出る。 『ニカ、ですか? アタシ……う、ううっ』 『なにかあったんだね? 大丈夫かい、ノァン』 『少し、大丈夫じゃないです……でも、ニカ、アタシ……』 『とにかく、そんなところにいないで出ておいで。今夜のお姉さん、あまり優しくなかったのかい? メルファの見立てだから、器量の良さそうな子だったけど』  だが、ゆらりと浮かび上がる白い肌に、ニカノールは目を見張った。  泣きながら出てきたノァンの全身には、無数の縫い傷が浮かんでいる。死体を継ぎ接ぎで掻き集めた、その傷跡が興奮状態になると現れるのだ。  幼く愛らしい顔に、ふくよかながらも引き締まった小柄な肢体。  そして、可憐な少女の容姿を裏切る、雌雄同体の全裸に無数の傷。  恐らく、今夜の相手を驚かせてしまったのだろう。  ニカノールはゆっくりと彼女に歩み寄り、そっと頭をポンと撫でる。 『ノァンは悪くないよ。それに、びっくりしただろうけど、女の子に嫌われた訳じゃないさ』 『そ、そですか? ……ニカは怖くないですか?』 『僕が? はは、僕の家族や一族に比べたら、全然。ほら、気持ちが落ち着いたのかな……傷が消えてく』 『ほんとです……エヘヘ、よかったです。アタシ、ちょっとがっついてたかもです!』  涙を手で拭いながら、ノァンがはにかんだ。  確かに、こんなことが以前あった気がする。不死者というものは、満月の夜にどうしても飢えを感じる。失われたものへの渇望が抑えられず、三大欲求が制御不能寸前まで昂ぶるのだ。  そんな時、二人はどちらからともなく誘い合って、夜の街に繰り出したものだ。  だが、おかしい。  今、こうしてノァンをなでているのは、現実じゃない気がするのだ。 「そうだ……僕は……ッ! 僕は! ――あ、あれ?」  絶叫と共に、ニカノールは身を起こした。  それで自分が、ベッドに寝かされていたと気付く。  先程のノァンは、夢だったのだ。  そして、それを思い出させるように現実は痛みを与えてくる。見れば、自分は包帯だらけで負傷していた。  今ならはっきりと思い出せる。  ニカノールたちは、アルコンの示す試練に負けたのだ。 「よぉ、ニカ……目、覚めたな?」  気付けば、枕元の椅子にナフムが座っていた。  彼も満身創痍で、右腕はギブスを巻かれて首から吊っている。  ナフムの説明で、ニカノールはあの時になにが起こったかを知るのだった。 「全く歯が立たなかった。惨敗さ……フリーデルのやつはまだ、意識が戻らねえ。まあ、殺して死ぬようなタマじゃねえがよ」 「そうか……僕たちは、それで」 「ああ、逃げ出した。……逃げられた、逃されたっていうか、な。ノァンの奴が」 「ッ! そうだ、ノァンは! フォスは!」 「まあ落ち着けって」  ニカノールはベッドを飛び起きた。  そのまま部屋を出れば、慌ててナフムが追いかけてくる。  そう、ニカノールたちは負けて逃げ出したのだ。  九死に一生を得た、それはノァンのおかげだと思い出す。 『ニカ、アタシにいい考えがあるです! 前、アンデッドキングと戦った時、アタシから沢山ふわふわーってのが出たです! だから――』  そう、彼女はニカノールに危険な賭けを頼んできた。  そして、戸惑うニカノールに代わって、友人にしてノァンのマスターであるフォリスが術を実行した。禁忌に再び触れる、恐ろしい術を施したのである。 『逆に、こぉ、死霊パワーをアタシに入れるです! きっと、ものすんごいパワーアップして、みんなが逃げるまで時間が稼げる気がするのです! アタシ、頭いいです……ニシシ!』  ナフムの話では、その場に集められた死霊の全てを、フォリスはノァンの中へと凝縮して注いだ。死者の霊魂である死霊は、それ自体が巨大なエネルギーの集合体である。それを制御するのが、屍術師の技量という訳だが……単純な爆発や防御ではなく、それ自体をエネルギーとして取り込めば、どうなるかは明白だった。 「結果として、俺たちは生きてる。なあ、ニカ……これからどうする?」 「どうする、って……決まってるさ。負けたけど、まだ終わりじゃない。終わってなんかいないし、終わらない限り、まだ……」  自分に言い聞かせるように呟き、階段を降りる。食堂へ行けば、他の仲間たちに会えるだろう。すぐにパーティを再編成して、あの場所に戻らなければいけない。  人類が新たなステージへと進むための、これは通過儀礼だと思う。  だが、ニカノールの心が折れずにいるのは、大いなる使命のためではない。  もっと簡単で、単純なもの……冒険者として、一人の人間として当たり前の気持ちがあるからだった。  だが、食堂のドアを開いたニカノールは、意外な光景に目を丸くした。 「よーし、俺たちも行こうぜ! ネヴァモアとトライマーチにばかり、いい顔されてたまるかよ!」 「見てくれ、奴の攻撃パターンがだんだんわかってきた」 「やっぱ、攻守共に隙がねえな……特にあの、ブレス攻撃が厄介だ」 「上手くピンポイントで、頭部や腕部、脚部を封じて縛れば……あるいは」 「それな、試してみたけど結構厳しいぜ? 耐性があるみたいだ……けど、狙う価値はある」 「手応えは感じてるんだがなあ。どうする? もっと大勢で、数で押してみるか?」 「よせやい、身も蓋もねえだろそりゃ。それより、あの女の子を助けてやらないと」  無数の冒険者で、食堂はごった返していた。ナフムの話では、全滅したニカノールたちの話を聞くや、ありとあらゆる冒険者たちが立ち上がったという。  見れば、忙しく飲み物や食べ物を配膳してるのは、ラチェルタやマキシア、そしてワシリーサだ。  どうやら、ニカノールは一人じゃないらしい。  そればかりか、偉大なる挑戦に向き合うギルドは、ニカノールたちだけじゃないようだ。  老若男女を問わず、多くの者たちが瞳を輝かせている。  冒険者の探究心と好奇心が、世界樹に待ち受ける最後の冒険に燃えていた。 「ナフム……僕は」 「おう、また挑むか? 俺はこのザマで行けそうもない。けど、無駄じゃなかったさ」 「君の盾が、ギリギリでみんなを生き残らせた。だから、ノァンだって」 「だな。さて、どうする? 少しずつ情報は集まっちゃいるがね、死人が出るのも時間の問題って感じだしよ。それに」 「それに?」  ――手柄が取られちまうのは勘弁な!  そう言ってナフムは、傷だらけの笑顔を浮かべるのだった。  つられて笑ったニカノールは、自分に気付いて駆け寄ってくるワシリーサに押し倒されそうになる。全身を浴びせるように抱き着いてくる婚約者は、涙に濡れながらも微笑んでくれた。  まだ、戦いは終わってはいない……そして、終わるならそれは勝利した時だ。  アルコンが世界樹の奇跡で呼び寄せた者として、なにより一人の冒険者として……まだまだニカノールの胸には、絶望に抗う強い気持ちが燃えているのだった。