ニカノールは信じられないものを見ていた。  この場にいない筈の人、いてはいけない人……ワシリーサが立っているのだ。彼女はそっと前に歩み出ると、ニカノールの前まできて見上げてくる。  そして、信じられない言葉が静かに響く。 「ニカ様、わたしが……ワーシャが助けに参りましたっ!」  ニカノールにとって、最も守りたいと思うもの。絶対に守り通したいと思う者こそが、ワシリーサだ。その彼女が、普段と変わらぬ笑顔で目の前にいる。  そして、助けに来たと言うのだ。 「ワーシャ、君は」 「はい。ワーシャはニカ様の許嫁、妻となる身です。夫が戦うならば、ワーシャはそれを一番近くで支えますっ」  そっと、華奢な肩に手で触れる。  ワシリーサは震えていた。  そして気付く。  震えているのは、自分も一緒だった。  無意識にニカノールは、胸の奥底に恐怖を沈めて戦っていた。それほどまでに、幽冥なる原初の主は恐ろしい。純粋なる暴力の権化は、人類が超えるべき試練というにはおぞましすぎた。  恐らく、一緒に戦ってくれる皆がそうだろう。 「ワーシャ、僕はね。僕は……正直、ちょっと怖かったんだ」 「ええ、ワーシャもです。でも、だからこそ、ワーシャがお側に。その、フレッド様やシシス様のようには、いかないかもしれません。でもっ、ワーシャはニカ様のお手伝いがしたいんです!」 「……うん、ありがとう。ワーシャ、これからノァンを助けて、あのバケモノを始末する。手を貸してくれるかい?」  ワシリーサはいつもの眩しい笑顔で「はいっ!」と大きく頷いた。  ワシリーサが魔導師の力を持ち、魔法を学んでいたことは知っている。しかしそれは、良家の御令嬢としての嗜み程度だ。その術を持って、生きるために戦ってきた訳じゃない。  同時に、ニカノールは覚えている。  忘れることなく、毎日しっかり己に刻みつけてきた。  この世界樹の迷宮で、彼女は弱い自分を常に鍛え、あらゆることに挑戦して己を磨いてきたのだ。全ては、ニカノールのために……そんな彼女を、そっと抱き締める。 「ワーシャ、側を離れないで。僕が君を守る。そして、一緒にみんなと守ろう。騒がしくも輝かしい、なんでもない日々を」 「はい……どうかワーシャの力をお役立てください。この命を、想いを、全てをニカ様に捧げます」  目の前に殺意が広がる中、巨大な闇の塊を前に……ニカノールはワーシャとくちづけを交わした。僅か一瞬にも満たぬ中で、呼吸を重ねて体温を分かち合う。  そして、二人を中心に再び死霊がゆっくりと湧き上がる。  既にニカノールの体力は限界に近い。  無理をさせすぎたからか、フォリスは倒れたまま動かなくなっていた。  だが、諦める訳にはいかない。  その理由は今、腕の中にある。 「よし、みんなっ! 最後の勝負だ。持てる力の全てで、このバケモノを倒す」  まだ、戦う力は残っているか?  その問いに応える仲間たちがいる。  広間のあちこちから、頼もしい声が返ってきた。 「ワーシャ、きてくれたんだねっ! ニカ、ボクたちなら大丈夫。前衛は任せて!」 「おっしゃ、これは必勝の逆転パターンってやつだぜ! へっ、やってやらぁ!」 「チェル、マキ! 次で決めるわ。全部出し切る……全力でっ!」  いつもならもう、立ち上がる力なんて込み上げてこない筈だ。  それほどまでに少女たちは、酷いダメージを全身に受けている。  でも、それでも。  誰一人として、諦めを感じていない。  絶体絶命の中でも、皆の瞳には強い光があった。 「へっ、キレちまったぜ……本気も本気、全力全開だ! マキッ!」 「うんっ! やっつけちゃおう。こんなの、野放しにしておけない。それに」 「そうよ、チェル。それに……私たちまだ、辿り着いてない! この先、世界樹の頂に!」  瘴気に濁った薄暗い部屋に、満月のような輝きが満ちる。  それは、ワシリーサが励起させる雷の光が、黄金の鱗に反射しているからだ。ラチェルタは今、父親から受け継いだ力の全てをさらけ出す。ゆるゆると揺れる尾を翻して、金月蜥蜴の少女は風になる。  ニカノールは迷わず、残った死霊の全てを掌握した。 「残りは、三体。一体は壁に残して、残りで……いけるかな? いや、いける……いってみよう、みんなっ!」  迷わずニカノールは、周囲に浮かぶ死霊の一体を解き放つ。  呪詛を低く唸るように発して、死霊は敵の眼前で爆散した。  一時的にあらゆる防御力を下げる、死霊の呻きだ。  その時にはもう、閃光の如き斬撃が払い抜けていた。ラチェルタの動きは既に、光も音も置き去りにするような疾さだ。  そして、人間を超えた速度を追って、ワシリーサの電撃が炸裂した。 「チェル様っ! マキ様と一緒に!」 「チェインで繋いでッ!」 「結んで、紡ぐっ! これがオレの……オレたちのっ、本気の一撃っ!」  広がる招雷、その中に無数の星が瞬いた。  見知らぬ星座を縫い上げるように、少女たちの剣が闇を切り裂く。  幽冥なる原初の主も負けじと、おぞましい声を張り上げ爪を繰り出す。  すかさず防御に繰り出した死霊が、一瞬で切り裂かれる。そして暴虐的な攻撃が、ワシリーサを背に庇うニカノールに迫った。  だが、半裸の少女が風と舞う。 「させないわっ! 決めたもの……私、おぼあちゃまみたいにみんなを守る。守り通す……それがきっと、絶対に私の騎士道だからっ!」  レヴィールの剣が、その細く研ぎ澄まされた刃がしなる。比べ物にならないほど巨大な質量とスピードを、まるで清水へ分け入るように流して殺す。  その瞬間にはもう、ニカノールは最後の死霊に精神力を注いでいた。  ワシリーサの最後の魔法と共に、膨大な熱量が死霊へと凝縮してゆく。 「浄戒の炎よ、闇を払って……ニカ様!」 「うん! ここで決める、絶対に! ……だから、ねえ。そろそろ起きてよ、ノァン」  幽冥なる原初の主を巨大な獄炎が包む。これだけの術を行使できるほどに、ワシリーサは成長していたのだ。その業火が熱気をはらんで、大いなる闇を飲み込み渦巻く。  その瞬間を見逃さず、死霊が真っ直ぐに飛んだ。  皆、気付けば絶叫していた。  ニカノールも、身を声にして叫んでいた。 「ノァン! スゥが迎えにきてるんだよ!」 「ノァン様!」 「ノァン、早く帰ってご飯にしようよ!」 「いつまで寝てやがるっ、ノァン!」 「ノァン、みんな待ってる! 待ってるから!」  ふわりとノァンの矮躯が、浮き上がった。強烈な魔法の焔が、部屋中の空気を気流に変えている。それは、己を焼かれて身悶える闇から、その先端から……一人の少女が宙に舞う。  迷わずニカノールは、最後の死霊をノァンの中へと注ぎ込む。  ビクン! と震えた死体人形が、無音で天井に着地し、中空の大地を蹴る。  そして、ニカノールは初めてみた。  この世の恐怖を凝縮したような邪悪が、小さな少女が突き刺す蹴りに……初めて恐怖と怯えを見せるのを。  全員の力を重ねて束ねた力は、完全に原初の闇を穿ち貫き、焼き砕いたのだった。