スーリャが世界樹の頂にたどり着くと、そこには無残な光景が広がっていた。  今まで、傷付いた人間に心を動かされたことなどなかった。  死体にだって、特別な感情を感じなかった。  だが、今は同じ世界樹を旅する冒険者たちの声に心が痛む。巨大な扉の周囲では、多くの怪我人が手当を受けている。皆、あの恐るべき敵にやられたのだ。  それを知って尚も、歩みは止まらない。  扉へ向かおうとすると、馴染みの声が彼女を呼び止めた。 「これ、スゥ! お主、なにをやっておるんじゃ」 「メルファ。私は」 「あっ! わ、わかったぞよ……お主、ノァンを一人で助けるつもりじゃろ! そうしてあの、アルコンとやらの願いも救って、最後にはノァンと……ひっ、ひああ……ッッッ!?」  またメルファが、お馴染みの妄想癖を暴走させている。  だが、思わずスーリャは頬を赤くして俯いた。  その通りだからだ。  例え一人でも、ノァンを助けたい。最後にはと言わず、これからも……今までのように愛し合いたいのだ。ノァンの、無垢で純真な飾らない言葉に触れたい。  それは、闇から闇へと影の中を生きてきたスーリャが掴んだ、光。  そして、眩しく輝かしいのは、それだけではなかった。 「メルファ、止めるな。私は行く……それに、ニカやワーシャ、みんながいる」 「ま、待て待て、危険じゃ! 手練の冒険者が五人掛かりでもコテンパンなんじゃぞ」 「……なら、私は冒険者をやめる。昔の私に戻ってでも、ノァンを助ける」  それだけ言って、歩き出したその時だった。  不意に、バン! と扉が開かれた。  そして、濃密な魔素の奔流が溢れ出る。その億は、闇……一条の光さえ刺さぬ、奈落の深淵の如き暗黒が広がっていた。  その中から、見事な体躯の男が現れる。  ネヴァモアに所属するセスタス、ジズベルトだ。彼は両肩に怪我人を担ぎ、自身もかなりの出血だ。それでも、普段の紳士的な笑みをスーリャに向けて扉を締める。  あっという間に、救護に備えていた者たちが駆け寄った。 「チコリさん、薬草を……この音と匂い、命に別状はありませんね。でも、急いでください」 「はいっ、キリールさん! 今こそブラニー魂を燃やす時ですね!」  いやいやチコリはアースランだぞ……思わずスーリャは心の中で突っ込んだ。  そして、ハッと気付いて冷静になる。  今、目の前を死が通り過ぎた。  ジズベルトやキリール、チコリといった者たちが助けねば、あの冒険者は死んでいた。そう、この億に鎮座する原初の恐怖、あらゆる負の力の根源によって。  そんなスーリャを見透かす声が、静かに響いた。 「君は確か、トライマーチのスーリャ……ふむ、私もスゥと呼んでいいかな?」  小さなブラニーの少年が、スーリャを見上げていた。  子供に見えて、本物のブラニーというのは年齢が分かり難い。物腰穏やかで落ち着いた青年は、チェスニーと名乗った。  彼はスーリャに、軽挙妄動を戒めつつ怪我人に駆け寄る。  キリールの手当を受ける重傷者の前で、チェスニーは帳面を開いてペン先を舐めた。 「ああ、君。悪いが麻酔が効いてくる前に教えてくれ給えよ。奴は今回、どんなだったかな?」 「あ、ああ……強烈な、刺突、グッ! ハァ、ハァ……後列ごと、やられて……皆、パニックに……混乱の、中で、俺たちは」 「ふむふむ。なるほど、新しい発見だ。他には?」  そっとキリールが、チェスニーを手で遮ろうとする。  だが、血塗れの男はその手を振り払って、繰り返し何度も恐怖と脅威を訴え続けた。それをチェスニーは、頷きながら書き留めてゆく。  それは、果てしない戦いに思えた。  以前のスーリャならば、効率が悪くリスクばかりの戦いだと切り捨てていただろう。だが、今は違う。そして、変われた理由をチェスニーが口にした。 「小さな女の子がいなかったかな? そう、全身に縫い目の浮き出た、肉付きのいいセスタスの女の子だ」 「最後、に……見た、時、は……俺たち、を、逃がす、ために……あ、あれは、でも……人の、人間の、戦いじゃ、ない」 「うんうん、そうだね。でも、誰かのための戦いだ。ありがとう、もう眠るといい」  男は薬草の香りに誘われ、ゆっくりと眠りに落ちていった。  そして、チコリが戻ってきて、薬と包帯とが傷口を覆ってゆく。  もう、スーリャは冷静ではいられなかった。  早くノァンを助けにいかねば……その気持だけが今、彼女の心に燃えている。冷たく凍っていた胸の奥に、あの日の仲間たちが点火したぬくもり、それが今は燃え盛っていた。  愛用の大鎌を手に、扉へ向かう。  最後に振り返ると、誰もが絶望の中で戦っていた。  怪我と戦い、怪我人を救う戦いを行い、助ける戦いの中で傷付いている。  その都度、冒険者たちは僅かに前進してると思いたかった。 「待たれよ、スゥ殿! 一人では――」  ジズベルトがなにか言いかけた、その言葉に籠もる気持ちだけを受け取る。  そうして、スーリャは扉を開いて中へと飛び込んだ。  暗黒をも見通す闇狩人の瞳が、すぐに周囲の暗さに慣れていった。 「っ、酷い空気だ。普通の人間ならば三分と持たない。ノァン! どこだ、ノァン。私が助けに来た、どこにいるんだ! ……お願いだ、返事をしてくれ」  だが、スーリャの悲痛な声に応えたのは、闇。  闇そのものとしか思えぬ巨大な異形が目の前に降りてきた。古代の伝承にある竜とて、これほどまでにおぞましい禍々しさを発してはいないだろう。  無数の魔物を始末してきたスーリャにも、その恐るべきプレッシャーが降り注ぐ。 「これが……ニカたちの言っていた、幽冥なる原初の主」  直視するだけで、気持ちが折れそうになる。ともすれば、正気を失い泣き叫んでしまいそうだった。だが、スーリャは鍛え抜かれた鋼の精神力で自分を律する。  そそり立つ巨躯の頭部、地獄の業火のように一つ目が光っていた。  そして……長い一本の角に今、力尽きたかのような少女が串刺しになっている。  それを見た瞬間、スーリャの全身から瘴気が溢れ出た。 「あれは……ノァン! あ、ああ……返せ、返せっ! ノァンは、私の……うわああああっ!」  全身の血が沸騰して、周囲に淀んだ黒い空気を振り払う。全身から吹き出す瘴気が兵装となって、まるで鎧のようにスーリャを包んだ。  暗闇を纏う影そのものとなって、スーリャは大鎌を翻す。  跳躍は、頭上から雷の雨が注ぐのと同時だった。  瞬時に部屋の広さを掌握し、高い天井を蹴り上げ壁へと翔ぶ。そのあとを、恐るべき攻撃が次々と襲った。スーリャの限界を超えた動きでさえ、付け入る隙が見当たらない。  焦れるばかりで、徐々に自分を守る瘴気の装甲が削られてゆく。 「くっ、どうすれば……せめて、ノァンだけは! ……いざとなれば、この呪わしき血を使って」  漠然とだが、自分がこの世ならざるモノとの混血児であることは気付いていた。そして、その忌まわしき血は爆発的な暴力を生むとも知っている。それを解放したことはないが、今こそその時だとスーリャは決断した。  だが、尾を引く流星の如く周囲を飛び回っても、敵は無言で攻撃を続けてくる。  雄叫びも、唸り声もなく、ただ淡々と生ある全てを塗り潰すように。 「懐に飛び込めば……一撃、ただ一撃でいいんだ。その隙にノァンを――!?」  衝撃がスーリャを襲った。  あっという間に、身を守る瘴気の対流がかき消える。闇を操る秘伝の技が、闇そのものによって容易く引きちぎられた。  その時にはもう、スーリャは全身から血を吹き出して落下していた。  瞬時に自分が即死級のダメージを負ったと知る。  死んでないのは、ただの幸運だった。  巨像の如き悪意の権化にとって、スーリャは周囲を飛ぶ羽虫以下だったのだ。 「ぐっ、あ、ああ……ああっ! ノァン! 私は……こんな、ことではっ!」  鮮血を吹き出し落下する先で、巨大な爪が持ち上がる。  トドメへと吸い込まれる自分をもう、スーリャはどうすることもできなかった。  だが、二つの閃光が走る。  互いに瞬き合う双子星のように、光が地獄の鉤爪を僅かに退かせた。  そしてスーリャは、ありえない声を聞く。 「みっ、みみみ、見た? ボッ、ボボ、ボッ、クッ……ボクたちの剣でも、当てればいけるよ!」 「お、おうよ! そっ、そそ、そうだなチェル! なら、オレとお前とで」 「うんっ! やっつけちゃおう! そうしようよ!」  互いに震えて竦みながらも、巨悪の前に二人の少女が立っていた。あまりにも頼りないその背中を見ながら、スーリャは誰かに抱き留められて意識を失うのだった。